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更待月





門裏で、影が動いた。


 高成は半ば開いた裏門の脇、土塀に背を沿わせたまま、足裏で地面の硬さを測る。乾ききらぬ土の沈み方、踏み込み一歩の滑り、刀身が届くまでの間合い。そうしたものを、呼吸より先に身体へ落とし込む。


 薄暗い塀際には、湿った土と藁の匂いがこもっていた。

 人が息を殺す時にだけ生まれる、不自然な静けさもある。


 裏へ回った追っ手は四。


 そのうち一人は、先ほど物陰に沈めた。様子を見に寄ったところを落とし、声も上げさせていない。戻らぬことを不審に思ったのだろう。残る三人が、門の外で気配を寄せている。


(……忠興の意図を、理解していないのか)


 わずかに、呆れがあった。


 本来ならば、裏の者どもは伏せたまま待つべきだった。表で動きが起こればそれを合図に囲み、裏からこちらが脱出するなら、それを本隊へ伝える。それが役目のはずだ。


 伝令が一人消えた程度で覗きに来るとは、焦りが先に立っている。

 若手の実力不足を、このような形でも実感するとは思わなかった。


 (だが、こちらとしては好都合だ。)


 探す手間が省けた。


 高成はゆるやかに腰を落とした。

 柄にかけた指だけが、静かに締まる。


 門板の隙間に、影が差す。

 次いで、男が内を窺うように顔を入れた。顎を突き出し、庭の奥へ目を走らせる。


 その刹那、高成は動いた。


 低く沈めた重心のまま、一歩で懐へ滑り込む。

 抜き打つまでもない。握り替えた刀の峰を、下から顎へ打ち上げ、その返す勢いのまま首筋へ叩き込む。


 鈍い音。


 歯の鳴る硬い感触が手に返り、男の目が裏返る。悲鳴になる前に膝が落ち、門の内へ崩れ込んだ。


「行け!」


 短く、後ろへ投げる。


 言葉に応じたというより、その気配に弾かれたのだろう。

 漆駒が耳を伏せ、地を蹴った。


 黒い巨体が横を擦り抜ける。

 まいの気配が一瞬だけ高成の脇を過ぎ、次の瞬間には、裏門の隙間を裂いて路地へ飛び出していた。


 蹄が石を打つ乾いた音。

 風を切る尾。

 それだけで十分だった。


「女が逃げたぞ!」

「っクソ…!」


 門の外から上がりかけた声を、最後まで言わせぬまま、もう一方へ身体を返し、肩口への一太刀で沈める。


 それを後方から見た残る一人は、ほんの一瞬だけ判断を誤った。

 逃げるべきか、高成へ斬りかかるべきか、その迷いが足を止めた。


 遅い。


「ッ、この……!」


 怒号とともに振り下ろされた刃を、高成は半歩だけ踏み込んで外す。肩先を掠めて落ちた刀の軌道へ、自らの刃を横から叩き込んだ。


 甲高い音。


 手の内を砕かれた男の刀が弾かれ、闇へ回る。高成はそのまま間を詰め、空いた胴へ躊躇なく蹴りを入れた。


 骨ではなく、呼吸を潰す位置。


 男の身体が門柱へ叩きつけられ、肺の空気が潰れた鈍い音を立てる。くの字に折れたところへ、返した峰を後頸へ打ち込む。


 それで終わった。


 前のめりに崩れた身体が、砂を巻いて止まる。


 裏手は静まり返った。


 荒い息も、足音もない。

 ただ、倒れた男たちの身体から遅れて落ちる砂の音だけが、やけに明瞭だった。


 高成は刃先をわずかに払うようにして血の有無を確かめ、納刀する。


 この場は、終わり。


 ――そう判断した直後。


 商家の表から怒号が響いた。


 ひとつではない。複数。

 足音も混じる。陽動に回っていた連中が動いたのか、それとも裏の異変に気づいて寄せてきたのか。いずれにせよ、騒ぎが大きくなれば町の者まで巻き込まれる。


(……来たか)


