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軋み




商家の中は、驚くほど穏やかだった。


反物の間を行き交う声も、

帳場のやり取りも、

どこか柔らかい。


昨日の新年会の余韻が、

まだ店の空気に残っているのだろう。


「昨日は楽しかったわね」

「飲みすぎた人、何人いたっけ」


そんな話が、

笑い混じりに交わされている。


(……いつもより、和やかだ)


まいは奥の作業場で帳や反物の端を整えながら、その様子を聞いていた。


昨夜のことを思い出すと、

まだ少しだけ頭の奥が重い。


ズキン、と来るほどではない。

けれど確かに“名残り”はある。


「たま、今日は無理しなくていいからね」


朝。おきよが、そう言ってくれた。


「昨日結構飲んだから、辛いでしょ」


「はい……すみません」


小さく頭を下げると、おきよは笑って手を振る。


「いいのいいの。なかなか面白かったわ。

無理せず、今日は中の仕事お願いね」


——それは、

高成に言われたことと同じだった。


『何かあれば持病が悪化したことにして、

奥にいろ』


短く告げられた言葉。


まいは嘘をつかなくてよかったことに、胸を撫で下ろした。


身分と、名前と。

これ以上、ここの人達を欺きたくはなかった。



(いつも通り……)


下手に警戒しすぎるのは、きっと目立つ。


店の奥から外を覗くことはしない。


反物を畳み、

糸を揃え、

帳に目を通す。


文字を指でなぞり、数だけを拾う。

すべては読めない。それでも、確かめることはできる。


単調な作業。


それを、淡々とこなす。


(……まだ、何も、起きてない)


それだけで、胸の奥が少しだけ緩む。


昨日の雪はもうほとんど残っていない。


昼の光が障子越しに差し込み、

床に淡く広がっている。


平穏だ。


逃げている身だということも。

追われているという現実も。


この店の中では

ほんの少しだけ、遠い。


(……このまま)


そんな考えがふっと頭をよぎって、


まいは、すぐにそれを振り払った。


(だめ)


忘れてはいけない。

ここは、仮の場所だ。


高成もそれを分かっているから、

朝何も言わなかった。


そう——言わなかった、のだ。


帳から顔を上げる。


店の入口の方に高成の姿は、ない。

裏手に立っているのだろう。


今は、

見えない。


それでも。


(……いる)


そう思える距離に彼がいることだけが、

まいの覚悟を支えていた。


だからこそ。


再び見つめ直したこの静けさが、

ひどく脆いものに思えてならなかった。


胸の奥に、説明できない違和感が

小さく沈んでいく。


まいはもう一度、手元に視線を落とした。



——その時。


壁の外から、

聞き慣れない物音がした。


商家にそぐわない、硬質な音。


それは、

まだ誰も気づいていない、

ほんのわずかな異変だった。


(……?)


まいの手が一瞬だけ止まる。


けれど、

誰も騒がない。


だから、そのまま作業を続けた。


でも、一度感じた胸のざわつきは治まらなかった。


(気のせい……じゃない)


もう一度、奥の方を見た。


壁の向こう。

さらに、その向こう。


見えない場所にいるはずの高成を

探すように。


知らず、指先に力が入っていた。







***






裏手は静かだった。


雪解け水が軒下から、ぽたり、と落ちる音だけがある。


朝のうちに繋いだ漆駒は壁際で首を下げ、

じっと立っている。


落ち着いている。

耳も、尾も、騒がない。


(……まだだ)


高成は店の裏口近くに立ったまま、

周囲に視線を巡らせていた。


朝の荷の搬入を終え、徐々に人の出入りが少なくなっていく。


商家の裏手、道を挟んだ更に外の、雑木林に意識を向ける。



——空気が、薄い。


音が、

ひとつ、ひとつ、

余計に響く。


足音がない。

声もない。


だが、

“ない”ことそのものが、

逆に、際立ち始めていた。


(……削がれている)


気配が自然に溶けるのではなく、

意図して、削り落とされている。


鳥一匹、枝にとまっていない。


高成は、わずかに呼吸を落とした。


——忠興ではない。


それは、分かる。


あれほどの男が部下を先に立たせず、

自ら動くはずがない。


そして、

あの男がいるなら、もっと空気は重くなる。


これは、わざと“整えられた気配”だ。


人数はそれほど多くない。

先駆隊ですらない。


近い。それでいて、こちらを見ていない。


——いや。


見てはいるが、

「見る」という行為そのものを、

削っている。


(……忍か)


迷いはなかった。


戦場で嗅ぎ慣れた、

あの感覚。


個として立つ気配ではなく、

命令の中で呼吸する気配。



高成はゆっくりと踵を返し、

商家の壁に背を預けた。


手は、刀に触れない。


厩で、漆駒が小さく鼻を鳴らした。

その首筋に、一度だけ手を置く。

声は掛けない。


漆駒は、それ以上、動かなかった。


再び裏手に目を向ける。


気配は消えていない。

こちらが踏み込めば、同時に動く。


——そういう距離だ。


(……来たな)


心の中で、そう、言った。


そして何もなかったかのように

高成は裏口を離れた。



平穏は、もう“裏”から剥がされ始めていた。





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