薄宴
店の戸が開く前から、
中の気配は伝わってきた。
人の声。
器の触れ合う音。
笑い声が、雪の夜気を押し返すように滲んでいる。
「……もう、何人か先に来ていらっしゃいますね」
まいがそう言うと、
高成は短く頷いた。
「そうだな」
そのまま、襖に手をかけた。
一瞬、温い空気が流れ出て、
まいは思わず瞬きする。
眩しい。
人がいる。
声が重なっている。
商家の中とは違う、
もっと雑多で、生きた賑わい。
すでに何人かが集まっていて談笑している。
まいは、無意識に一歩だけ歩幅を狭め、
高成の背に続いた。
高成が入ると、
何人かがこちらに気づく。
「あ、成高さん」
「お疲れさまです」
「今日はどうも」
軽い声が飛ぶ。
高成は立ち止まり、
深くはないが、丁寧に応じる。
「……どうも。疲れさまです」
それだけだ。
馴れ馴れしくはない。
だが、場の流れから浮くこともない。
まいは、その様子を横で見ながら、ほんの少し目を見張った。
(……こんなふうに話すんだ)
城でも、逃亡の途中でも見たことのない姿だった。
人の輪の中に、違和感なく立っている。
まいは、横でそれを見ながら、
妙なところに感心していた。
知っている顔もいる。
この数日、高成と一緒に警備に立っていた者。
売り場で顔を合わせていた者。
けれど——
ユキ達の姿はない。
おきよも、まだ来ていない。
(……まだなんだ)
そう思った途端、
胸の奥が、少しだけひやりとした。
知らない顔ばかりの中で、
頼れるのは目の前の存在だけだということを、改めて意識する。
まいは、無意識に背筋を伸ばした。
「ここ、空いてますよー」
促されるまま
二人は奥へ進む。
中央より、少し外れた位置。
「こちら、どうぞ」
声をかけられ、
高成が先に腰を下ろす。
まいも、それに倣った。
(…ここが空いててよかった)
真ん中の賑やかさからは、
ほんの一歩分、距離がある。
まいの隣はまだ空席だ。
落ち着く場所。
卓の上には、
すでにいくつか料理が並んでいた。
湯気の立つ煮物。
照りのある焼き魚。
揚げ物の香ばしい匂い。
(……ごちそうだ……)
思わず、目が奪われる。
こんなに揃った食事を見るのは、
久しぶりだった。
隣では、
高成がまた軽く頭を下げている。
「今日は雪の中、ご苦労さまです」
「こちらこそ」
言葉は短いが、
場を乱さない。
まいは、その横顔を見ながら、
自分の手を膝の上で握り直した。
(……私、うまく馴染めるかな)
そう思った、その時。
「じゃあ、全員揃ってはいませんが」
少し通る声が、場をまとめる。
「時間ですし、始めましょう」
その声に合わせるように、
徳利が配られ始めた。
「今日来られてませんが、店主が、わざわざ用意してくれた酒だそうですよ」
「お、上等な奴じゃねぇか。太っ腹だねぇ!」
誰かの言葉に、軽い笑いが起こる。
「こんな日ですからね」
「冷えますし」
その一言で、場の空気が和らぐ。
まいの前にも、
小さな杯が置かれた。
(……え)
一瞬だけ戸惑ってから、
そっと両手で受け取る。
高成の前にも、
同じように杯が置かれる。
高成は、それを見下ろし、
ほんのわずかに間を置いた。
断る言葉も、理由も口にせず、
ただ、場の流れに従うように杯を取る。
「では——」
声が上がる。
「遅くなりましたが新年のお祝いと、
皆さんの働きに」
杯が持ち上がる。
「乾杯」
重なる声。
器が触れ合う、澄んだ音。
まいも、少し遅れて杯を上げた。
高成の動きは、控えめだった。
だが、杯を下ろす仕草に、迷いはない。
(皆飲んでる……飲んで、いいのかな)
戸惑う舞を他所に。
杯を口に運んだのは、高成の方が先だった。
