深宴
ユキ、おきよ以外の数人もやってきて、空席が埋まっていく。
人が揃ってから、まいはようやく箸を取った。
その時。
「あれ、たまちゃん」
ユキが、まいの顔を覗き込む。
「今日、なんか違くない?」
「え?」
「唇!可愛い!塗ってるでしょ?」
その一言で、周りの視線が一斉に集まる。
「ほんとだ、似合ってるー」
「どうしたの?誰かの贈りもの?」
冷やかす声に、まいは思わず目を伏せた。
「あ、ええと、ただ……ちょっと、オシャレしてみたくなって」
気づいてもらえて、嬉しい。
嬉しい──けど。
(兄から、なんて言ったら、多分変な空気になるよね)
高成のように、するりと誤魔化すことはできない。だから、その質問には答えなかった。
うまく笑えただろうか、と一瞬思う。
だが、
「たまちゃんもお年頃だからね」
「お洒落なんて、楽しめるうちにうんとしておかないと」
「仮にも、反物売ってるんだからね」
誰にも追及されず、自然と話は流れていき、
まいはほっと息をついた。
「さ、冷めないうちに食べましょ」
その一声に、周りも箸を取り始める。
「料理はたくさん頼んでるからね」
「これ、さっき運ばれてきたやつよ。
ほら、いっぱい食べな」
「はい、いただきます」
勧められるままに器を受け取り、
恐る恐る口に運ぶ。
(……おいしい)
思わず、目が丸くなる。
商家で出る賄いとも、
宿の夕餉とも違う。
「美味しい」
「ね、温まるねぇ」
「外ほんっと寒かったからね」
料理は、少しだけ塩っぱい。
でも、暖かくて、
人の集まる場の味がした。
卓にはユキやおきよ、
一緒に作業していた女たちに混じって、
売り場で接客していた名前も知らない女たちもいる。
それでも、
杯が回り、皿が空いていくにつれて、
場は次第に温まっていった。
——男衆の声が、大きくなるまでは。
「もう一杯だ!」
「おい、そっちはどうなってる!」
笑い声が跳ね、
調子づいた声が飛び交い始める。
女たちは慣れた様子で顔を見合わせ、
誰かが小さく肩をすくめた。
「……まったく、飲むとこれだから」
「毎回、後始末はこっちよね」
まいは、曖昧に笑って相槌を打つ。
その後の話題は、
仕事の愚痴だったり、
夫のことだったり、
よく分からない昔話だったり。
ただ聞いているだけなのに、
気づけば時間が流れていた。
——その時だった。
「そういえばさ」
誰かの声が、少し大きくなる。
「成高さんって、ほんっとに独りなの?」
一瞬、
空気が止まった。
「前も聞いた気がするけど、恋人とか、婚約者とか」
「どこかにいるって話、聞かないけど」
「いない方が不自然!」
視線が、
まいに集まる。
(……え)
思わず、言葉に詰まる。
隣を見ると、
高成は先程より離れた位置で座っていた。
どんちゃん騒ぎの中心にいながら、
混ざってのも居なければ、離れてもいない。
ただ杯を手にしたまま、静かに輪の中にいた。
(……結局、何も聞けてない)
その姿が、実際の距離よりも遠く感じる。
一度目に聞かれたときは、深く考えなかった。
いつか知れればいい。
そう思っていた。
けれど。
高成は、元は城に仕える身。
年の頃も、決して若いとは言えない。
立場も、身分も、責任もあった人だ。
縁談のひとつやふたつ、あっておかしくない。
奥方がいても――
おかしく、ない。
胸の内で言葉にしてみると、
それは思ったよりも重く沈んだ。
結局、自分は、あの人の何を知っているのだろう。
どんな家に生まれ、
誰に育てられ、
誰に縁談を持ちかけられ、
何を選び、何を捨ててきたのか。
隣を歩いてきたつもりでいて、
肝心なことは、何ひとつ。
箸を握る指先が、僅かに強ばる。
考えないようにしていた。
考えても仕方がないから。
けれど二度目ともなれば、
笑って流すには、少しだけ、痛い。
まいは静かに息を吐き、
目の前の料理に目を落とした。
「ごめんなさい。…結局、あの後も聞けてなくて」
まいは、言葉を選んだ。
「でも、知る限りでは……いない、と思います」
曖昧に返しながら、胸の奥が、わずかに軋んだ。
断定はしなかった。
けれど、
それで十分だったのだろう。
数人の女が、
一瞬だけ高成の方を見てから、
互いに視線を交わす。
その目つきが、
獲物を見定めるように変わったのを、
まいは見てしまった。
思わず、身を引く。
女たちは何も言わず席を立ち、
男衆の方へ、自然に流れていった。
「……やるわねぇ」
残った誰かが、
半ば感心したように、半ば呆れたように呟く。
