終宴
高成は、男衆の輪の中にいた。
杯は手にしている。
酒も口にしている。
だが、
誰かの肩を叩くことも、
声を張り上げることもなかった。
どんちゃん騒ぎの中心にいながら、
一歩だけ引いた位置。
場の空気を壊さぬように、
気を遣わせぬ程度に杯を重ねる。
——それだけだ。
隣に座る女が、
ときおり声をかけてくる。
「強いんですね。
もう何杯目です?」
柔らかい声音。
含みのある視線。
高成は曖昧に目線だけを渡し、
「さあ」
とだけ返す。
「まあ、つれない」
差し出された徳利を、
静かに押し返す。
それ以上は踏み込ませない。
誘うような仕草にも、
触れようとする指にも、
気づかないふりをしてやり過ごす。
酒は、いくら飲んでも変わらなかった。
身体も、頭も、
何一つ鈍らない。
ただ、杯の中の液面だけが、
静かに揺れている。
その揺れを見つめながら、
ふと、別の光景が脳裏を掠めた。
──戦の後。
野営の中で開かれた宴。
勝ったとも、負けたとも言えない夜。
血の匂いが抜けきらないまま、
酒と笑い声だけが並べられた席。
あの頃も、
自分はこうして杯を手にしていた。
騒がず、
酔わず、
ただ、そこにいる一人として。
(……変わらんな)
杯を傾け、
静かに酒を飲み干す。
その時。
女衆の方から、
小さなどよめきが上がった。
ざわ、と
一瞬だけ空気が揺れる。
高成は視線を上げたが、
この位置からでは様子は見えない。
誰かが笑い、
誰かが声を上げている。
(……何かあったか)
一瞬、
まいの姿が脳裏をよぎる。
だが、
この場で危険が起きる気配はない。
高成は、
それ以上気に留めず、
再び杯に視線を落とした。
やがて、
騒ぎは少しずつ落ち着いていく。
笑い声は残っているが、
声量は下がり、
杯の回りも緩やかになる。
その頃。
「成高さん」
女の声が、
少し離れたところからかかった。
まいと、よく一緒に動いていた娘だった。
「ちょっと……こちらへ」
呼ばれるままに立ち上がり、
高成は人の間を抜ける。
「ごめんなさいね、飲ませすぎちゃって……」
「まさか、あんなに弱いとは思わなくて」
周りから、申し訳なさそうな声が重なる。
高成は軽く首を振った。
「……いえ、どうしましたか?」
状況が読めない。
だが、示された先に目を向けて、
高成はわずかに眉を寄せた。
輪の中、連れてこられた先は
——まいだった。
座敷の端。
女衆に囲まれたまま、
座布団を抱きしめ頬擦りしながら、
畳の上に転がっている。
卓の上の杯は空。
頬は赤く、
視線はどこにも定まっていない。
(……何をしている)
呆れが、ごく静かに胸を掠める。
高成は、その前に屈んだ。
「……おい」
低く声をかけた、その時。
まいの目が、
ふいに高成を捉えた。
一瞬だけ、
焦点が合う。
「……いくた……」
掠れた声。
——本名。
高成の背筋に、
ひやりとしたものが走った。
だが、言い切る前に、
まいの唇が止まる。
次の瞬間。
「……お兄ちゃん!」
へらり、と
力の抜けた笑みを浮かべて、
まいが顔を上げる。
(お兄ちゃん……?)
お兄ちゃん。
その呼び方が、
妙に耳に残った。
「えへ……来てくれたぁ……」
まいが座布団を手放し、ゆっくり身体を起こす。
そして、「待ってましたぁー」などと言いながら、ゆらゆらと左右に肩を揺らしていた。
その拍子に、身体がふらりと傾く。
「あ、危ない」
隣に座っていた男が、
とっさに腕を伸ばした。
だが、その手が触れるより先に。
高成は、無言で、まいの肩を支えた。
「すみません」
そのまま背に触れ、傾いた体を静かに戻す。
「……大丈夫です」
低く、穏やかな声。
男は一瞬きょとんとし、
すぐに気まずそうに笑った。
「あ、ああ……すまない」
「…いえ、こちらこそ」
高成は、思わず息を吐く。
そして、視線を落としたまま言う。
「……何をやっている」
叱るような声を出してみるが、
まいはへらへらと笑ったままだ。
「だってぇ……ちょっとだけ、飲んでみたくてぇ……」
言い終えるより先に、再び身体がぐらりと揺れる。
(……酔っているな)
高成は、もう一度ため息をついた。
「帰るぞ」
そう言って、
腕を取って立たせようとする。
だが、上に引き上げようとして、僅かな抵抗を感じた。
「……ん」
甘えるような声。
まいは、立ち上がろうとする素振りを見せない。代わりに、こちらを見あげながら、眉を八の字に下げた。
「たてません…」
そのまま、掴まれた腕を、こちらに向けて伸ばす。
「……。」
高成は、
一瞬だけ言葉に詰まった。
何を求めているのか。
何を分かって言っているのか。
分からない。
ただ、
頼るように伸ばされた腕と、
今にも崩れそうな身体がある。
(……酔いすぎだ)
そう思いながらも、
高成は結局、
その手を振り払うことはできなかった。
戸惑ったまま、
両脇を支え
まいを立たせる。
彼女のさらりとした髪がわずかに耳に触れ、
遅れて酒の混ざった彼女の匂いが鼻を掠めた。
「まあ……」
誰かが、くすっと笑う。
「仲、いいのねぇ」
「ほんと、微笑ましいわ」
からかうというより、
楽しそうな声だった。
高成は、それに特別な反応を返さない。