一口。
迷いなく、喉を鳴らして飲み下す。
「……」
誰かが、少し意外そうに目を向ける。
「お、これ結構強いのに。いける口ですか」
「ええ、まあ」
それだけ答えて、杯を卓に戻す。
むせることも、顔色を変えることもない。
(……飲めるんだ)
まいがそう思った、そのときだった。
「お嬢ちゃんは?」
向かいに座っていた年配の男達が、にやりと笑ってこちらを見る。
「杯、置いたままじゃないか」
「せっかくの席だぞ」
冗談めいた声だが、
逃げ場のない調子だった。
「え、ええと……」
まいは、思わず杯を見下ろす。
酒の匂いが、ふわりと鼻をつく。
飲み方も、量も、分からない。
(……どうしよう)
周りはすでに盛り上がり始めていて、
今さら聞く空気でもない。
「ほらほら、一口くらい」
男が、軽く煽るように言う。
「っ……いただきます…!」
まいは意を決して杯を持ち上げ——
その瞬間。
すっと、横から手が伸びた。
杯が、視界から消える。
「あ」
声を上げるより早く、
高成がその杯を受け取り、そのまま口に運んでいた。
一息。
ごくり、と音を立てて飲み干す。
「……っ」
周囲が、一瞬だけ静まる。
高成は、何事もなかったように杯を伏せ、
淡々と言った。
「失礼、つい。
……上等な酒は、妹には勿体ない」
声は低く、だが柔らかい。
「まだ、こういったものに慣れていないので」
言い訳でも、拒絶でもない。
場の空気を壊さない、ちょうどいい断り文句。
男達は一瞬きょとんとしたあと、
ははっと笑った。
「なるほど、兄貴がしっかりしてる」
「こりゃ失礼」
そう言いながらも、
視線は今度は高成へと向く。
「じゃあ代わりに、もう一杯いけますな?」
徳利が、当然のように差し出される。
高成は、それを受け取った。
「……ほどほどに」
そう言いながらも、
断る気配はない。
杯が満たされる。
また一口。
今度は少しだけ、ゆっくり。
(……助かった)
まいは、胸の奥で小さく息を吐いた。
初めての居酒屋。
初めてのお酒。
けれど、
隣には、変わらず高成がいる。
その事実だけが、
まいの胸に絡んでいた緊張を、
少しずつ、ほどいていった。
だが、助かった、と思ったのも束の間。
今度は話題が、
高成を中心に回り始めていた。
「成高さん、どこでそんな腕を?」
「浪人って言ってましたよね」
「この前のごろつきの対応、助かりましたよ」
声が重なる。
「あちこちを渡り歩いてましたから」
高成は時々嘘を交えながら、のらりくらりと質問を躱していく。
まいは、ただ、相槌を打つこともできずに座っていた。
(……私、このまま黙ってていいのかな)
料理は美味しそうなのに、
箸を伸ばしていいのかもわからない。
視線を落とした、そのとき。
「たま!」
明るい声がした。
顔を上げると、
ユキとおきよが、入口から小さく手を振っていた。
「ユキちゃん!おきよさんも。お疲れ様です」
見慣れた顔に、思わず肩の力が抜ける。
「ここ空いてる?」
「隣いい?」
「はい、どうぞ!」
声が弾む。
二人は自然にまいの隣に腰を下ろし、
場の空気が、少しだけ変わった。
「寒かったねー」
「外、雪すごいよ」
そんな何気ない言葉に、
緊張が緩んでいく。
まいは、二人の方へ身体を傾ける。
気づけば、高成に背を向ける形になっていた。
高成は、その様子を一瞬だけ見てから、
再び杯に視線を戻す。
まいは、その横顔を見ながら思った。
——また、守られてしまった。
さっきも、今も。
けれど同時に、
この場所での自分の立ち位置を、
はっきりと意識してしまった。
宴は続く。
笑い声と、酒の匂いの中で、
まいは、ほんの少しだけ輪の外にいた。