 目が、わずかに細まる。


 まいはもう包囲を抜けている。

 ここで自分も退くのが理としては正しい。


 だが、このまま騒ぎを広げれば、商家の者も、周囲の町人も無事では済まないだろう。


 胸の内で、小さく息を吐く。


(……無駄なことを)


 切り捨てるべきものは、とうに決めたはずだった。


 なのに結局、見過ごせぬ方へ足が向く。


 高成は倒れた兵の脇を踏み越え、陽の差す表へ視線を向けた。


 次に斬るべき相手の位置を、すでに探り始めている自分に、わずかな嘆息だけを落としながら。







***



───商家の表門にて。


「門を開けろ!」


 怒号が、厚い板戸を震わせた。

 梁から下がる提灯が、びくりと小さく揺れる。


 帳場では、奉公人が取り落とした筆を拾うこともできずに固まり、荷を担いでいた若い衆が足を止めた。外の鎧の擦れる音は、壁越しでも異様だった。革が軋み、鐺が石に触れ、複数の人間が殺気を押し殺して布陣している気配が、建物の内にまで染み込んでくる。


「何事だ」


 主人が奥から歩み出る。

 足取りは早くない。慌てもない。

 だが、その一歩ごとに、場のざわめきはかえって際立った。


 ある者は悲鳴を飲み込み、ある者は商品棚の陰へ身を寄せる。戸口の隙間から覗こうとした若い衆の肩を、番頭が慌てて引き戻した。


 門の外には、十余名の南雲兵が半円を描くように広がっていた。

 前列はいつでも抜刀できる位置に手を置き、後列は路地と屋根際まで目を配っている。逃がさぬための陣形だ。押し込みではない。捕らえるための、崩れにくい囲み方だった。


「そ、それが……」


 番頭が主人の袖を掴み、小声で告げる。

 南雲が、生田高成と、その女を捕らえに来たのだと。


 主人の目が、わずかに揺れた。


(生田だと……?)


 生田といえば、南雲の家老の一人。

 その嫡男、生田高成。若くして武功を立て、東の小競り合いを何度も凌いだ男。その名は、武家でなくとも耳にしている。


(その重鎮が、追われている……?)


 そのようなお触れは出ていない。

 つまり、表立って探せぬ理由があるのだろうと考えるのが自然だった。街中で、しかも商家の門前で密やかに包囲している時点で、事情は穏やかではないはずだ。


(まさか……南雲を、裏切ったのか)


 戦国の世に裏切りは珍しくない。

 だが、重鎮の離反は領を揺らす。


 主人は一瞬だけ目を閉じ、思考を巡らせる。


 思い当たる者が、いないわけではなかった。


(聞かなかった。それが正解だったな)


 成高と名乗った浪人は、自分からは何も語らなかった。

 こちらも、何も問わなかった。


 だから、こちらは何も知らぬ。

 それが今、この場で唯一の盾になる。


「……皆、中へ入っていなさい。私が出る」


 主人は門へ向かった。


 番頭は奉公人を奥へ押し戻し、女中が子どもらの手を引く。戸が一つ、また一つ閉められた。


 やがて門が、軋みながら開く。

 冷たい外気が、商家の内へ流れ込んだ。


「不躾に押しかけられて、何用でしょうか」


 主人は一歩、門外へ出る。


 南雲兵たちの視線が一斉に集まった。


「ここに、生田高成とその女を匿っているはずだ」


 指示役の侍が詰め寄る。鎧の札が触れ合い、金具が鳴った。


「そのような者は、存じませぬ」


 主人は退かない。


「隠し立てをすれば、その首が飛ぶぞ」


 侍の手が刀の柄にかかる。


 だが主人は、むしろ足の位置を半歩前へずらした。

 門の内側で、番頭たちの息が止まる。


「知らぬものは、知らぬ」


 声は低く、揺れない。


 侍が部下へ目配せした。


 ──踏み込め。


 数名の兵が敷居へ足をかけようとした、その瞬間だった。


「がっ……!」


 後方で、短い悲鳴が上がった。


 兵たちが一斉に振り返る。

 後列にいた一人が、膝から崩れていた。喉元を押さえる暇もなく、白目を剥き、そのまま石畳に倒れ込む。すぐ脇で、もう一人が体勢を立て直そうとしていたが、何かに脚を払われたように腰から崩れ、刀を取り落とした。硬い音が、石の上を跳ねる。


