薄氷の朝
宿の中は、妙に静かだった。
目を開けた瞬間、
まいは頭の奥に残る鈍い痛みを感じる。
(……いたい)
昨夜の酒の名残りだと、すぐに分かった。
吐き気はない。意識もはっきりしている。
ゆっくり身体を起こし、息を整える。
そのとき——
違和感に気づいた。
衝立が、ない。
いつも視界の端にあったはずのそれが、片付けられている。
代わりに見えるのは、折りたたまれた布団と、目の荒い畳。
さらに、荷物。
ひとまとめにされ、
包みは固く結ばれ、履き物も揃えられていた。
(……あ)
胸の奥が、静かに冷える。
高成は、すでに起きていた。
窓辺に立ち、外の気配を探るように階下へ意識を向けている。
背中だけで分かる。
空気が、張りつめている。
いつもと同じ立ち姿。
けれど違う。
無駄を削ぎ落とした、まるで、戦に出る前のような気配。
まいが声をかけようと息を吸う、その前に——
「この宿を出る」
高成が言った。
振り返らない。
淡々とした声。
「今日で、この街を離れる」
予想していたはずの言葉なのに、
胸に落ちた瞬間、確かな重みを持つ。
(……来たんだ)
この街での時間が、終わる。
まいは何も言えなかった。
名残惜しさも、安堵も、寂しさも、
胸の奥で絡まり、形にならない。
高成はようやくこちらを見る。
「頭は痛むか」
「……少し」
「出る前に、水を飲め」
それだけ。
気遣いはある。
だが、それ以上は許さないという硬さもある。
まいは頷いた。
この朝は、もう、
いつもの“朝”ではなかった。
⸻
宿を出ると、
夜の冷え込みが嘘のように空気はわずかに緩んでいた。
地面の雪は白というより灰色に近い。
踏み固められ、水を含んで鈍く光る。
——雪が、解けはじめている。
日は昇りかけ。
まだ夜は完全に明けきらず、
街はまだ青い薄闇の中だ。
高成は振り返らずに歩き出す。
昨夜のことを謝りたい言葉が喉に引っかかる。
だが、差し込む隙がない。
まいは黙って、その背を追った。
進む方向を見れば分かる。
(……馬だ)
街道を外れ、人通りの少ない裏道へ。
雪解け水が溝を細く流れ、
踏み出すたび草鞋の下で湿った音がした。
会話はない。
高成は説明しない。
まいも尋ねない。
それで足りていた。
片付けられた部屋。
結ばれた荷。
揃えられた履き物。
すべてが「もう戻らない」という意思。
(私は、まだ……)
胸がわずかに締まったのを、高成に悟られてはいけないと思った。
やがて馬屋が見えてきた。
軒先に残る、踏み荒らされていない雪。
高成が歩みを止める。
厩の奥から、低い鼻息。
数頭が身じろぐ中——
一番奥。
青毛の馬が、静かにこちらを見ていた。
久しぶりでも、すぐに分かる。
脚が長く、ひときわ大きい。
(漆駒……)
足を踏み鳴らすこともなく、
柵にもたれるでもなく。
ただ、そこに在る。
高成が近づくと、耳がわずかに動く。
嘶きはない。
ただ、鼻先が一度、静かに揺れた。
——来たな。
そんな気配。
高成が柵に手を掛けると、
漆駒はゆっくり顔を向ける。
視線が合う。
問いも、不満もない。
ただ、変わらないという確認。
高成は短く息を吐き、首元に手を置いた。
「……待たせたな」
低い声。
漆駒は動かない。
だが、長い睫毛に縁取られた瞳が、静かに伏せられる。
まるで、主の帰還を知っていたかのように。
まいは少し離れて、それを見ていた。
言葉はない。
けれど、
「準備は整っている」
それだけが、はっきりと伝わる。
(……似てる)
高成と、この馬は。
何も言わず、
何も急がず、
来るべき時に備える。
雪解け水が、蹄の下を細く流れる。
漆駒は、まだ一歩も動いていない。
それでも。
もう、引き返せないと分かるには——
十分な朝だった。
(結局、この街で……私は聞けなかった。)
城を出た理由も、
私を連れ出した理由も、
まだ、知らない。
(生田さんの口から、私は、直接聞きたい。)
もう、ただ生き延びるためだけに
この人の後を追うのではない。
何を思い、
何を抱えているのか。
その真相を、
この人自身の言葉で聞くまでは。
だから、決めた。
この背中を、追い続けると。
ここまで読んで頂きありがとうございます。
書きたいものがちゃんと伝わっているのか少し心配で、後書きで少し補足させていただきたいと思います。
現在物語は最終章まで1/4程度の位置にあります。
『月影の守人』の前半は、まいがただ逃げているだけの話ではなく、奪われていたものを一つずつ取り戻していく章として書いてみました。
一章では、食べること、眠ること、寒さや痛みから守られること。
二章では、南雲の手から逃れ、明日も生きられるかもしれないという安全。
三章では、宿場町や商家で人と関わり、名前を呼ばれ、役割を持ち、「ここにいてもいい」と思える場所。
マズローの欲求段階説に重ねるなら、まいはここまでで「生理的欲求」「安全の欲求」「所属と愛の欲求」を少しずつ満たされています。
けれど、高成が与えてくれるのは、あくまでそこまで。
三章までが、まいが「守られて生き延びる」ための時間だとすれば、ここから先は、まいが「自分で選んで生きる」ための物語です。
高成だけでは満たせないもの。
まい自身が掴まなければならないもの。
それが、この先の物語で少しずつ見えてくると思います。
度々全体的な加筆修正をしているため、ここまで読んでくださっている方には不安を感じさせるかもしれませんが、書きたいものやテーマが変わることはありませんので、この先も読んでいただけると嬉しく思います。
ここから4章開始です。
今後もよろしくお願いします。




