否定されない場所
昼の仕事が一段落すると、
帳場の空気が、少しだけ緩んだ。
反物の出入りが落ち着き、
人の動きもまばらになる。
「たまちゃんっ」
ユキが、小さく手招きした。
振り返ると、
同じ年頃の娘が二人、棚の前に集まっている。
「こっち来なよ」
気負いのない声だった。
一瞬だけ迷ってから、
まいは頷き、輪の中へ入る。
話題は、
最初は他愛ないものだった。
「今日、ほんと忙しかったよね」
「腕、まだ痺れてる」
「おきよさん、容赦ない」
笑い声が混じる。
まいは、少し遅れて相槌を打つ。
「……うん」
それだけで、
誰も不思議がらなかった。
輪の中に、
自然と席がある。
比良野では、
同じ年頃の娘たちが集まる輪に、
自分から近づこうと思ったことはなかった。
近づけば、
どこかで線を引かれる気がしていたから。
だから今、
当たり前のようにここに立っていることが、
まいには少しだけ不思議だった。
胸の奥がきゅっと小さく緊張する。
それと同時に、
ほんのわずか、
温かいものが混じる。
——歓迎されている、
という感覚だった。
ふと反物棚の前で、誰かが一反を引き出した。
「ねえ、これ」
淡い藍色。
光の当たり方で、
わずかに紫が滲む。
「たまに、似合いそうじゃない?」
「……私?」
思わず、自分の袖を見る。
今着ているのは、
目立たない色の着物。
汚れても困らない、
それだけを考えて選んだものだ。
「うん」
ユキが頷く。
「色白だし。
こういう落ち着いた色、映えると思う」
「髪もさー」
別の娘が続ける。
「赤みあるでしょ。
暗い色より、こういうのの方が合うと思うんだよねー」
言われて、
まいは視線を伏せた。
白い肌。
赤みがかった髪。
その色は、
村では視線を逸らされるものだった。
「触るな」「不吉だ」
直接言われたことはなくても、
そう扱われてきた色。
だから——
褒められる、という発想自体がなかった。
「こういう色、難しいんだよ」
「似合う人、限られるし」
「だから、合うの見つけたら強い」
何気ない口調だった。
気遣いでも、
同情でもない。
ただの、評価。
「………。」
——どうして、だろう。
比良野と、
ここは何が違うのだろう。
この色が、
反物の話だから許されているのか。
それとも、
この街が、
人の違いを閉じ込めない場所だからなのか。
まいには、まだ分からない。
ただ一つ確かなのは、
ここでは——
自分の色が、
問題にされていない、ということだった。
「ほら」
ユキが、反物を肩に当てる。
「こういうの、絶対いい」
「……そう、かな」
自信のない声だった。
「うん」
「間違いない」
即答だった。
胸の奥が、
静かにざわめく。
(……私の色は
ここでは、否定されない)
仕事の合図がかかり、反物は棚に戻される。
輪は、自然にほどけた。
輪がほどけても、
まいの足は、すぐには動かなかった。
胸の奥に残った感覚が何なのか分からず、
そのままにしておくのが怖かった。
置いていかれたようで、
でも、確かに受け取ったものがあって。
まいはしばらく、
反物棚の前に立ったまま、
自分の鼓動が落ち着くのを待っていた。
***
その日の仕事を終え、
宿へ戻る途中。
まいは、
道脇の小さな水路の前で足を止めた。
夕暮れの光を映す水面に、
人影が揺れている。
——自分だ。
しゃがみ込み、
そっと覗き込む。
白い肌が夕の色を含んで、少し柔らぐ。
そして、赤みを帯びた髪が、ほんのりと暗く見えた。
(……私)
比良野では、
この姿を見るたび、目を逸らした。
自分の色が、
何かを招く気がして。
水面に映る顔は、
何も変わっていない。
それなのに——
(……怖くない)
そう思ってしまったことに、
まいは小さく息を呑む。
今日、言われた言葉が、
静かに重なる。
「似合う」
「映える」
まいは、
そっと水面に触れる。
像が揺れ、
すぐに、また形を結ぶ。
(……私の色は
隠すものじゃ、なかった?)
立ち上がり、
水路から視線を外す。
胸の奥に残るのは、
戸惑いと、
ほんのわずかな温かさ。
まいは、
初めて自分の姿を
否定せずに見ていた。
そのことに、
まだはっきりとした名前をつけられないまま。
***
宿に戻ると、
外の音が、ふっと遠のいた。
昼の商家の喧騒が抜けきらないまま、
まいは荷を下ろす。
高成は、いつも通り戸口に近い位置に座り、
刀を壁際に置いた。
しばらく、
部屋には音がなかった。
沈黙が気まずいわけではない。
ただ、言葉が見つからないだけだ。
まいは、
畳の縁を指でなぞりながら、口を開いた。
「……今日、新吉さん」
高成が、ちらりとこちらを見る。
「また、生田さんの後ろを
ずっと付いて歩いてましたね」
ほんの少し、
声に笑いが混じる。
「生田さんに着いていこうと、何度も脱走しようとしてて、帳場のおきよさんに怒られてました」
「……そうか」
短い返事。
けれど、
聞いていないわけではないと分かる。
「でも、
すごく楽しそうで」
まいは、
思い出すように言った。
「生田さんのこと、
好きなんだと思います」
「……どうだか」
それだけ言って、高成は視線を外す。
まいは、
その反応に少し安心した。
否定も、
遮りもしない。
「あと……」
少しだけ、間を置く。
「今日は、
すごく個性的なお客さんが来て」
値切るのが、
とても上手でした」
「ほう」
「負けないように、
みんなで必死で……」
話しながら、
自分でも不思議に思う。
こんなことを、
誰かに話したのは、いつ以来だろう。
「向かいの団子屋さんから、
差し入れもあって。
大福でした
……甘かったです」
最後は、
少しだけ小さな声になる。
高成は、
わずかに息を吐いた。
「そうか」
「……はい」
素直に返事をすると、
それ以上、言葉は続かなかった。
それでも、
部屋の空気は、どこか柔らかい。
昼間よりも、
少しだけ距離が近く感じられた。
寝支度のため、衝立が立てられる。
衝立の向こうで、
布が擦れる音がした。
高成が、
布団に横になったのだと分かる。
それだけで、
まいの胸の奥が、ふっと緩んだ。
——ちゃんと、休んでいる。
今日も一日、
自分のためではない時間を過ごしていた人が、
こうして身体を横たえている。
それを確認できたことが、
なぜか、とても大切に思えた。
まいは、
それを横目で見てから、布団に入る。
「……おやすみなさい」
衝立越しに言う。
少し間があって、
「ああ」
低い声が返ってくる。
それだけで、
胸の奥が、静かに落ち着いた。
布団に横になり、
今日一日を思い返す。
忙しかった。
緊張もした。
でも——
怖くは、なかった。
まいの呼吸が、
ゆっくりと整っていく。
衝立の向こうに、
変わらない気配がある。
それを確かめるように、
まいは目を閉じた。
夜は、
静かに更けていく。
何事も起こらない、
ただの一日を終える夜だった。
そしてそれが、
今のまいには、何よりも大切だった。




