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距離

朝の光で、目が覚めた。


宿の部屋は、まだ静かで、

外から聞こえるのは、通りを行き交う人の気配だけだ。


身を起こすと、

もう高成は起きていた。


いつもと同じように、無駄のない動きで支度をしている。


朝餉が運ばれ、

二人で向かい合って食べる。


会話は、ない。


それも、いつも通りだった。


湯気の向こうで、高成は淡々と箸を進めている。

音を立てず、急ぐこともない。


(……変わらない)


そう思う。


何も変わっていない。


それなのに、

なぜか視線が、少しだけ引っかかった。


食事を終え、

まいは自分の身支度に取りかかる。


髪を整えようとして、

ふと、手が止まった。


昨日のことが、

何の前触れもなく思い出される。


——淡い色の方が、似合う。


反物棚の前で、

そんな言葉をもらった。


意識せずに選んできた髪紐を、

今日は、少しだけ見比べる。


いつもより、明るい色。


(……これで、いいのかな)


結ぶ位置も、迷った。


いつもと同じ高さでまとめかけて、

一度ほどく。


少しだけ、上。


それだけで、

鏡に映る印象が、わずかに変わる気がした。


結局、

大きくは変えていない。


けれど、

迷ったという事実だけが、胸に残る。


部屋を出ると、

高成が先に立つ。


数日前まで、その背中だけを見て歩いていた。



今は、自然と、横に並んでいる。



歩調が合っていることに、

歩きながら気づく。



(……周りから、どう見えるんだろう)



通りを行く人の視線が、

ふと気になる。


兄妹だろうか。

それとも——


そこまで考えて、

まいは小さく首を振った。


(……考える必要、ない)


ただ、一緒に歩いているだけだ。


商家へ向かう道は、

昨日と同じ。


店の軒先。

行き交う人の声。


見慣れたはずの景色が、

少しだけ違って見える。


理由は、分からない。


ただ、

胸の奥に、静かな高揚がある。


昨日までと同じ朝。

同じ道。

同じ人。


それなのに。


一歩外に出ただけで、

世界が、ほんの少しだけ近くなった気がした。


まいは、

何も言わずに歩き続けた。


隣にいる高成の存在を、

いつもより、はっきりと感じながら。




***




商家に着くと

まいは店の中へ、高成は表へと、それぞれの役目に分かれた。


店内は、朝から慌ただしい。

反物の整理が追いつかず、

通路の脇には積み上げられた布がいくつも並んでいる。


まいは、昨日雑談していた娘たちと一緒に、

反物の整理を任されていた。


(……倒れないように)


腕に力を込め、

布が崩れないよう慎重に動かす。


反物の整理は、

思っていた以上に単調で、根気のいる作業だった。


同じ動作を、

何度も、何度も繰り返す。


積み上げて、

向きを揃えて、

ずれを直す。


言葉を交わすことも少なく、

まいは淡々と手を動かし続けていた。


(……疲れた)


腕の重さを意識したところで、

小さく息をつく。


そのときだった。


「——っ、あ……!」


少し離れた場所から、

短い声が上がる。


はっと顔を上げると、

隣で作業していた娘が、

低い脚立の上で体勢を崩していた。


反物を抱えたまま、

足元が揺れる。


脚立がきしみ、

積み上げた布が傾く。


(危ない——)


まいも思わず、

一歩踏み出しかける。


その瞬間だった。


反物が落ちるより早く、

人影が割って入る。


高成だった。


踏み込んだ勢いのまま、

左腕で娘の身体を引き寄せ、

同時に反物を胸元で受け止める。


布が崩れる音も、

衝撃音もない。


確かに、

受け止めていた。


娘の体は、

高成の腕の中で完全に止まり、

脚立も倒れなかった。


「……大丈夫か」


低い声。


助けられた娘は、

一瞬きょとんとしたあと、

はっと我に返り、小さく頷く。


「は、はい……」


肩に触れられていたことに気づいたのか、

頬が、みるみる赤くなる。


高成はそれを気にした様子もなく、

娘がしっかり立ったのを確認してから腕を離した。


そして反物を持ち直し、娘の腕に戻す。


「次は、気をつけろ」


それだけ言って、

すっと距離を取る。


助けられた娘は、

しばらくその場に立ち尽くしたまま、

惚けたように瞬きしていた。


───ふと、

高成の視線が動く。


その様子を見ていたまいを見る。


怪我はないか、

そう確かめるような、短い目線。


まいは、

無意識に小さく頷いていた。


「……」


高成は、

それ以上何も言わず、

そのまま店の奥へ戻っていく。


「成高すげぇー!」


少し遅れて、

新吉の声が響いた。


興奮した様子で、

高成のあとを追いかけていく。


残されたのは、

静まり返った作業場と、

助けられた娘の熱の残る横顔。


まいは、

なぜかそこから目を逸らせなかった。



胸の奥に、

小さな引っかかりが残る。


理由は、

まだ分からない。


ただ、

何かが静かに波立った。




***




休憩に入ると、娘たちは自然と集まった。


水を飲みながら、

さっきの出来事が話題に上がる。


「さっきの、見た?」


「完全に受け止めてたよね」


「あれは惚れるでしょ」


「そもそも顔がいいし」


まいは、

黙って聞いていた。


「この前もさ」


「店の前で揉めてた客、

 静かに追い払ってくれたんだよ」


「声低いのに、

 圧がすごくて」


自分の知らないところでの高成の話が、

次々に出てくる。


(……やっぱり、どこにいても頼られる人なんだな)


