【番外編】酔いの後
高成はまいを背負ったまま、宿の戸を開いた。
出る前と変わらぬ簡素な部屋。
中央には衝立。
布団は端にきちんと畳まれている。
首に微かな吐息がかかる。
道中、息遣いから酔いが冷めたのかと疑いもしたが、どうやら本当に眠ってしまったらしい。
背中に預けられた重みは、宿へ着く頃には完全に無防備だった。
「着いたぞ。降りろ」
「……んー」
起きる気配はない。
むしろ、まるで布団に潜るかのように肩へ顔を埋めてくる。
高成は小さく息を吐き、足で布団を拡げた。
(まったく……)
次に目覚めたら、酒は控えろと告げねばならない。
そう思うと、少しだけ気が重い。
膝をつき、布団へ下ろそうと身体を傾ける。
だが。
「……んー……このまま寝るの……」
舌足らずの声。
肩に回された腕は、緩まない。
袂を掴んで、離そうとしない。
「……まい」
声が一段低くなる。
それでも腕は外れない。
(埒が明かん)
抱え直そうと、その体を前へ回す。
掴まれた袂が引っ張られ乱れたが、気にはしない。
布団に横にさえすれば手を離すだろう。
まいの腰を下ろし、頭を支えながら布団に寝せようとした。
(まるで、小さな子どものようだな)
例えるなら、遊び疲れて、居間で寝てしまった子ども。
こちらの配慮など無視して、だいぶ酒を飲んでしまったようだが──今日の宴が、まいにとって楽しいものであったのなら、それはよかったと思う。
高成の口元が緩みかけた、その時。
「寒い……」
まいの腕が、さらに強く絡んできた。
首筋にかかる吐息が、わずかに熱を帯びる。
距離が、一気に詰まる。
「おい」
綻びかけた気持ちに、わずかに苛立ちが滲む。
前言撤回だ。
今後は絶対に酒を飲まないよう窘めなければ。
寝ているとしても、なかなかにタチが悪い。
恐らく自分を、布団か何かと勘違いしている。
そう思い、無理やり、その腕を解こうとした。
細い腕だ。少しの力で容易に外せるはず。
なのに、
「痛い」
その一声で、手が止まってしまった。
冷気に少し冷えた頬が、高成の耳に触れる。
(……深読みするな)
放そうとしても離れない。
まいに、そんなつもりは微塵もないのはわかっている。
それでも、感じる。
これは、何かの試練だと。
自分が彼女にとって、安全な存在なのかどうなのか。
多分、そんなところの。
「……安心しろ、布団に寝せるだけだ」
どうせ聞こえはしないだろう。
だけどそう声をかけて、己の体ごと、まいを布団に倒す。
まいの腕が緩んだ。
(よし)
──やりとげた。
謎の達成感とともに、息を吐く。
高成は、まいの顔の横に手をついて、体を起こそうとした。
だが、試練は終わらない。
「!」
まいが、勢いよく襟を掴んできた。
急なことに、まったく構えていなかった。
布団の皺に足を取られ、体勢が崩れる。
(……まずい)
気づけば――布団に肘をつき、覆いかぶさる形となっていた。
酒に混じる、髪の匂い。
互いの息を感じる距離に、顔がある。
近すぎる。
ほんのわずかに、視線が唇へ落ちた。
(……何を考えている)
高成はすぐに起き上がろうとした。
だが、再び絡んできた腕が離れることを許さず、そして。
───まいの目が、開いた。
「……え」
視界いっぱいに、高成の端正な顔がある。
唇が触れそうな距離。
自分の両手は、高成の首に回っていた。
身体の上には、重みを感じる。
(え……え……?)
混乱した頭は、2つの選択肢を提示した。
押し倒されたのか、引き込んだのか。
だが、答えを考えるより先に、肺が大きく息を吸った。
「っ──―」
突き飛ばして、声が出そうになる、その直前。
「んぐっ…」
高成の表情が一瞬だけ歪み、
次の瞬間、掌で口を塞がれた。
「……叫ぶな。夜中だ」
低く、近い声。
骨ばった指が、頬にかかる。
掌は大きく、そして、少しだけ冷たい。
反対に、触れた胸は堅くて、布越しでも分かるくらい温かかった。
――押し返せない。
強く力を込めているようには見えないのに。
「……っ」
鼓動が跳ねる。
怖いのではない。
ただ、落ち着かない。
その目を見たまま、息が浅くなった。
「……」
まいが沈黙したのを確認すると、高成はわずかに視線を下に逸らした。
この距離。
この体勢。
自分の片手で、彼女を簡単に制しているという事実。
眉間に皺が寄る。
「……静かにできるか」
まいは、潤んだ目で必死に頷いた。
数秒置いて、掌が離れる。
だが、近付きすぎた距離は、すぐには離れない。
ほんの一瞬、目が合う。
まいの頬がみるみる赤くなるのを見て、高成は舌打ちするように息を吐き、すぐに身体を起こした。
体の上の重みが消える。
途端に、忘れていた寒さが、体を刺した。
「……さっさと寝ろ」
高成が乱れた襟を直し、視線を合わせぬまま衝立の向こうへ消えていく。
普段よりも距離を開けて聞こえる、衣擦れの音と、深いため息。
まいは、動けずにいた。
口元に残る掌の感触も。
押し返せなかった胸板も。
すぐ近くに感じた息遣いも。
目を閉じると、すべて鮮明に思い出される。
胸の音がうるさい。
そして、まいは気づいてしまった。
(……生田さんも、男なんだ)
何を今更。
だが、それは、普段、意識していなかった事実だった。
(……っ)
恥ずかしさが、遅れてやってくる。
まいは衝動のまま足元の掛け布団を引っ掴み、
頭まで被った。
押し倒されたのか、引き込んだのか。
どうせ、酔った自分が引き込んだのだ。
だが、本当に問題なのは――
自分が、嫌だと思わなかったこと。
(……わたし、なにやってるの…!)
昼はぼんやりして、
夜は許可なく酒を飲んで
迷惑をかけて。
そして、今。
「……すみませんでした」
小さく、呟く。
衝立の向こうから、声が返る。
「……酔っ払いめ」
苛立ちではない。
呆れでもない。
静かな、低い声。
申し訳なさは本物だ。
これ以上ないくらいに、まいは布団の奥深くへと引っ込んでいく。
でも。
胸の奥の高鳴りだけは、どうしても消えなかった。
これで3章完結です。
今後も火木日曜日21時前後投稿で継続したいと思います。
拙い文章や誤字脱字が多くて申し訳ないのですが、
これからも「月影の守人」をよろしくお願いします。




