囮
「漆駒で街道を抜けろ」
短い。
拒否を許さない声だった。
まいは、足元がふっと抜けたような心地がした。
宙に放り出されたような、頼りなさ。膝が、わずかに震える。
「……私一人で、ですか」
問い返した声は、自分でも驚くほど小さかった。
高成は視線を逸らさない。その目の強さに、胸の奥が焦る。
「む、無理です。馬に乗れないのは、生田さんだってわかって――」
「誘導はいらない」
言い終える前に、低く断たれる。
「……え」
では、どうしろというのか。
まいが息を詰めた、その時だった。
高成が物置の板戸をわずかに押し開く。
光が細く差し込み、外の気配がひと筋、暗がりへ流れ込んだ。
物置の外は、商家の裏庭の隅だ。
戸口を出てすぐ脇を塀が走り、その塀沿いに三歩ほど先、物置の陰に寄せるようにして漆駒が繋がれている。さらにその向こうが裏門だった。
高成はまず外を一瞥し、次いでまいの肩を押した。
「出ろ」
囁きに近い声。
まいは戸口を抜ける。外気が頬を打った。
すぐに高成が後ろへつき、まいを塀際へ追いやるように立たせる。自分はその外側、庭に開いた側へ半歩ずれて、身を盾にする形のまま進ませた。
物置の壁をなぞるように、一歩、二歩慎重に進んだ。
角を抜ければ、すぐそこに漆駒の黒い身体があった。艶のある背が薄い光を吸い、長い尾がわずかに揺れる。
鼻先の向こう、裏門の板戸は固く閉じられているように見えた。
肩に触れる手は強い。だが、荒くはない。
押されるまま歩を進めながら、まいは今度は意識して高成の袖を掴んでいた。
だが高成は、まいの顔を見ない。視線は終始、裏門と、その手前の空間を測っている。
漆駒の傍らまで来ると、高成はようやく手を離し、鞍にそっと触れた。
漆駒は主の気配を知っているのだろう、耳をわずかに動かしただけで、蹄ひとつ鳴らさなかった。
「こいつなら、追っ手を避けて勝手に走る」
やっとこちらを高成が見たかと思えば、それだけだった。
説明は短い。
だが、それが虚勢でないことを、まいは知っている。
――城を抜けた夜。
最小限の指示だけで、漆駒は危険を縫うように駆けた。人より先に道を読み、怯えもせず、止まるべき時だけ止まる。賢い馬だ。
それでも。
まいは首を振った。
「でも……」
喉が詰まる。言葉が続かない。
ただ不安なだけではなかった。
「私だけ逃げて、それで、生田さんは――」
どうするつもりなんですか。
そこまでは言えなかった。
また、自分だけが守られる側なのか。
また、何もできないまま逃がしてもらうのか。
気づけば、袖ではなく、縋るように高成の腕を掴んでいた。
そこで初めて、高成と目が合う。
静かな瞳に映る自分は、今にも泣きそうな顔をしていた。
(……情けない)
まいは震える息を誤魔化すように下を向き、唇を噛んだ。
泣きはしない。泣けば迷惑になることくらい、分かっている。
短い沈黙ののち、高成の大きな手が、腕を掴んだまいの手の上にそっと重なった。
「まい」
静かな声が、名前を呼ぶ。
まいははっと顔を上げる。
だが高成は、まっすぐ見返しながらも、ゆっくりとその指をほどいていった。乱暴ではない。諭すような手つきだった。
「二人で動けば、囲まれる」
息が止まる。
「裏に三。表にも十はいるだろう」
まいが伝えた断片だけで、もうそこまで読んでいる。
その声に感情は滲まない。すでに勝ち筋を選び、その通りに動こうとしている声だった。
「……でも」
「――囮は、お前の方だ」
低く、断定する声。
「お前に気を取られている隙に、追っ手を処理する」
淡々としていた。
怒りも、焦りも、優しさも、何ひとつ見せない。ただ合理だけを置く言い方。
けれど。
(――嘘だ)
まいには分かった。
