表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
62/78





「漆駒で街道を抜けろ」


短い。

拒否を許さない声だった。


まいは、足元がふっと抜けたような心地がした。

宙に放り出されたような、頼りなさ。膝が、わずかに震える。


「……私一人で、ですか」


問い返した声は、自分でも驚くほど小さかった。


高成は視線を逸らさない。その目の強さに、胸の奥が焦る。


「む、無理です。馬に乗れないのは、生田さんだってわかって――」


「誘導はいらない」


言い終える前に、低く断たれる。


「……え」


では、どうしろというのか。


まいが息を詰めた、その時だった。

高成が物置の板戸をわずかに押し開く。

光が細く差し込み、外の気配がひと筋、暗がりへ流れ込んだ。


物置の外は、商家の裏庭の隅だ。

戸口を出てすぐ脇を塀が走り、その塀沿いに三歩ほど先、物置の陰に寄せるようにして漆駒が繋がれている。さらにその向こうが裏門だった。


高成はまず外を一瞥し、次いでまいの肩を押した。


「出ろ」


囁きに近い声。


まいは戸口を抜ける。外気が頬を打った。

すぐに高成が後ろへつき、まいを塀際へ追いやるように立たせる。自分はその外側、庭に開いた側へ半歩ずれて、身を盾にする形のまま進ませた。


物置の壁をなぞるように、一歩、二歩慎重に進んだ。


角を抜ければ、すぐそこに漆駒の黒い身体があった。艶のある背が薄い光を吸い、長い尾がわずかに揺れる。


鼻先の向こう、裏門の板戸は固く閉じられているように見えた。


肩に触れる手は強い。だが、荒くはない。


押されるまま歩を進めながら、まいは今度は意識して高成の袖を掴んでいた。


だが高成は、まいの顔を見ない。視線は終始、裏門と、その手前の空間を測っている。


漆駒の傍らまで来ると、高成はようやく手を離し、鞍にそっと触れた。


漆駒は主の気配を知っているのだろう、耳をわずかに動かしただけで、蹄ひとつ鳴らさなかった。


「こいつなら、追っ手を避けて勝手に走る」


やっとこちらを高成が見たかと思えば、それだけだった。


説明は短い。

だが、それが虚勢でないことを、まいは知っている。


――城を抜けた夜。


最小限の指示だけで、漆駒は危険を縫うように駆けた。人より先に道を読み、怯えもせず、止まるべき時だけ止まる。賢い馬だ。


それでも。


まいは首を振った。


「でも……」


喉が詰まる。言葉が続かない。

ただ不安なだけではなかった。


「私だけ逃げて、それで、生田さんは――」


どうするつもりなんですか。


そこまでは言えなかった。


また、自分だけが守られる側なのか。

また、何もできないまま逃がしてもらうのか。


気づけば、袖ではなく、縋るように高成の腕を掴んでいた。


そこで初めて、高成と目が合う。

静かな瞳に映る自分は、今にも泣きそうな顔をしていた。


(……情けない)


まいは震える息を誤魔化すように下を向き、唇を噛んだ。


泣きはしない。泣けば迷惑になることくらい、分かっている。



短い沈黙ののち、高成の大きな手が、腕を掴んだまいの手の上にそっと重なった。


「まい」


静かな声が、名前を呼ぶ。


まいははっと顔を上げる。


だが高成は、まっすぐ見返しながらも、ゆっくりとその指をほどいていった。乱暴ではない。諭すような手つきだった。


「二人で動けば、囲まれる」


息が止まる。


「裏に三。表にも十はいるだろう」


まいが伝えた断片だけで、もうそこまで読んでいる。

その声に感情は滲まない。すでに勝ち筋を選び、その通りに動こうとしている声だった。


「……でも」


「――囮は、お前の方だ」


低く、断定する声。


「お前に気を取られている隙に、追っ手を処理する」


淡々としていた。

怒りも、焦りも、優しさも、何ひとつ見せない。ただ合理だけを置く言い方。


けれど。


(――嘘だ)


