途切れた約束
高成は、しばらく何も言わなかった。
雪が、傘を叩く音だけが続く。
そして、低く静かな声で言った。
「……先程の話だ」
まいは、視線を上げた。
「お前は、どう思った」
問いは短い。
試すようでも、追い詰めるようでもない。
ただ、答えを求めている声音だった。
何の話だろうか。
新吉の母からの礼のこと?
いや——違う。
そうではなく。
商家に残るか否か。
ここに、留まる可能性の話だ。
「どうって……」
言葉に詰まり、まいは小さく息を吸う。
どう思うも何も、
選択肢など、最初から決まっている。
「……残念ですけど」
視線を落としたまま、続けた。
「できないですよね」
商家に残ること。
ここで、暮らしていくこと。
そんなのは無理なのだと、
言わなくても、互いに分かっている理由がある。
「私たちは……追われている立場ですし、
それ以外の選択があるとは、思えません」
間違ったことは言っていない。
——なのに。
高成は、すぐには答えなかった。
傘の下、ほんのわずかな沈黙。
雪明かりに照らされたその横顔を見て、
まいは、胸の奥がざわつくのを感じた。
(……?)
表情は、いつもと変わらない。
無表情と言っていいほど、静かな顔。
けれど。
その目が、一瞬だけ、
何かを悼むように揺れた気がした。
ほんの一瞬だ。
他の誰が見ても、気づかない程度の変化。
それでも、まいには分かってしまった。
(……どうして)
なぜ、そんな顔をするのか。
今の質問は、確認なのだと思った。
現実を、理解しているかどうか。
甘いことを考えていないか、
足を止める気がないか。
そのくらい、わかっているのに。
自分は、当たり前のことを答えた。
正しい判断をしたはずなのに。
胸の奥が、理由もなくざわつく。
気づけば、まいは高成の目を見ていた。
——以前なら、避けていたかもしれない。
けれど今は、
目を逸らさずにいられる。
言葉を交わさなくても、
その奥にあるものを、なんとなく感じ取れてしまう。
(……近くなった)
距離が。
物理的な距離ではない。
心の、どこかの距離が。
高成は、まいから視線を外し、
雪の降る先を見つめた。
吐く息が、白く夜に溶ける。
その背中を見ながら、
まいは、胸のざわめきを抑えきれずにいた。
(……どうして、そんな顔をするんですか)
問いは、まだ声にならない。
けれど、
きっと、聞けば困らせてしまうのだろう。
高成は、しばらく黙っていた。
雪の降る音に、風が混じる。
「……そうだな」
低く、短い声だった。
「お前の言ったことは、間違っていない」
まいは、思わず顔を上げる。
否定されると思っていたわけではない。
それでも、はっきりとそう言われると、胸の奥が静かに揺れた。
「ここに残る理由はない。
護衛を続けることも、下働きをすることも——」
高成は、一つ一つ、確かめるように言葉を置く。
「どれも、正しい選択ではない」
雪明かりの下で、目が伏せられる。
「お前が“できない”と言った理由も、分かっている」
まいは、息を詰めた。
分かっている、という言葉が、
どこか重く胸に残る。
(……それなら)
それ以上、何かを言われるのだろうか。
高成は、わずかに言葉を探すように口を開いた。
「だから——」
その瞬間。
突風が、二人の間を切り裂いた。
ばさり、と傘が大きく揺れる。
雪が一気に舞い上がり、視界が白に閉ざされる。
「……っ」
まいは思わず肩をすくめ、身を縮めた。
耳元で、風の音が唸る。
高成の声は、完全にかき消されてしまった。
しばらくして、
風が嘘のように弱まる。
雪は、また静かに降り始めていた。
「……今、何か言いました?」
まいは、恐る恐る尋ねた。
───聞き逃してはいけない言葉だった気がしたから。
高成は、一瞬、まいを見た。
その目が、再びわずかに揺れる。
けれど、すぐに視線を外し、
何事もなかったかのように口を開いた。
「いや」
短く、そう言ってから、
「今夜は冷えるな」
話題を、静かにすり替えた。
まいは、その横顔を見つめたまま、
すぐには言葉を返せなかった。
(……言いかけた)
確かに、何かを言おうとしていた。
風がなければ、
自分は、その言葉を聞いていたかもしれない。
それでも。
まいは、聞き返さなかった。
今、踏み込めば、
何かが変わってしまう気がした。
「……そうですね」
代わりに、そう答える。
二人は、再び歩き出した。
雪は深く、
街は静か。
傘の下には、
言葉にならなかったものだけが、
そっと残されていた。
***
宿に戻る頃には、
雪はさらに深くなっていた。
軒先で傘を畳み、
濡れた外套を払う。
中は、いつもと変わらない。
行灯の灯り。
畳の匂い。
外の冷え込みが嘘のような、静かな空気。
「先に休め」
高成は、それだけ言った。
声も、表情も、
昼までと何ひとつ変わらない。
「……はい」
そう答えながら、
まいは胸の奥に残ったものを、
どう扱えばいいのか分からずにいた。
衝立で隔てた空間に布団を敷く。
手慣れた動き。
いつもの夜。
——なのに。
指先が、少しだけもつれた。
(……変だ)
自分でも、理由が分からない。
寒さのせいでもない。
疲れのせいでもない。
雪の中で立ち止まった、あの一瞬。
傘の下で聞こえなかった言葉。
「だから——」
そこで、途切れた声。
(……何を、言おうとしたんだろう)
思い出そうとしても、
風の音しか浮かばない。
聞こえなかったのだから、
考えても仕方がない。
そう、分かっているはずなのに。
胸の奥で、
小さな棘のようなものが残っている。
まいは布団に横になり、
天井を見上げた。
高成の気配は、
入口側に静かにある。
距離は、いつもと同じ。
(……聞いて、よかったのかな)
ふと、そんな考えが浮かぶ。
——いつか、必ず話す。
その約束が、今夜だったのかもしれない。
もし、あの時、
風が吹かなかったら。
もし、
聞こえてしまっていたら。
自分は、
ちゃんと受け止められただろうか。
答えは、出ない。
今は、
商家での仕事が楽しかったこと。
ユキたちと笑ったこと。
雪の中で傘を差して歩いたこと。
それらが、
確かにここにあるのに。
それとは別のところで、
何かが静かに動き始めている。
(……怖い)
そう、はっきり自覚して、
まいは目を閉じた。
知りたいはずだった。
ずっと。
それなのに、
知ることが怖くなる日が来るなんて。
呼吸を整えようとするが、
うまくいかない。
しばらくして、
ようやく、息が落ち着く。
衝立の向こうから、
衣擦れの音がした。
高成が動いたのだろう。
それだけで、
胸の奥が、わずかに緩む。
(……いる)
何も言われていない。
何も変わっていない。
それでも、
その事実が、
今のまいには必要だった。
答えは出さないまま。
聞けなかった言葉を、
胸の奥に残したまま。
まいは、
ゆっくりと眠りへ沈んでいった。
雪の音が、
遠くで、静かに続いている。
この夜は、何も壊れていない。
けれど確かに、何かが、戻らなくなった夜だった。