 列が乱れる。


 ただそれだけのことなのに、場の空気が一変した。

 温度が落ちる。

 襲う側のはずの兵たちの背筋に、ぞわりと冷たいものが走る。


 奇襲。

 敵襲。

 だが、標的は商家の中にいるはずだった。


 ならば、これは誰だ。


背に、冷たい汗がつたった。


 その時。





「──私は、ここだ」





 低く、静かな声だった。


 だが、その一声で、場の重心が変わった。


 兵たちの意識が一斉に背後へ引かれる。


 雪どけの白い光を背に、裏切り者の男───生田高成が立っていた。


 声を張ったわけでもない。

 剣を振りかざしたわけでもない。

 ただ、そこに立っているだけだ。


 それなのに、誰もが悟った。


 この場の主導が、今、移ったのだと。


「……っ!」


 足音を聞いた者はいない。

 気配を拾った者もいない。


 だが兵たちが息を呑んだのは、その現れ方だけのせいではなかった。


 立っている位置が、あまりに悪かった。


 後列二人が崩された、そのさらに奥。

 隊の視界と退路を一度に押さえ、半円の布陣の背を裂く位置。偶然入り込める場所ではない。包囲の形をひと目で読み、どこを崩せば列が死ぬかを知っていなければ取れぬ位置だった。


(なぜ、そこへ立てる……!)


 誰かの喉が、ひどく乾く。


 裏が抜かれた。

 それだけではない。


 こちらの陣の薄い箇所を見切り、最も乱れやすい一点へ、当然のように立っている。


 それはただ腕の立つ者の動きではなかった。

 戦場で幾度も、数を相手に陣を割ってきた武人の立ち方だった。


「囲め!」


 号令が飛ぶ。


 兵たちは反射的に動く。

 前列が向き直り、左右が広がり、後列が詰める。訓練通りの包囲だった。


 だが、その陣が完成する前に、高成は足元の刀を拾い上げた。


 銀がひと閃きする。


「……ッが!」


 刀は目の高さで横薙ぎに飛び、商家の主人と対していた隊長格の兜鉢を打ち据えた。


 激しい金属音。

 隊長がたたらを踏み、そのまま仰向けに倒れる。


「隊長!」


 その一声で、包囲の輪がわずかに歪んだ。


 高成はその歪みを待っていたように、ゆっくりと己の刀を抜く。


 鞘走る音は、やけに澄んでいた。

 焦りも、怒りも、気負いもない。

 乱戦に飛び込む抜刀ではない。ここから先を、もう自分の手の内に置いている者の音だった。


 兵たちは円を狭める。


 正面が牽制し、

 左右が詰め、

 後方が逃げ道を断つ。


 十余名。

 数だけ見れば、一人を押し潰すには十分なはずだった。


 だが高成は、囲まれる側の動きをしない。


 わずかに一歩、右前へ出た。


それに合わせ隊列も動く。


 たったそれだけで、兵たちは初めて気づいた。

 自分たちは包囲できているのではない。最も脆い一角へ圧を掛けられ、隊列ごと押し返されているのだと。


(押されている……?)


