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根を張る時間




それから、数日が過ぎた。


朝、宿を出て、

商家へ向かう。


それが、特別なことではなくなっていた。


初日は、緊張で胸が詰まるようだった。

二日目は、指示を聞き逃さないことで精一杯だった。

三日目には、反物の重さに身体が慣れ始めた。


四日目。


気づけば、

戸をくぐる足取りに、ためらいはなかった。


「おはよう」


声をかけられ、

自然に返す。


「おはようございます」


それだけのやり取りが、

胸の奥で、静かに落ち着く。


ユキと目が合えば、軽く頷き合う。

新吉に呼び止められれば、足を止める。


誰も特別に見ない。

誰も忌避の目で見ない。


まいは、商家の中の一人として、そこにいた。


反物を運び、

指示を聞き、

昼になれば腰を下ろす。


疲れはある。

だが、初日のような張りつめた感覚はない。


(……慣れてきた)


そう思って、

ふと、不安になる。


慣れてしまって、いいのだろうか。


商家の外には高成がいる。

そして、宿に戻れば、これまでと変わらず高成と二人だ。


その存在が、

まだ自分を現実につなぎ止めている。


それでも——


商家にいる時間は、

確実に、まいの中に根を張り始めていた。


「たまちゃん」


名前を呼ばれる。


振り返る。


「今日さ」


ユキが、少し声を潜めて言った。


「お昼、時間ある?」


その問いに、

まいは一瞬だけ迷い——


そして、頷いた。


日常は音もなく広がっていく。


まだ壊れてはいない。

けれど、もう戻れないところまで、来ている気もしていた。


***


午前の仕事が一段落した頃、

比較的静かな場所を選んで、まいは高成のそばに立った。


「……生田さん」


呼ぶ声が、少しだけ硬くなる。


高成は視線を外から戻し、まいを見る。


「どうした」


「……お願いが、あります」


その言い方に、

高成は何も言わず、続きを待った。


「昼の休憩の時、少しだけ……

外に出ても、よろしいでしょうか」


一拍の沈黙。


高成の眉が、わずかに動く。


「理由は」


「……甘味を、食べに行こうって、誘われて…」


正直に言う。


「ユキちゃんと…店の子と一緒にです。

すぐ戻ります」


言い終えたあと、

まいは無意識に指を握りしめていた。


高成は、しばらく黙っている。


その無言に、胸がきゅっと縮む。


「……場所は」


「向かいの店です。

人通りの多いところで……」


「時間は」


「昼の休憩の始め頃だけです」


条件を、先に差し出す。


高成は、少し考え——


「寄り道はするな。

異変を感じたら、すぐ戻れ」


淡々と告げる。まいはパッと顔を上げた。


まさか、許可してもらえるとは思っていなかった。

高成と目線は合わないが、怒ってはいないようだった。


「……守れるか」


まいは、はっきり頷いた。


「はい」


高成は、それ以上何も言わず、

視線を外に戻す。


「行ってこい」


短い一言だった。


まいは、息を吐く。


「……ありがとうございます」


胸の奥が、

ふわりと緩むのを感じて、

それを悟られないよう、慌てて視線を落とす。


背を向けて立ち去りながら、

胸の奥が、静かに高鳴っていた。



***



昼の休憩が告げられると、

まいは一度だけ店の中を振り返った。


高成の姿を探し、

外回りの位置にいるのを確認してから、

小さく息を整える。


(……大丈夫)


ユキが先に歩き出す。


「すぐそこだから」


商家の戸を出ると、

昼の通りは思った以上に明るかった。


人の声。

足音。

湯気の立つ屋台。


(……外だ)