高成が、目を逸らさないくせに、どこか遠くを見ている。
最初に訪れた街で、わざと自分に役目を与えた時と同じだ。自分が迷わないように、わざと感情を削いでいる。
高成のことは、何も知らない。
それでも、そのわずかな違いだけは、分かるようになったつもりだった。
(……でも)
否定できる代案は、何ひとつ出てこない。
「最善だ」
揺るがない声。
まいは唇を噛んだ。
この人の判断は、間違わない。
それはもう、何度も思い知らされてきた。
分かっている。
分かっているけれど。
もう、すべてを任せて逃げるだけの無力なままではいたくなかった。
それ以上の縋る言葉を、まいは飲み込んだ。
代わりに、離されかけた指先を掴み直す。
「……逃げ切れたら」
掠れた声だった。だが、その声にさっきまでの震えはなかった。
「その先は、どうすればいいですか」
高成の視線が、ほんの一瞬だけ落ちる。
そしてすぐに戻り、掴んだ指先は静かに外された。
「今は逃げ切ることだけ考えろ」
低く、静かに。
「必ず追いつく」
誓いではない。
願いでもない。
ただ事実を告げる声だった。
「信じて行け」
喉が鳴る。
言い返したいのに、言葉が出ない。
その間にも、高成はもう動いていた。まいの腰へ迷いなく手を回し、ひと息に持ち上げる。
視界が跳ねる。
次の瞬間には、まいは漆駒の背にいた。
「……っ」
鞍の上で身体が揺れる。反射的に鬣へ手を伸ばしかけたところで、高成が手綱を取ってまいの手の中へ押し込んだ。
「離すな」
まいは頷く。頷くことしかできない。
高成は漆駒の顔を裏門へ向けさせると、繋ぎ縄を解いた。縄が音もなく落ちる。自分はそのまま馬の首筋の陰へ半歩入り、門を見据える。
まいは一瞬、その横顔を見た。
もう下を向くことはしなかった。
息を吸う。
手綱を握る。
この街へ辿り着くまで、何度もこの背に揺られた記憶を総動員する。膝を締める。腰を落とす。
塀の向こうで、気配が詰まった。
足音が近い。
高成の言った通り、裏にいるのは多くない。だが少ないからこそ、見つかればすぐに詰められる。
門の外で、誰かが息を潜めている。
次いで、板戸の隙間に影が差した。門に手が掛かる。内を窺おうとしたのだろう、戸がきしんで、わずかに開いた。
その瞬間。
高成の身体が、漆駒の影から滑り出た。
一閃。
鋼が光を弾き、短い衝突音が鳴る。門を押し開こうとしていた影が、糸を切られたように崩れ落ちた。
「行け!」
同時に、高成が短く指示を飛ばし、漆駒が爆ぜるように地を蹴る。
「……っ!」
身体が一気に後ろへ持っていかれる。まいはとっさに鬣を掴み、膝で必死に馬体を挟んだ。
(手は、離さない……!)
冷たい風が顔を打つ。視界の端で、裏門が弾かれるように開いた。漆駒は迷わずその隙間を抜け、裏路地へ躍り出る。
背後で金属が二つ、三つ、激しく噛み合う音がした。
「女が逃げたぞ!」
怒号。
だがその声も、すぐ別の呻きに掻き消される。
漆駒は止まらない。
裏路地へ出るや否や身をひるがえし、細い道へ滑り込む。人影を避け、荷車をかわし、まるで道を知り尽くしているように駆けた。
まいも振り返らない。
振り返れば、きっと止まってしまう。
胸の奥で、言葉だけが何度も繰り返される。
――必ず追いつく。
それを握るように、まいは手綱を強く握った。
震えているのは、怖いからか。
寒さのせいか。
それとも、別の何かなのか、自分でも分からない。
やがて建物の気配が薄れ、人の声が遠のいていく。裏路地を抜け、街道へ出てもなお、漆駒は速度を緩めなかった。
商家の喧騒が遠ざかる。
つい先ほどまで平穏だった場所が、小さく、小さく背後へ沈んでいく。
それでも、止まらない。
止まれない。
まいはただ必死に、漆駒にしがみついていた。