 数で優るのはこちらだ。

 なのに、間を支配しているのは向こうだった。


 半円の輪が、じり、と後ろへ下がる。


 高成は追わない。

 だが退かせている。


 その在り方に、兵たちの背筋が冷えた。


「行け!」


「うぁぁあぁあ!」


 誰かの合図に弾かれるようにして、正面の兵が恐怖のままに斬り込む。


 高成は半歩だけ軸を外した。

 刃が空を切る。


 その空白へ、峰が短く走る。


 顎。

 返して首筋。


「…っ」


 乾いた音が二つ鳴る。

 兵は悲鳴も上げられず崩れ落ちた。


 速い。


 だが、それ以上に兵たちを怯ませたのは、その正確さだった。

 深追いせず、余計な力も使わず、一撃目で姿勢を壊し、二撃目で意識を落とす。戦場で敵兵を“殺す”ためではなく、“戦列から外す”ための打ち方だった。


「同時にかかれ!」


 左右から二人が入る。


 連携そのものは悪くない。

 片方へ反応させ、もう片方を差し込む。訓練を積んだ兵の動きだ。


 だが、高成はその連携を受けない。


 左の刃筋の内へ、身体ごと入る。

 刀を受けるのではなく、相手の肩口をずらし、手元を殺す。そのまま右から来た兵の膝頭へ柄頭を沈めた。


「ぐっ……!」


 膝が砕けたように折れ、右の兵が沈む。


 高成は止まらない。

 左の兵の手首へ峰を落とし、握りを弾かせる。落ちた刀が石畳を跳ねた、その音より先に鳩尾へ一打。


 息が潰れる。


 二人同時に崩れた。


 兵たちは見る。

 高成は速いのではない。自分たちの動きを、出る前に殺しているのだ。


 踏み込みの角度。

 肩の開き。

 刀を出す順。

 誰が先に入れば、後ろが詰まるか。


 すべて読まれ、その最短を潰されている。


 そこにいたのは、ただ剣の立つ男ではなかった。


 多勢に囲まれた時の崩し方を知り、兵の足と陣の乱れを読む、戦場の武将だった。


「怯むな!」


 声が飛ぶ。


 だがその声は、もう兵の足を前へ押さなかった。


 高成は円の中心に留まらない。

 しかし乱れもしない。


 常に、自分が二人か三人だけを相手にする位置へ立ち続ける。

 包囲のはずなのに、兵たちは順番に前へ押し出されていた。


 誰か一人が前に出れば、その背後の列が詰まる。

 横から入ろうとすれば、高成は半歩だけ位置を変え、別の兵を壁にする。

 輪はあるのに、活きていない。


 それを悟った瞬間、兵たちは悟った。


 この男は、最初から自分たち全員と戦ってはいない。

 隊を一つの塊として見て、機能だけを順番に潰しているのだと。


 一人が、恐怖を振り払うように横合いから斬りかかった。


 高成は視線だけを流し、刀身でその軌道を外へ押す。

 火花が散る。


 流れた刃の内へ、高成の切っ先が喉元へ止まった。


「……!」


 兵の全身が硬直した。


 殺せた。

 誰の目にも明らかだった。


 だが高成は、その切っ先を返し、喉を裂かずに首の横へ峰を落とす。

 兵は横倒しに崩れた。


 その瞬間、残る兵たちの顔色が変わる。


 慈悲ではない。

 見逃しでもない。


 斬る必要すらないのだ。


 殺さずとも、勝負にならぬ。

 それほどの差があると、動きそのもので示されていた。


 兵の一人が、遅れて理解する。


 東方の小競り合いを支えていたのは、名家の嫡男という立場ではない。

 この、戦場で兵を動かし、崩れぬ位置を知り、数をものともせず押し返す力そのものだったのだと。


(……この人が)