そして今度は、
残った女たちの視線はまいに向いた。
「じゃあ、たまちゃんは?」
「え、私、ですか?」
まさか、次の矛先が自分に向くとは思わなかった。
期待に輝く視線が方々から浴びせられる。
「うちで働きながらさ、良いなぁって思う人いなかった?」
「気になる人だけでもいいわよぉ」
──気になる人。
その問いに、
胸の奥が、かすかに引っかかる。
(………)
そのまま誰かの顔が頭に浮かびかけて、まいは慌ててそれを打ち消した。
一瞬だけ、息が浅くなる。
「……いない、です」
そう答えると、
すぐに声が重なる。
「あら、もったいないわね」
「まぁ、あの兄上がいるんじゃねぇー」
どうして、ここで高成の名前が出るんだろう。
まいは首を傾げた。
その時、おきよがニンマリとした顔で、まいを見てきた。
「それならさ。
いいの、いるわよ」
含みのある声に、まいは思わずたじろいでしまう。
「…え?」
「直也ー!ちょっと来なさーい!」
おきよが突然声を張り上げ、
男衆の端を指さし、手招きをする。
「なんっすかー?俺忙しいんでぇー!」
「いいから!四の五の言わずに来る!!」
呼ばれてしぶしぶ前に出てきたのは、
まいと同じくらいの年頃の男だった。
「なんですか?向こうでは、佐吉さん暴れて大変なんっすよ?」
「いいからいいから!ほら、ここ、座んなさい!」
呼ばれた彼は、快活そうな顔立ちで、
少し困ったように笑っている。
どこか、幼なじみに似ている気がした。
そして、気づけば
彼はいつの間にか、まいの隣に座らされていた。
「こう見えて優しいしさ」
「気も利くのよ」
「ただ、出会いがなくてね」
周囲から、次々と重ねられる“売り文句”。
「おすすめよ?」
「ちょっと!何言ってんですか…!」
彼も、どうしていいか分からない様子だ。
自分のために、わざわざ呼び出されてしまった彼に、何故か申し訳なく思う。
まいは、どうにか早々に話を終わらせようとした。
「ありがたいんですけど、その、私、まだ全然、そんなの考えられなくて…。」
ほぼ無意識に、それと分からない程度に、そっと距離を取る。
なのに。
「あの……」
直也と呼ばれた青年は、まいの方へ、少し身を乗り出してきた。
「は、はい。なんでしょう…」
「その。こんな感じになっちゃいましたけど、いい人そうだなっては思ってたんです」
まいは、驚いて目を瞬かせる。
「え…」
「でも、なんか忙しそうで……話しかける隙なくて」
照れ臭そうに、直也は頭に手を当て、視線は合わない。
「そうだったんですか、大丈夫だったのに。すみません。」
まいも、曖昧に笑う。
「人付き合い、あまり得意じゃなくて」
「あ、いや、これから、仲良くして貰えたら、嬉しいっす」
会話は続くが、
どこか噛み合わないまま、
互いに遠慮が滲む。
そんな2人を、周囲は微笑ましく見ていた。
(えーと、どうしよう……)
まいは困って、ふと、視線を逸らす。
——その先に。
高成の隣には、
いつの間にか、女が座っていた。
整った顔立ちの、
華やかな人だ。
何かを囁きながら、
高成の肩に、軽く触れている。
高成は、
それを振り払うでもなく、
特に気にする様子もない。
ただ、
まいの方は見なかった。
(……あ)
胸の奥に、
小さな違和感が落ちる。
数日前。
反物を抱えた別の娘が、
高成に助けられていた時。
あの時と、
よく似た感覚。
けれど——
今回は、
それだけじゃない。
理由の分からない、
小さな苛立ちが、
確かに混じっている。
(……なんで)
分からない。
分からないままなのに、
胸がざわつく。
その様子を察したのか、
おきよ達がそっと杯を差し出した。
「ほら、とりあえず飲みなさい」
「飲まないと、話せないこともあるわよ」
その言葉に背中を押されるように、
まいは杯を取る。
(そうだ。別に、ちょっとくらいなら……)
——高成だって、楽しんでいる。
そう見えただけかもしれない。
それでも。
私だけ、置いていかれたみたいだ。
「はい……いただきます」
誰に向けた言葉かも分からないまま、
少しだけ指先に力をこめて、
まいは杯を一気に煽った。
喉を焼く熱。
遅れて、苦味。
「——っ」
思わず咳き込みそうになるのを、
必死に堪える。
「大丈夫!?」
ユキの声が、すぐ近くで弾けた。
周りでは、
なぜか拍手が起きている。
(……飲みすぎた)
そう思った時には、
もう、遅かった。
杯の底は、
すっかり空になっていた。