仕事としてのことだと、

頭では分かっている。


それでも、

なぜか少し遠く感じた。


「絶対、惚れちゃうよねー」


「毎日一緒にいたら無理でしょ」


楽しそうな声が弾む。


まいは、

その輪の中で、

何も言えずにいた。


胸の奥に、

居心地の悪さが広がる。


そのとき——


「たまは?」


不意に、

名を呼ばれた。


「店に、気になる人とかいないの?」


一瞬、言葉を失う。


自分に話題が向くと思っていなかった。


「あ、えっと……いない、かな」


そう答えると、

すぐに笑い声が返ってくる。


「だよねー」


「あんな人が近くにいたらさ」


「他の男、霞むよ」


「お兄さん、恋人とかいるの?」


矢継ぎ早に飛ぶ言葉に、

まいは答えに詰まる。


高成が、

どんな人なのか。


自分は、

まだ全部を知らない。


「ごめん……よく、分からなくて」


正直に言うと、

娘たちはあっさりと頷いた。


「そっかー」


そのとき、

店の奥から声がかかる。


「休憩終わりだよー!」


強制的に、

話はそこで切り上げられた。


まいは立ち上がりながら、胸の奥を確かめる。


答えは出ない。


ただ、

昨日までなかった小さな靄が、

そこに残っていた。






***





日が傾き、

店内の慌ただしさが少しずつ落ち着いてくる。


まいは、

店の入口付近で立っていた。


外を行き交う人の気配と、

中で交わされる声を、ぼんやり聞きながら高成を待っていた。


少し離れたところで、

高成と店主達が話している。


「——明後日が山場ですな」


「ええ。

 大口の取引になります」


「その間、

 引き続き頼みます」


「承知しました」


淡々としたやり取り。


護衛の仕事が、いよいよ佳境に入る。


(生田さんのことだから、きっと問題ないよね)


話が終わり、高成がこちらへ向かって歩いてきた。


「行くぞ」


短い一言。


「はい」


まいもそれ以上は答えない。


余計な言葉がない方が、今の距離感には合ってる気がした。






二人で店を出ると、

通りはいつもより人が多かった。


行商の声。

立ち止まる客。

行き交う人の肩。


まいは、

高成の少し後ろを歩いていた。


(……多い)


人の流れに押され、

一歩、間が空く。


「……っ」


慌てて足を早める。


けれど、

流れが途切れない。


高成は、

人の流れの中を迷いなく進んでいく。


まいは、

必死にその背を追った。


「生田さ…」


呼びかけながら、

手を伸ばす。


けれど、

人の波に押され、

足元が揺れる。


(はぐれる——)


そう思った瞬間、


雑踏の中から、

強く腕を引かれた。


体勢を崩しかけながら、

その手の方へ踏み出す。


ぐっと、

距離が縮まる。


気づけば、

高成のすぐそばだった。


近い。


息遣いが分かる距離。

まいは思わず手を引っ込みかけた。


高成は、

その仕草を一瞥すると、


「離れるな」


それだけ言って、すぐに放そうとした。


(……っ)


なぜか、

胸の奥がひやりする。


離れるのが、

少しだけ惜しい。


「……は、はい…すみません…」


謝りながら、自分からはその手を離せなかった。


まいが迷っていると、

高成は一歩踏み出そうとした足を止めた。


そして、

言葉もなく、短い溜息のあと

すっと腕を差し出す。


「……ここを」


低い声。


咎めるでもなく、

急かすでもない。


ただ、

必要だからそうした、という声音だった。


「あ……すみません」


気を使わせてしまったことが、

胸に引っかかる。


小さく答え、

その腕を掴む。


布越しに、

はっきりとした体温が伝わった。


高成は、

それ以上何も言わず、

歩き出す。


特別なことのようには、

扱わない。


ただ、

はぐれないための判断。


それだけ。


……それだけなのに。


まいの胸は、

なぜか落ち着かなかった。



人の間を抜けるたび、

高成の歩みはわずかに緩んだ。


前から来る者があれば、

半歩だけ外へずれる。


振り返りもしないのに、

不思議とぶつかりそうになることはなかった。



歩きながら、無意識に

自分が掴んでいる左腕へ視線が落ちる。


昼間の光景が、

不意に重なった。


反物を受け止めた腕。

娘を支えた、あの手。


同じ腕。


同じ位置。


(……同じ、なのに)


どうして、

こんなにも気になるのだろう。



そう思って——

ふと、別の疑問がよぎった。



今の自分たちは、

周りからどう見えているのだろう。



兄妹だろうか。

それとも——


(ううん……)


答えは、

そこで止めた。


高成は、

自分をそういう目では見ない。


それだけは、

分かっている。


確信に近い感覚が、

静かに胸に落ちた。


だからこそ。


このざわめきの理由が、

余計に分からなかった。





やがて、

人通りが落ち着く。


通りが開けた瞬間——


高成は、

何の前触れもなく腕を引いた。


声もない。


振り返りもしない。


そのまま、

いつもの距離で歩き出す。


まいは、

空いた手を、

しばらく下ろせずにいた。


(……おかしいな)


触れていたはずの体温が、

まだ残っている気がする。


でも、

それを気にしているのは、

きっと自分だけだ。


高成の歩き方は、

さっきと何も変わらない。


そして、

胸の奥に残った小さな靄は、

まだ、形を持たないままだった。



それが何なのか、

まだ名前はつけられなかった。


ただ——


昼よりも、

夜よりも、


一緒に歩くこの距離が、

少しだけ、落ち着かなくなっていた。







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