逃げるためでも、

追われるためでもない。


ただ、甘味を食べに行くだけの外出。


それが、少しだけ信じられなかった。


「ここ」


ユキが指差した先に、

小さな団子屋があった。


暖簾の向こうから、

甘い匂いが流れてくる。


「二本ずつでいい?」


「……はい」


腰掛けに並んで座る。


団子を受け取った瞬間、

指先にほんのりと温かさが伝わった。


「焼きたてだよ」


ユキは嬉しそうに言って、先に一口かじる。

まいもそれに倣った。


「……あ」


思わず声が漏れる。


「美味しい?」


「……はい、とても、美味しいです」


口の中に広がる甘さに、

一瞬、言葉を失う。


甘味は、知っている。

でも——


誰かと並んで、

仕事の合間に食べる甘味は、

まったく違う味がした。


「ねえ、たまちゃん」


ユキが、ふと団子を持ったまま言った。


「敬語じゃなくていいよ」


「え……?」


「同い年くらいでしょ?

さっきから、ちょっと堅いなって思って」


冗談めかした口調だった。


まいは、一瞬だけ迷ってから、

小さく頷いた。


「……うん」


その返事に、

ユキは満足そうに笑った。


「そのほうが話しやすい」


しばらく、団子を食べながら黙る。


沈黙が、気まずくない。


それが、まいには新鮮だった。


「たまちゃんさ」


ユキが、何気なく言う。


「その髪、きれいだよね」


「……え?」


「色も。

ちゃんと整えたら、もっと映えると思う」


思いがけない言葉に、

まいは瞬きをした。



「……そんなこと、言われたの初めて」


「そうなの?珍しい色で、素敵なのに」


ユキは、特に深く考えた様子もなく続ける。


「私さ、休みの日は髪結い直したりするよ。

ちょっと気分変わるし」


「……休みの日……」


「うん。

あと、着物も色合わせ考えたり」


その話題は、

まいにとって未知のものだった。


生きるための話ではない。

逃げるための話でもない。


ただ——

楽しむための話。


「たまちゃんは?」


「……考えたこと、なかった」


正直に言うと、

ユキは少しだけ驚いた顔をして、

それから笑った。


「じゃあ、これからだね」


軽い言葉だった。


でも、その一言は、

胸の奥にすっと残った。


団子を食べ終え、

指を拭く。


そろそろ戻らなければならない時間だった。


「行こっか」


ユキが立ち上がる。


まいも、それに続く。


商家へ戻る道すがら、

胸の奥が、静かにざわついていた。


甘味の余韻。

敬語をやめたこと。

髪や着物の話。


どれも、

生き延びるためには必要のないもの。


それなのに——


(……楽しかった)


そう思ってしまった自分に、

少し戸惑う。


同時に、

それを否定したくない自分もいた。


商家の戸が見えてくる。


高成の姿は、まだ外にある。


約束は、守った。


まいは、

小さく息を吐いて、店へ戻った。


——この時はまだ、

それが“入り口”だとは、

気づいていなかった。




***



時は半刻前に遡る。



商家の通りを挟んだ先、

人の流れが少し途切れる場所に、高成は立っていた。


通りを行き交う客。

屋台の呼び声。

昼のざわめき。


その向こう、

団子屋の軒先に並ぶ二人の姿が、視界に入る。


——距離はある。


声までは届かない。

表情も、細かくは見えない。


それでも、

並んで腰掛けていることは分かった。


団子を受け取り、

一瞬、戸惑うように手を止めたあと、

口に運ぶ仕草。


まいの動きは、

外に出た時特有の、わずかな緊張を含んでいる。


高成は、目を細めることもなく、

ただ、周囲の気配を確かめ続けた。


視線は、団子屋だけに留まらない。

通りの端。

角を曲がる人影。

足を止める者。


異変はない。


——条件は、守られている。


昼間。

人通りの多い場所。

同行者あり。


高成は、短く息を吐く。


介入する理由は、なかった。


視線を外し、

再び通り全体へ意識を戻す。


だが、

完全に背を向けることはしなかった。


団子屋の前を離れる二人の姿が、

人の流れに紛れるのを確認してから、

高成は、ゆっくりと歩き出した。


守るため。

それで十分だった。


それ以上でも、

それ以下でもない。


——そう、自分に言い聞かせるように。





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