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淡雪






朝、戸を開けた瞬間、冷気が頬を刺した。


「……寒い」


思わず声が漏れる。


つい数日前まで、冬にしては穏やかだったはずの空気が、

一夜で嘘のように変わっていた。


雲は低く垂れ込み、

今にも雪を落としそうな色をしている。


まいは肩をすくめ、外套を掻き寄せた。

指先は、すでにかじかんでいる。


(今日は……)


今日は、護衛の山場だ。


もし何かあれば、

自分はきっと、ただ立ち尽くすだけだ。


自分に出来ることは、何もない。

それでも胸の奥が落ち着かない。


「…………。」


今日という日が、何かの区切りになる気がしていた。


まいは身支度の途中で一度手を止め、

引き出しの奥にしまっていた小さな紅を取り、

迷ってから、ほんの少しだけ唇に触れさせる。


そして、そのまま誰にも見せないように唇を結び、外套を整えて、部屋を出た。


先に出て、宿の入口で待っていた高成を見る。


無意識に、様子を確かめるような視線を向けてしまう。


——けれど。


高成は、いつもと変わらなかった。


外の寒さなど意に介さない様子で立ち、

通りの気配を一度見渡してから、短く言う。


「行くぞ」


それだけだ。


(……変わらない)


そのことに、なぜか言いようのない心細さが胸に残る。


「……はい」


二人は並んで、商家へ向かった。



***



商家の中は、表向きはいつも通りだった。


反物を運ぶ音。

帳場のやり取り。

客と従業員の、慣れた声。


けれど、

どこか空気が張っている。


まいにも、はっきりと分かった。


(……今日は、違う)


声が、いつもより抑えられている。

人の動きが、少しだけ早い。

笑顔の奥に、緊張が透けて見える。


詳しい話は、一般の従業員には知らされていない。

けれど「知っている者」だけが交わす視線や、

言葉の端に乗る硬さで、今日が山場だと分かってしまう。


「たま、そこ、こっちもお願い」


声をかけてきたのはおきよだった。

いつもより短い言い方で、手元だけを指す。


まいはすぐに頷く。


「はい」


手は、いつも通りに動いた。


反物を運び、

帳を整え、

言われたことを、黙々とこなす。


緊張しているのは、自分というより、店全体だ。

その空気に、胸の内側が押される。


(……大丈夫)


そう言い聞かせるように息を整え、

ふと、入口の方を見る。


(生田さん……)


高成が立っていた。


刀の位置も、

視線の配り方も、

一切変わらない。


その姿が、張り詰めた店の空気を、

ぎりぎりのところで支えているように見えた。


朝の「変わらない」は、どこか心細かった。

けれど今は、その変わらなさが、胸の奥を静かに支えてくれる。


(……生田さんが、いる)


それだけで、

息が少しだけ深く吸えた。


昼を過ぎ、

時刻は、ゆっくりと進む。


何事もなく。

誰かが声を荒げることもなく。


——普段通りの店の活気の、その奥で。

見えない糸が張られたまま、時間だけが運ばれていく。


そして。


取引は、滞りなく終わった。


商家の奥で、小さな安堵の息が漏れる。

それが波のように、店の中へ広がっていく。


取引の是非は、大々的には発表されない。

けれど、知っている者同士が交わす頷きや、

ほんの一瞬の目配せで——終わったのだ、と察してしまう。


まいは、胸の奥に溜めていたものを、そっと吐き出した。


(……終わった)


そう思った瞬間。

なぜか、素直に「よかった」とは思えなかった。



——今日が無事に済んだということは、

この生活が、終わりへ近づいたということでもある。



それを自覚してしまった自分に、胸が痛んだ。


(……忘れてたわけじゃない)


逃げている途中なのだ。

自分はここに留まっていい人間ではない。


分かっている。

分かっているのに——寂しい、と思ってしまった。


(……わかった、はずでしょ……)


あの日、高成に同行を願い出た瞬間から、こうなることは決まっていた。


その感情を、まいは小さく叱るように押し込めた。



***




日が傾き、

従業員たちが帰り支度を始める頃。


「たま、また明日ねー」


「お疲れさま」


いつも通りの声。

いつも通りの別れ。


まいも同じように返事をしながら、

胸の奥が、少しだけ締めつけられるのを感じていた。


従業員達が多方帰った後、

商家の主は高成を奥へ呼ぶ。


まいも、高成の少し後ろについて奥へ入った。


部屋の端に控える。

二人の位置は遠かったが、声の調子から礼と報酬の話だと分かる。


しばらくして、

主が改めて口を開く。


「成高殿」


静かな声だった。


「今日の働き、心から感謝する」


高成は一礼し、短く応じる。


「無事に終えられて何よりです」


取引の成功そのものを祝う、

武士というより、仕事を請けた者の言い方だった。


主は頭を下げ、

用意していた包みを差し出す。


高成は受け取る。

中身を確かめることはせず、ただ礼を返す。


このまま話は終わる——

まいもそう思った。


だが、主は動かない。


高成も畳から立ち上がらず、

次の言葉を待つように視線だけを上げた。


「それと——」


一拍置いてから、主は続けた。


「よければ、このまま、うちの護衛として働いてもらえないだろうか」


高成は、すぐには答えなかった。


「契約の期間もある。無理にとは言わんが」


主はそう前置きしてから、

まいへと視線を向ける。


「たま殿もだ。

今日見ていたが、店の者も助かっていたようだった」


思いがけない言葉に、

まいは息を呑む。


(……ここに、いていい)


