静動
馬屋を出てからも、
二人は言葉を交わさなかった。
雪解けの道は朝の冷えでまだ硬く、
ところどころに水が溜まっている。
踏みしめるたび染みた水で草履が浅く音を立て、足取りを重くした。
高成は前を歩き、
まいはその少し後ろをついていく。
「あの……」
だが商家の近くに差し掛かったところで、まいは堪らず口を開いた。
返事はなかったが、高成の意識がこちらに向けられたことはわかる。
「昨日は……すみませんでした」
これだけは謝っておかないと、落ち着かなかった。
「…………。」
再び二人と一匹の足音だけが響く。
その間、まいは生きた心地がしなかった。
漆駒が轡を握る高成の手に鼻先を寄せる。
まるで返事を促しているかのようだ。
高成はそれを軽く撫でたあと、半顔だけまいを振り返った。そして、
「……次からは気をつけろ」
静かに言って、それだけだった。
「はい…」
その言葉は窘めてはいたが、怒りは感じなかった。
まいは、ほっと胸を撫で下ろした。
商家の裏手。
普段なら荷の出し入れに使われ、人が賑わう場所。
だが今は驚くほど静かだった。
高成は何も言わず漆駒を引く。
勝手口のような戸から塀の中へと入ると、
高成と漆駒もそれに続いた。
二人して上背があるから、通り抜けるのは
やや窮屈そうだった。
高成は商家の壁伝い、簡易的な繋ぎ場に馬を留め、手早く、けれど丁寧に綱を結ぶ。
結び目を確かめる指先に迷いはない。
漆駒も、動かない。
鼻先を一度鳴らしたきり、
あとは、ただ立っている。
——待つべき場所だと、分かっているように。
まいはその様子を黙って見ていた。
商家の裏口。
閉じた大門。
まだ、誰の足音もしない。
いつもなら聞こえてくるはずの、
朝の気配が何ひとつない。
(……怖い)
今日が、
いつも通りの一日ではないこと。
ここが、
仮初の居場所でしかなかったこと。
ただ、「終わる」と、再認識した途端、
足元を何かに掴まれたように、背筋にヒヤリとしたものが走った。
高成がこちらを振り返る。
視線が一度だけ交わる。
言葉はない。
けれどそれで足りた。
まいは小さく息を吸い、何も言わず、頷く。
そして、高成を追って、一歩踏み出した。
商家の中へ入る前に、
もう一度だけ、裏を振り返る。
静かな馬。
静かな空気。
静かな朝。
——きっと、次にここにいる時には、もう立ち止まることはできない。
そう思ってしまうほどこの静けさは重かった。
高成は先に奥へ向かう。
まいはその背中を追いながら、
胸の奥で、はっきりと思った。
(……この人の側なら、何が起きても大丈夫だ)
この街で過ごした時間が、
その確信をくれた。
そう思いながら、
静かな商家の中へ足を踏み入れた。
普段よりも早く入ってきた二人の姿に、
商家の主は一瞬だけ目を見張った。
「……今日は早いな」
そう言いながらも、
すぐに表情を整える。
まいの後ろに立つ高成。
その立ち方を見ただけで、
何かを悟ったようだった。
「成高殿」
主が先に声をかける。
高成は一礼し、
迷いなく口を開いた。
「本日をもって、護衛は続けられません」
はっきりとした言葉だった。
主は、すぐには返さない。
一拍置いてから、ゆっくりと息を吐いた。
「……そうか」
残念そうではあったが、
驚きはなかった。
「期間まであと一日のところ、申し訳ありません。」
「いや……本来の目的は終えているし、3日分は後払いだ。問題ない」
気分を害した様子はない。
期間を早めた理由も聞かない。
無駄に足を踏み入れない。
それが、この主の有能さなのだろう。
「して、今日はどのようにしようか。配置は変えた方がいいかね」
被せるように、
しかし失礼にならない速さで高成が言う。
「契約の範囲は、守る。