まいには分かった。


高成が、目を逸らさないくせに、どこか遠くを見ている。


最初に訪れた街で、わざと自分に役目を与えた時と同じだ。自分が迷わないように、わざと感情を削いでいる。


高成のことは、何も知らない。

それでも、そのわずかな違いだけは、分かるようになったつもりだった。


(……でも)


否定できる代案は、何ひとつ出てこない。


「最善だ」


揺るがない声。


まいは唇を噛んだ。


この人の判断は、間違わない。

それはもう、何度も思い知らされてきた。


分かっている。

分かっているけれど。


もう、すべてを任せて逃げるだけの無力なままではいたくなかった。


それ以上の縋る言葉を、まいは飲み込んだ。

代わりに、離されかけた指先を掴み直す。


「……逃げ切れたら」


掠れた声だった。だが、その声にさっきまでの震えはなかった。


「その先は、どうすればいいですか」


高成の視線が、ほんの一瞬だけ落ちる。

そしてすぐに戻り、掴んだ指先は静かに外された。


「今は逃げ切ることだけ考えろ」


低く、静かに。


「必ず追いつく」


誓いではない。

願いでもない。


ただ事実を告げる声だった。


「信じて行け」


喉が鳴る。

言い返したいのに、言葉が出ない。


その間にも、高成はもう動いていた。まいの腰へ迷いなく手を回し、ひと息に持ち上げる。


視界が跳ねる。

次の瞬間には、まいは漆駒の背にいた。


「……っ」


鞍の上で身体が揺れる。反射的に鬣へ手を伸ばしかけたところで、高成が手綱を取ってまいの手の中へ押し込んだ。


「離すな」


まいは頷く。頷くことしかできない。


高成は漆駒の顔を裏門へ向けさせると、繋ぎ縄を解いた。縄が音もなく落ちる。自分はそのまま馬の首筋の陰へ半歩入り、門を見据える。


まいは一瞬、その横顔を見た。

もう下を向くことはしなかった。


息を吸う。

手綱を握る。

この街へ辿り着くまで、何度もこの背に揺られた記憶を総動員する。膝を締める。腰を落とす。


塀の向こうで、気配が詰まった。


足音が近い。

高成の言った通り、裏にいるのは多くない。だが少ないからこそ、見つかればすぐに詰められる。


門の外で、誰かが息を潜めている。


次いで、板戸の隙間に影が差した。門に手が掛かる。内を窺おうとしたのだろう、戸がきしんで、わずかに開いた。


その瞬間。



高成の身体が、漆駒の影から滑り出た。



一閃。


鋼が光を弾き、短い衝突音が鳴る。門を押し開こうとしていた影が、糸を切られたように崩れ落ちた。


「行け!」


同時に、高成が短く指示を飛ばし、漆駒が爆ぜるように地を蹴る。


「……っ!」


身体が一気に後ろへ持っていかれる。まいはとっさに鬣を掴み、膝で必死に馬体を挟んだ。


(手は、離さない……!)


冷たい風が顔を打つ。視界の端で、裏門が弾かれるように開いた。漆駒は迷わずその隙間を抜け、裏路地へ躍り出る。


背後で金属が二つ、三つ、激しく噛み合う音がした。


「女が逃げたぞ!」


怒号。


だがその声も、すぐ別の呻きに掻き消される。


漆駒は止まらない。


裏路地へ出るや否や身をひるがえし、細い道へ滑り込む。人影を避け、荷車をかわし、まるで道を知り尽くしているように駆けた。


まいも振り返らない。


振り返れば、きっと止まってしまう。


胸の奥で、言葉だけが何度も繰り返される。



――必ず追いつく。



それを握るように、まいは手綱を強く握った。


震えているのは、怖いからか。

寒さのせいか。

それとも、別の何かなのか、自分でも分からない。


やがて建物の気配が薄れ、人の声が遠のいていく。裏路地を抜け、街道へ出てもなお、漆駒は速度を緩めなかった。


商家の喧騒が遠ざかる。

つい先ほどまで平穏だった場所が、小さく、小さく背後へ沈んでいく。


それでも、止まらない。

止まれない。


まいはただ必死に、漆駒にしがみついていた。








評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