働きを認められたことが、

胸の奥で小さく熱になった。


ユキたちの顔が浮かぶ。

今日一日のことが、次々と蘇る。


——でも。


追っ手のこと。

自分が何者なのかわからない不安。

高成の立場。


現実が、すぐに頭を占める。


「……ええと」


まいは答えられず、

無意識に高成の方を見た。


高成が口を開く。


「ありがたい話だが——」


だが、主は穏やかに手を上げた。

言わんとしていることを、最初から分かっていたように。


「契約が切れるまで、まだ三日ある。

それまでに、考えてくれればいい」


高成は、それ以上は何も言えず、断りを入れる代わりに短く頭を下げた。


「……検討します」


主も、同じように頷いた。


「良い返事を期待している」


それで話は終わった。


店主が部屋を出ると、

残されたのは高成とまいだけになる。


まいは、何も言えず、

ただ隣に立っていた。



***



店を出ると、

外はすっかり暗くなっていた。



ぽつり、と。


頬に、冷たいものが触れる。


——雪だ。



まいは思わず空を見上げた。


暗い空から、音もなく白いものが落ちてくる。

商家の玄関先に吊るされた行灯の光が、それを照らし出していた。


闇の中で、雪だけが、ふわりと浮かぶように見える。


(……きれい)


白、というより

光を含んだ綿みたいだ。


気づけば足が止まっていて、少し先を歩いていた高成が、静かに振り返った。


少し先で、高成は、

同じ空を、少し先を見るように見上げる。


二人は並んで空を見上げていたが、互いの視線が交わることはなかった。



「……」


言葉が、自然と消える。


雪の密度が増す。


走って宿へ戻るか。

それとも、しばらく待つか。


迷うように立ち尽くしていると、


「どうしました?」


穏やかな声が、後ろからかけられた。


振り返ると、

商家の女主人が立っていた。


女主人、つまり新吉の母は、最近まで店を離れており、姿は見かけていたが直接話したことはなかった。


柔らかな物腰の女性だ。



まいは言葉を探したが、すぐには見つからず、曖昧に視線を泳がせた。


女主人はその様子を責めるでもなく、

ふと空を見上げて、穏やかに言った。


「ずいぶん降ってきましたね」


そう言ってから、

二人の足元に落ちる雪を、しばらく黙って眺める。


沈黙は、気まずさを含まず、

ただ雪の音だけが、その場を満たしていた。


そして、女主人は、

一瞬だけ、言葉を選ぶようにしてから——


静かに、深く頭を下げた。


まいは、思わず息を詰めた。


なぜ、そんなことを——。


「お礼が、まだでした」


その声は、控えめで、

けれどはっきりとした意志を帯びていた。


「あの日は……本当に、ありがとうございました」


まいは一瞬、何のことかわからず、

それから遅れて、胸の奥がひとつ、ほどけた。


新吉を救ったこと。

その一件を、ずっと心に留めていたのだろう。


高成は、わずかに目を伏せた。


「……当然のことをしたまでです」


短く、そう答える。

感謝を受け取りながらも、

そこに留まらないような、距離を保つ声だった。


女主人はゆっくりと顔を上げ、

もう一度、二人を見つめる。


「ええ。でも——」


言葉を切り、

今度は、母の顔で続けた。


「あの子は、私たちにとって、

何より大切な子なんです。

だから、ありがとうございました」


その声は、丁寧で、温かく、

迷いのない「守る側」のものだった。


まいは、そのやり取りを傍で聞きながら、

胸の奥が、じんわりと温かくなるのを感じていた。


(……よかった)


守ったからではない。

正しかったからでもない。


ただ、

「そこにいる子を、大切に思っている」

それだけが、はっきりと滲んでいた。


まいは、その温度を、胸の奥で受け取る。


自分も、似たような気配に、包まれたことがあった気がした。



——それでも。


胸の奥には、

まだ確かめていないことが、残っている。


それを思い出してしまえば、

今日の静けさが、崩れてしまう気がしたから、

まいはそっと意識を逸らした。



そんなことを考えていると、


女主人が、ふと思い出したように手元を見た。


「あ……」


そう言って、

手にしていた傘を差し出す。


「雪が、強くなってきましたね。

一つしかありませんけれど……」


遠慮がちではあったが、

迷いのない動作だった。


高成は反射的に首を振りかける。


「いや、我々は——」


「どうか」


女主人は、小さく微笑んで言った。


「せめて、これだけでも」


まいは一瞬ためらい、

それから小さく頭を下げて、傘を受け取った。


「……ありがとうございます」


女主人は最後に、もう一度だけ、静かに頭を下げる。


「お二人とも、お気をつけて」


傘を受け取り、

二人は雪の中を歩き出す。





高成が傘を差すと、まいは自然に、その隣に並んだ。

傘がわずかにこちらへ傾けられら歩くたび、高成の肩に雪が触れている。


まいは、それに気づいて、何も言わず、

そっと高成の方へ体を寄せた。


街は、すっかり静まり返っていた。


白が、世界の輪郭を柔らかく溶かしていく。

家々の軒も、路地の石も、

声の痕跡も、足跡の行き先も。


昼に並んでいた露店は、跡形もない。

人の声も、行き交う気配もない。


雪は音を吸い、

灯りだけが遠く滲んでいる。


静かな世界に、

二人の足音だけが、淡く響いた。


(……まるで)


この街に、

二人だけ取り残されたみたいだ。


そう思った、そのとき。


高成が、ふいに足を止めた。


まいは一拍遅れて立ち止まり、

その瞬間、傘の縁から外れた肩に、雪が触れる。


雪は、思ったより冷たかった。


(どうしたんだろう?)


まいは傘の下から見上げる。


目線は、合わない。



高成の吐く息だけが、

白く、夜空へ溶けていった。








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