罅
帳を閉じ、まいは小さく息を吐いた。
「よし。おきよさんに、これ……」
そう言って立ち上がり、
表を避け、帳場の方へ足を向ける。
廊下の途中、小窓から見えた表の売り場は、
昼下がりらしく、ほどよく人がいた。
反物を手に取る客。
応対する店の者。
───いつも通り
……のはずだった。
ふと、
視界の端に
「違和感」が引っかかる。
人の流れとはわずかにずれた位置。
商品を見るでもなく、
誰かと話すでもなく、
ただ、立っている男。
(……?)
一瞬、心臓が跳ねた。
次の瞬間、その顔が、はっきりと認識される。
——知っている。
いや、忘れようとしていた顔だ。
城の中。
閉じた空間。
逃げ場のなかった夜。
檻を開け、自分に、手を伸ばそうとした侍。
(……っ)
喉がヒュッと締まる。
音が、遠くなる。
男は、まだこちらを見ていない。
けれど同じ空間にいるだけで、
記憶が一気に引きずり出される。
(……なんで、ここに)
考えるより早く
身体が動いた。
小窓から顔が見えないようしゃがみこむ。
聞きわけられるはずの無い男の足音が、
嫌に耳に響く感じがした。
自分を、探しているのか。
店内をやけにゆっくり歩いている。
だが、その目は、たぶん反物など見ていない。
(……来た)
高成が言っていたこと。
朝の張りつめた空気。
裏手に立つ理由。
全部が一本に繋がり、実感を伴ってくる。
(知らせなきゃ)
今すぐ。
息を殺し、音を立てないよう、まいは再び奥へ引っ込む。
平然を装う。
けれど、足は速く。
「あ、たま!終わったのかい?」
「!!」
途中で、おきよに声を掛けられた。
肩が震える。
「あ……」
思わず足を止め、振り返った。
帳を渡して、それから、それから───。
「?」
おきよが、首を傾げる。
まいの様子がおかしいことに気づいたのだろう。
「たま?気分悪いなら……」
その気遣いに、まいは泣きそうになった。
───こんなに別れが急だなんて、思わなかった。
震える喉から、精一杯声を振り絞る。
「仕事は、終わりました…っ。ちょっと、休んできます…っ」
「あ、ああ。無理はしないで」
おきよの顔は見れなかった。
帳を押し付けるようにして、そこから走り去った。
商家の奥。
行き交う人を避けて、
途中ぶつかった人に謝りながら。
急ぎ裏手へ。
——生田さん、生田さん……!
頭の中で、
その名前だけを繰り返した。
裏口に近づく。
裏手は、荷を扱うための小さな庭になっている。
塀に沿って物置が建ち、奥には裏道へ抜ける門がある。壁際には簡素な漆駒を繋いだ馬止めと、
それと、
視界に、「倒れているもの」が入った。
(……え)
黒い人影。
裏手の出口のすぐ外に。
崩れるように、それはうつ伏せに横たわっていた。
ピクリとも動かない。
(……まさか)
声が、喉までせり上がる。
その瞬間だった。
背後から、
ぐっと、強い力が伸びてきた。
「——っ!?」
口を、
塞がれる。
悲鳴をあげようとして、息が詰まる。
そのまま腕を取られ、
物陰へ引き込まれた。
(誰!?放して───!!)
恐怖が、一気に爆発しそうになる。
だけど、その手は、それ以上にこちらを縛ることはなかった。
(?)
必死に暴れかけて、その直前で、気づく。
——体温。
冷たくない。
嫌な冷えもない。
着物越しに伝わる、よく知っている熱。
鼻先をかすめる、
木と、
焚いた香のような匂い。
(………違う)
呼吸が、一拍、遅れる。
抵抗をやめ、
自然とすっと力が抜けた。
耳元で低い声が囁く。
「……声を出すな」
相変わらず、端的で、それだけ。
まいは小さく頷いた。
口を塞いでいた手が
ゆっくりと離れる。
代わりに肩を引き寄せられ、
完全に物陰に収められる。
……高成だ。
まるで全てから隠してくれるように、高成の影がまいを包む。
背中には物置の壁、前方には目に馴染んだ、深い色の着物があった。
そのさらに上、高成の顔に視線を向けると、
彼は、すでに外を見ていた。
表情は、いつもの無表情。
けれど朝よりも、さらに研ぎ澄まされた顔。
(……やっぱり)
来ている。
まいは唇を噛んで小さく息を吸った。
そして、できるだけ声を抑えて囁いた。
「……表に、いました」
一瞬、高成の視線がこちらに向く。
短く、鋭く。
「城で……」
言いかけて言葉が詰まる。
でも、高成はもう理解していた。
「……分かっている」
その一言で、
全ての全身の力が抜けそうになる。
無意識に、まいは高成の着物を、
震える指で掴んでいた。
目には薄っすらと涙が滲んでいる。
でも、その頬に、涙の跡はなかった。
高成は、それを見て目を細める。
(泣かなかった…のだな)
そして、恐怖に竦むことなく、ここまで走ってきた。
───今は、それだけで十分だ。
高成はまいをさらに物陰へ押し込みながら、
低く告げた。
「今から言う事を聞け」
——仮初の時間は、もう終わり。
商家の裏で、
静かに、
しかし確実に、
薄氷が割れる音がした。
読んでいただきありがとうございます。
今週から、更新をこれまで通り火木日曜日21時前後に戻そうと思います。
春になってきたからでしょうか。
猫共が4時に起こしてきます
……大変眠たくて
金土が有効活用できません……
展開もなかなか遅いのですが、
引き続きお付き合い頂けると幸いです。




