無音の言葉
——これは、夢だ。
そう理解した瞬間から、
景色は現実よりも曖昧で、
それでも感情だけが、やけに生々しかった。
夢の中で、まいは小さかった。
今よりも視界が低く、
足元が心許ない。
声が、
胸の奥から溢れてくる。
泣いている。
声を上げて、
身体を震わせて、
理由も分からないまま、
ただ泣いていた。
前にいるのは、高成だった。
背を向けている。
いつも見ていた、迷いのない立ち姿。
(……行っちゃう)
理由は分からない。
でも、そうだと分かる。
「……行かないで」
掠れた声が、喉からこぼれる。
「行かないで!」
叫んだ瞬間、
高成の足が止まった。
ゆっくりと、
振り返る。
(──?)
その顔を見た瞬間、
胸の奥で、微かな違和感が走った。
まだ硬さの残る輪郭。今よりも短い髪。
(……知らない)
今の高成とは、どこか違う。
若いと、そう分かる。
けれど——
自分は、こんな頃の高成を見たことがない。
知らないはずなのに、
なぜか、そうだと分かってしまう。
理由を考える前に、
その違和感は、すぐに掻き消えた。
音が、届かない。
高成は確かに話しているのに、
声だけが、こちらへ来ない。
「……?」
必死に耳を澄ませても、
聞こえるのは、自分の泣く音だけだった。
伝えようとしているはずなのに。
言っているはずなのに。
声だけが、
最初から存在しなかったみたいに。
(どうして……)
問いかける前に、
高成の姿が、滲み始める。
振り返った顔が、
再び背を向けた瞬間、
そこにいるのは、
今の高成と同じ姿だった。
若さは消え、
迷いのない背中だけが残る。
そのまま、
ゆっくりと遠ざかっていく。
「待って——」
手を伸ばした、その瞬間。
⸻
はっと、目が覚めた。
喉がひくりと鳴り、
息が、うまく吸えない。
胸が苦しい。
頬に触れると、
指先が濡れた。
涙だった。
夢の中では、
あんなに声を上げて泣いていたのに。
現実では、
音も立てずに、
ただ、涙だけが流れている。
「……なんで……」
理由は分からない。
ただ、
胸の奥に残った感覚だけが、
どうしても消えてくれなかった。
夜明けは、思ったよりも静かに訪れた。
障子越しに差し込む光は淡く、
昨夜の白さが嘘のように、外は穏やかだった。
まいは、布団の中でしばらく動けずにいた。
(……夢)
そうだと、分かっている。
けれど、
胸の奥に残った感覚だけが、
現実のもののように、消えてくれなかった。
背を向けていく高成。
振り返った、若い顔。
音のない言葉。
考えかけて、
それ以上は、やめた。
答えの出ない問いを、
朝のうちから抱える余裕はない。
身を起こし、
顔を洗い、
いつも通りに身支度を整える。
衝立の向こうでは、
高成がすでに起きている気配がした。
特別なことは、何もない。
「おはようございます」
「ああ」
短い返事。
昨夜のことなど、
なかったかのような声だった。
(……普通だ)
そのことに、少しだけ胸がざわついた。
***
宿を出ると、
昨夜の雪は、しっかりと積もっていた。
道の端も、
屋根の縁も、
白く輪郭をなぞられたようになっている。
踏みしめるたび、
きゅ、と小さな音がした。
(……本当に、降ったんだ)
積もりそうだとは思っていたけれど、
こうして白に包まれると、どこか現実味がない。
だけど、足裏の冷たさだけが、確かに現実だと教えてくれた。
街は、少しだけ音を失っている。
人の動きも、
声も、
雪に吸われて、遠い。
だが、商家の暖簾をくぐると、
外の白さが嘘のように
中はいつもの色と匂いに満ちていた。
——1日はもう始まっている。
まいは、
外套についた雪をそっと払ってから、
いつもの持ち場へ向かった。
昼の商家は、いつもの活気を取り戻していた。
反物の山。
帳場の声。
客の出入り。
昨日の緊張などなかったように、
店は、きちんと日常を続けている。
まいも、持ち場につき、
言われた通りに体を動かす。
反物を運び、
札を整え、
声をかけられれば、応える。
——けれど。
ふとした拍子に、
意識が、昨夜へ引き戻される。
雪の音。
傘の下。
高成が、何かを言いかけた横顔。
(……あの時)
風に消えた言葉。
聞こえなかった、あの一瞬。
(何を、言おうとしたんだろう)
考えた途端、
今朝見た夢が、重なる。
背を向ける姿。
音のない口の動き。
胸の奥が、きゅっと締まる。
「……たま」
低い声に、
はっと我に返った。
目の前には、
腕を組んだおきよが立っている。
「手、止まってるよ」
まいは、慌てて頭を下げた。
「す、すみません」
「考え事するのはいいけどね、ここは仕事場だよ」
おきよは、ため息混じりに言う。
「……はい」
反物に視線を戻す。
布の感触。
重さ。
色。
現実は、ここにある。
(……集中しなきゃ)
自分に言い聞かせるように、
まいは、もう一度手を動かした。
けれど。
昨日の夜と、
今朝の夢と、
風に消えた言葉は、
作業の合間を縫って、
何度も、胸の奥に浮かび上がってくる。
(……聞かなかった)
自分から、聞かなかった。
それが正しかったのかどうか、
まだ、分からない。
ただ、
昨日までとは違う何かが、
静かに動き始めている気がして。
まいは反物を抱えたまま、