今日一日は、いつも通りです」
主は、その言葉を噛みしめるように頷いた。
「……それを聞いて、安心した」
少しだけ、苦笑が混じる。
「名残惜しいな。君も、たま殿も」
まいは思わず視線を伏せた。
主はそれ以上、引き止めなかった。
「短い間だったが……助かった。本当に」
高成は深く頭を下げる。
「こちらこそ。世話になりました」
それ以上の言葉はなかった。
商家の主との話を終えると、
二人はそれぞれ、いつもの配置へ向かおうとした。
ほんの数歩並んで歩いたところで。
「……まい」
高成が低く呼ぶ。
振り返ると、その視線はいつもよりも鋭かった。
「今日は、外へ出るな」
それだけだった。
理由の説明はない。
声を荒げることもない。
けれど、
聞き返す余地を与えない調子だった。
「売り場にも出なくていい。
何かあれば持病が悪化したことにして、
奥にいろ」
まいは一瞬、言葉に詰まる。
(……今日は)
外は、危険。
高成はそう言っているのだ。
「……はい」
そう答えるしかなかった。
高成はそれを聞くと、
それ以上何も言わない。
確認もしない。
念押しもしない。
ただ、一歩だけ距離を取る。
「それ以外…俺がいない時は、店の者の指示に従え」
それが、最後の言葉だった。
高成はいつものように背を向け、
朝の打ち合わせへと向かう。
まいはその背中を見送った。
(……行かないで)
そんな言葉が
喉の奥に浮かんだまま、
形にはならなかった。
商家の中は、
いつも通りに動き出していた。
***
商家の中が、少しずつ目を覚ましていく。
表の戸が開く音。
反物を運ぶ足音。
奥から聞こえる、帳場の準備の声。
いつもと変わらない朝だ。
——だからこそ。
高成は裏手に立ったまま、
一切の気を緩めなかった。
雪は夜のうちにほとんど止んでいる。
踏み固められた道の白は溶け、
泥と混じって鈍い色に変わっていた。
音が、吸われる。
雪解けの朝特有の、
余計なものが削ぎ落とされた静けさ。
(……近い)
確信ではない。
だが、勘が告げている。
今日、動く可能性は五分。
動かない可能性も、五分。
だからこそ——
動く前提で備える。
高成は、裏手の陰に視線を走らせる。
繋いだ漆駒は騒ぐこともなく、
ただ静かに首を垂れていた。
耳は立っている。
だが、落ち着いている。
(……いい)
焦りはない。
恐れもない。
ただ、待っている。
高成自身も、
馬も。
「成高さん!」
不意に、声が飛んだ。
振り返ると新吉が店の裏から顔を覗かせている。
「今日さ——」
言いかけて、
言葉が止まった。
高成の様子がいつもと違うことに
一瞬で気づいたのだろう。
新吉は、無意識に一歩距離を取った。
「……あ、えっと」
視線を彷徨わせ、
居心地が悪そうに頭を掻く。
「なんでもない!」
そう言い残して、
奥へ引っ込んでいった。
(……賢い)
子どもはこういう時、妙に勘がいい。
高成はその背中を追わなかった。
今は、誰とも話す気はない。
裏手に立つ高成の存在は、
次第に商家の気配から溶けていく。
音に混じらず。
人の流れにも混じらず。
——そこにいるのに、いない。
気配を限界まで削ぎ落とす。
通りを行く者の足音。
遠くの話し声。
風が軒を抜ける音。
そのすべてを、一枚ずつ剥がすように聞き分けながら、高成はただ待った。
(……来るなら、裏だ)
昼を過ぎる頃。
商家が最も油断する時間。
そして——
それが、
最も静かになる場所。
高成は指先を軽く動かし、
刀の位置を確かめた。
まだ、抜かない。
だが、
いつでも抜ける。
この街で過ごす間も、刀の手入れを欠かすことはなかった。
まいは今、商家の中にいる。
——それでいい。
守る算段は、
すでに整っていた。