 南雲の東を支えていた男。


 その実感が、今さら胸へ落ちてくる。


「前へ出ろ!」


 なおも叫ぶ声に押され、最後の数人が一気に間合いを詰めた。


 高成は静かに踏み込む。


 先頭の足を払う。

 崩れた肩へ峰。

 左から来た刃を擦らせて流し、返す柄で脇腹を打つ。息が潰れ、男の膝が落ちる。

 さらにもう一人の手首を斜めに打ち、落ちた刀を足先で蹴り飛ばす。

 半歩。

 最も後ろで頃合いを測っていた兵の面頬の脇へ、短く、鋭く峰が走る。


 順に、崩れる。


 鎧が鳴る。

 刀が落ちる。

 呻きが漏れる。


 高成の動きは最後まで荒れなかった。


 怒鳴らず、

 追い立てず、

 ただ必要なところだけを、必要なだけ断っていく。


 それは猛々しい戦いではなかった。

 むしろ静かだった。


 静かなまま、一隊が無力化されていく。

 その事実こそが、兵たちには何より堪えた。


 やがて、最後の一人が膝から落ちる。


 そこで初めて、高成は動きを止めた。


 石畳に崩れた兵たちの中、ただ一人、静かに立っている。


 息は乱れていない。

 剣先もぶれない。


 勝負は最初から決まっていた。


 兵たちも途中でそれを知った。

 それでも退けなかった。忠興の名を背負い、南雲の兵である以上、崩れると分かっていても前へ出るしかなかった。


 そのどうしようもなさだけが、場に残る。


 それを見ていた商家の主人が、ようやくひとつ、生唾を呑み下した頃。


 倒れた兵のあちこちから、うめき声が漏れ始めた。


 全員が峰打ちのみ。

 血はほとんど落ちていない。


 それでも、立ち上がれる者はいない。


 誰かが、苦鳴とともに吐き捨てる。


「……何故ですか……どうして……」


 高成は視線だけを動かした。


 答えはしない。


 ただ、その声の主を一度だけ見た。


 その一瞥だけで、兵はそれ以上言葉を継げなかった。




門近くへ集まっていた商家の者たちは、言葉を失っていた。


 あの護衛が。

 あの寡黙な男が。


 刀を握るだけで、まるで別の生き物のように見える。


 高成はゆっくりと刀を収める。

 鞘と金具が触れ、小さく鳴ったその音が、場の空気をかえって張り詰めさせた。




「成高、殿……」


 商家の主人が、掠れた声で呼ぶ。

だが、その先の言葉は出てこなかった。


 高成は振り返らないまま、一言だけ告げた。


「……騙して、悪かった」


 短い声だった。

 許しを乞う響きは、どこにもない。


 その時だった。


「成高さん──」


 門の内から、主人の脇をすり抜けるように、一人の少女が駆け出してくる。

 そして、青ざめた顔で、高成を見上げた。


「成高さん! たまは……たまは無事なんですか」


 まいが最も心を許していた少女だった。


 高成はわずかに目を動かし、答えようと口を開きかけた。


 だが、その前に。


 倒れていた兵の一人が、呻きながら身を起こした。

 片腕で土を掻き、這うようにしてこの場を離れようとしている。


 高成の目が、鋭く細まる。


 ――伝令役はあれか。


 一瞬で見極めると、ユキにも主人にも目を戻さず、低く命じた。


「中へ入れ」


「ッ、待て……!」


 次の瞬間、兵たちの視界から高成の姿が消えた。


 よろめきながら駆け出す兵の、進路の先へ。

 裏通りに控えていた伝令役の馬が、耳を伏せ、鼻を鳴らす。


 気配に気づいた時には、もう遅かった。


 馬上へ飛びつこうとしていた兵の懐へ、高成は低く滑り込んでいた。抜きかけた腕を肘ごと打ち上げ、体勢を崩したところへ、峰を顎の付け根へ叩き込む。


 兵は声も上げられぬまま馬の脇へ崩れ落ちた。


 高成はそのまま手綱を奪い、鐙へ足を掛ける。

 馬が驚いて前脚を上げかけるが、短く手綱を引き、鼻先の向きを制した。暴れさせぬまま一拍で乗りこなし、そのまま馬腹を蹴る。


 蹄がぬかるみを裂いた。

 泥が跳ねる。


 通りにいた人々が悲鳴を上げ、左右へ割れる。

 荷車が軋み、犬が吠え、干してあった布が風圧で大きく翻る。


(漆駒が留まるとすれば、あそこだ)


 街へ入った時点で、道筋は頭に入れてある。

 人を避け、殺気を嫌い、馬が本能で抜けるならあの先だ。


 高成は一度も振り返らない。


 商家も。

 倒れた兵も。

 今しがた断ち切った平穏も。


 すべて置き去りにしたまま、まいのいる先へ向けて馬を走らせた。


 商家の前に残されたのは、呻く兵と、呆然と立ち尽くす商家の者たちだけだった。


 誰かが、掠れた声で呟く。


「……あの人は、いったい……」


 答える者はいない。


 ただ、遠ざかっていく蹄の音だけが、街に長く残った。





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