ほんの一瞬だけ、入口の方を見た。
そこに立つ高成は、
今日も変わらず、外に目を向け腕を組んでいる。
——変わらない、はずなのに。
胸の奥で、
小さな違和感だけが、
消えずに残っていた。
午後になり客足が落ち着く。
反物の山も、目に見えて低くなっている。
まいは、一人で帳場脇の作業を任されていた。
札を揃え、
包みを整え、
次に回す品を確認する。
——その時。
指先が、わずかにずれた。
重ねたはずの札が、
一枚だけ、逆を向いている。
「あ……」
声に出す前に、
まいは気づいて手を止めた。
すぐ直せば、
誰にも分からない程度のこと。
けれど、
胸の奥が、ひくりと鳴った。
(……だめ)
今日は、もう余計なことはしないと決めたはずだ。
護衛の山場は越えた。
でも、契約満了までは、あと三日。
ここにいる限り、
気を抜く理由なんて、一つもない。
まいは、深く息を吸い、
札を正しい向きに戻した。
一つずつ、
丁寧に。
(……集中)
夢のことも。
昨夜のことも。
今は、置いておく。
手を動かしながら、
自分にそう言い聞かせた。
***
その様子を、
高成は、少し離れた場所から見ていた。
ほんの一瞬。
札を持つ手が止まったこと。
呼吸が、わずかに乱れたこと。
それだけで、
異変と呼ぶほどのものではない。
だが——
(……らしくない)
そう思った自分に、
高成は、内心で眉を寄せた。
まいは、
元々器用な方ではない。
だが、
今まで「ぼんやりする」ことはなかった。
それが、
今日は、ほんの一瞬とはいえ、目に見えた。
声をかけることもできた。
注意することもできた。
けれど、
高成は何も言わなかった。
理由は、はっきりしている。
今のそれは、
叱るべきものではない。
むしろ、
自分で気づいて立て直そうとしている。
——その途中だ。
視線を外した、その時。
「成高さん」
店の者に声をかけられ、
高成は顔を上げた。
「少し、よろしいですか」
頷くと、
そのまま、まいの方へも声が飛ぶ。
「たまさんも」
まいは、驚いたように顔を上げ、
慌てて作業を置いた。
「はい」
二人が揃ったのを見て、
店の者は、少し言いづらそうに笑う。
「今日の夜なんですがね」
一拍置いてから、続けた。
「だいぶ遅くなってしまったのですが、
身内だけで、新年会をやろうと
思ってまして。
もしよければ、お二人もどうかなと」
まいは、
一瞬、言葉に詰まった。
新年会。
この商家の人たちと、
仕事としてではなく、
同じ場に座るということ。
(……私たちが?)
視線が、
無意識に高成へ向かう。
高成は、すぐには答えなかった。
表情は変わらない。
だが、ほんの一瞬、
思案する間があった。
商家の者が、少し困ったように笑った。
「実は……」
一度、言葉を選んでから続ける。
「この雪で、何人か来られなくなってしまいまして。店に前払いは済ませてて、料理も余りそうで」
肩をすくめる。
「無理に、とは言いませんが、せっかくなら、なるべく顔を出してもらえると助かります」
場の空気は、柔らかい。
断っても、
誰も気を悪くしないだろう。
それでも——
高成は、静かに口を開いた。
「……少し、考えさせてほしい」
その言葉に、
店の者は、ほっとしたように笑った。
「ええ。もちろんです。
今夜までに返事をいただければ」
そう言って、
軽く頭を下げ、去っていく。
残された二人の間に、
短い沈黙が落ちた。
まいは何か言おうとして、やめた。
高成も、
まだ何も言わない。
ただ、
さきほどより少しだけ、
距離が近づいたような気がした。
まいは、そのまま立ち止まり、
一瞬高成を見上げる。
「……」
一度、口を開きかけて、閉じる。
(……いや、聞こう)
少しだけ間を置いて、
視線を床に落としたまま言った。
「……どう、します?」
高成は、すぐには答えなかった。
まいは続ける。
「新年会……」
言葉にした途端、
自分の声が、思ったより軽く聞こえて、
少しだけ居心地が悪くなる。
「行っても……いいんでしょうか」
問いというより、
確認に近い。
行きたい、という気持ちがないわけではない。
むしろ、
ここで過ごした時間が、楽しかったからこそ。
けれど——
(浮かれていいのかな)
胸の奥で、
そんな声も同時に響いていた。
逃げている身で。
期限のある場所で。
そんなことを考えながら、
宴の席に座っていいのか。
高成は、
一歩先を歩きながら、
ほんのわずかに歩調を緩めた。
考えている。
それが、
まいにも分かった。
「……長居はしない」
しばらくして、
静かに言う。
「挨拶だけだ。
二次があるなら、そこまでは出ない」
言葉は短い。
だが、拒んではいない。
まいは、
その横顔を見上げた。
「……じゃあ」
声が、少しだけ柔らぐ。
「行く、ってことで……」
「ああ」
それだけだった。
許された、というより、
線を引かれた。
けれど、
完全に閉ざされたわけでもない。
その曖昧さが、
今の距離には、ちょうどよかった。
まいは、
小さく息を吐いた。
(……よかった、のかな)
答えは出ないまま。
ただ、
二人はまた各々の仕事へ戻った。
雪の気配が残る空気の中で、
今夜のことを、
それぞれ胸に抱えながら。