否定もしない。
肯定もしない。
ただ、淡々と口を開いた。
「……こちらが、酒を止めるべきでした。
迷惑をかけて、すみません」
そう言って、まいを左隣に立たせ、頭を下げる。
女たちは、すぐに首を振った。
「なに言ってるの。
楽しい顔が見られて、よかったくらいよ」
「たまちゃん、普段あんな顔しないでしょう?」
「今日はいい夜だったわ」
責める色は、どこにもない。
高成はその空気を受け止めるように、
小さく息を吐いた。
「……ありがとうございます」
それだけ言うと、
まいの腕に、もう一度しっかりと手を添える。
「歩けるか」
「……ん」
返事になっているのかいないのか分からない声。
まいの身体は、素直に預けられてきた。
高成は、無理に引き寄せることはせず、
倒れないよう、必要な分だけ支える。
「じゃあ、お先に失礼します」
場に向かって一言告げる。
「おやすみなさい」
「気をつけてね」
軽い声が返り、
誰も引き止めなかった。
高成は、そのまま踵を返す。
宴の灯りと笑い声が、
背後で、ゆっくり遠ざかっていく。
雪の気配が、
戸の向こうに待っていた。
高成は、
まいを支えたまま、
静かに宴会場を後にした。
***
外へ出ると、
雪はすでに止んでいた。
空気だけが、ひどく冷たい。
踏み固められた道は、
白というより灰色に近く、
雪は半ば溶けて、靴裏にまとわりつく。
滑るほどではない。
だが、歩きやすくもない。
(……放置しすぎたか)
肩越しに伝わる重みを感じながら、
高成は小さく息を吐いた。
支えて歩くには、限界がある。
足取りは覚束なく、
半歩ごとに体重が傾く。
このままでは、どこかで転ぶ。
(仕方ない、背負うか)
高成は立ち止まり、
迷うことなく、まいに向けて背を傾けた。
「……乗れ」
言うより早く、
背を向けて膝を折る。
「え……」
一瞬、まいの目の焦点が戻り、戸惑うように瞬いた。
(まったく……)
先ほどはあんなに素直だったくせに。
胸の奥で、わずかに何かが引っかかった。
高成はまいの腕を引き、自身の肩を掴ませる。
「い、いいです、歩けます……」
「歩けていない。早くしろ」
もう一度、促す。
「……はい」
次の瞬間、
まいの腕が、ぎこちなく首に回された。
重みが落ちる瞬間、
高成はわずかに腰を沈め、
帯の上で重心を受け止めた。
ずり落ちかけた身体を、
片肘で静かに引き上げる。
「……」
ため息が、自然に漏れる。
文句は言わない。
叱りもしない。
ただ、歩き出す。
雪の残る道を、一定の速さで進む。
解けかけた雪が、足元で鈍く潰れていく。
背中の重みは、不思議と負担には思わなかった。
だが、足袋が水を吸い、冷えが指先へと静かに広がっていくのは、不快だった。
宿までは、まだ少し距離がある。
風が吹く。
背中で、
小さく身震いする気配。
「……寒い……」
掠れた声が、
耳の後ろで揺れた。
次の瞬間、
回された腕が、きゅっと強くなる。
高成は、歩調を変えない。
「……我慢しろ」
それだけ言って、
そのまま歩き続けた。
振りほどくこともしない。
嗜めることもしない。
背中の温もりを、
ただ、あるものとして受け止める。
雪の夜は静かで、
二人分の足音だけが、
濡れた道に淡く残っていった。
⸻
揺れる。
規則正しく、
ゆっくりと。
高成の背中は、
思っていたよりも、ずっと広い。
火照った身体に、
夜の冷たい空気が触れて、
それが、ひどく心地いい。
(……冷たいの、気持ちいい)
頬に触れる風。
鼻を抜ける、冬の匂い。
高成の背中に揺られながら、
まいは、深く息を吸った。
着物越しに伝わる体温。
微かに香る、木々と、焚いた香のような匂い。
——逃げていた時と、同じだ。
どこへ向かうのかも分からず、
ただ必死に揺られていた夜。
怖かったはずなのに、
なぜか、呼吸だけは乱れなかった。
妙な懐かしさの正体は、今もわからない。
それでも、
この匂いだけは、確かに覚えている。
「………」
そこに混じる、酒と、わずかな化粧のにおい。
——意識は、思ったより澄んでいた。
身体は酒に浮かされているのに、
頭の奥は、不思議なほど静かで、はっきりしている。
身体は、確かに重い。
足元は、ふわりと浮く。
けれど、立とうと思えば、立てた。
なのに。
(どうして……嫌だと思ったの)
あの時、わざと手を伸ばした。
放っておかれたこと。
隣にいた女の横顔。
理由は、分からない。
分からないまま、
胸の奥が、ざわついた。
だから、
妹という役割を使って。
酒のせいにして。
都合のいい場所に、
自分で立った。
(……分かってる)
今、自分が甘えていることも。
この距離を、手放したくないと思っていることも。
(……迷惑、かけてる)
そう思うのに、
身体は、素直に力を抜いてしまう。
久しぶりに、
こんなに近い。
腕に伝わる体温。
呼吸の揺れ。
その全部に、
抗えない。
申し訳なさと、
安心が混ざり合って、
まいは、
そっと額を預けた。
何も言わない。
——もう少しだけ。
ただ、
身を委ねたまま。
この狡さに、どうか気づかれないことを祈って、目を閉じる。
そのまま高成の背中に揺られ、
まいは静かな雪道を運ばれていった。




