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初日





商家の手伝いが決まった翌日。


朝、宿を出るときから、胸の奥が落ち着かなかった。


(……大丈夫)


そう思おうとしても、

足取りはいつもより少し重い。


高成は入口の手前で店の者に呼び止められており、先に商家の中へ行くように言われた。


商家の前に立つと、

すでに人の出入りが始まっている。


反物を抱えた者。

帳場へ急ぐ者。

客と声を交わす者。


その流れの中に、

今日から自分も入る。


——入って、いい。


そう言われたはずなのに、

戸をくぐる瞬間、喉がきゅっと締まった。


「おはようございます」


声は、思ったより小さかった。


誰かが一瞬こちらを見る。

すぐに視線が外れる。


返事は、ない。


(……いいんだよね)


無視されたわけじゃない。

ただ、忙しいだけ。


そう分かっていても、

胸の奥が少しだけざわつく。


帳場の奥から、きびきびとした視線が向けられた。


年上の女性だった。

姿勢がよく、声も通る。


「……あんたが、成高殿の妹さん?」


「はい。たま、と申します」


一瞬、迷いそうになってから、そう名乗る。


女性は短く頷いた。


「私はおきよ。

ここじゃ帳場を任されてる」


言い切る口調だったが、

冷たいわけではない。


「無理はしなくていい。

できることだけでいいからね」


「はい」


「指示は私が出す。

分からなければ、その場で聞きな」


それだけ言うと、

すぐに帳面へ視線を戻す。


(……忙しいんだ)


必要以上に構われない。

でも、放り出されてもいない。


その距離感が、

かえって緊張を強めた。


「たまさん!」


たま…自分のことだと、一瞬理解が遅れながら、声の方へ振り返る。


声をかけてきたのは、

昨日一緒に反物を運んでいた娘、ユキだった。


「昨日はありがとうございました。今日からよろしくね!」


前髪をまっすぐに切り揃えた娘で、

薄黄色の小袖が、この店によく似合っている。


「ねぇ、名前、たまちゃんって呼んでもいいかな?」


「あ、はい。こちらこそ、よろしくお願いします…っ」


「うん。今日も一緒に動こ。

分からないことあったら、言ってね」


そう言って、

軽く笑う。


近すぎず、でも離れすぎない。


(……助かる)


その笑顔に、

胸の奥が少しだけ緩む。


おきよの声が飛ぶ。


「ユキ、裏の反物。

たまも一緒に」


「はーい」


返事をして、

ユキがまいを見る。


「行こう。重いから、気をつけてね」


「はい」


そう答え、店内からさらにその奥へと二人で向かう。


大量の反物が積んであり、ユキに倣ってまいも反物を抱えた。


店内にはユキ以外にも、老若男女問わない従業員達の姿がある。


視線が集まる気がして、

背中がこわばった。


それでも——

横にはユキがいる。


指示はおきよから来る。

でも、実際に動くとき、

隣に立つのはユキが任されているようだ。


(……一人じゃない)


その事実だけで、足が止まらずに済んだ。


そして、予想以上に多い反物を、ユキと手分けして運んだのだった。



***



最後の一巻を置き終えたところで、店の中の動きが、わずかに緩んだ。


「……昼にしようか」


おきよの声がかかる。


それぞれが手を止め、持ち場から解散していく。

各々水を飲んだり、腰を下ろしたりし始め、休憩時間が始まった。


(え、えっと…)


まいはどうすればいいか分からず、反物のそばで立ち尽くした。


すると、ユキがこちらを振り返る。


「たまちゃん、こっち」


そう言って、

壁際の空いた場所を指差した。


「ここ、座れるよ」


「……ありがとう」


腰を下ろすと、

足の疲れが一気に押し寄せてくる。


(……思ったより、なかなか大変だった)


じんわりとしただるさに、

思わず小さく息を吐く。


「初日だもんね」


ユキが水を渡しながら言った。


「慣れるまでは疲れるよ」


「はい…。ありがとうございます)


水を口に含むと、

喉の奥まで冷たさが広がる。


少しだけ、落ち着いた。


「でもさ」


ユキは、まいをちらりと見て続ける。


「反物、落とさなかったの、すごいと思う」


「え……?」


「最初、だいたい一回は落とすんだよ」


悪気のない笑い方だった。


「私、初日、やったし」


「……そうなんですか」


「うん。

怒られはしなかったけど、

ちょっと恥ずかしかった」


その言葉に、

胸の奥が少しだけ軽くなる。


(……初日で緊張してたのは、私だけじゃない)


「……あの」


まいは、少し迷ってから口を開いた。


「ここは、とても忙しそうですね」


「そうだね、忙しいよー。毎日くたくた」


ユキは即答する。しかし、その声音には曇りはなかった。


「でも、嫌じゃない」


そう言って、肩をすくめた。まいは言葉の意味を知ろうと、ユキを見つめる。


「仕事だし。

終われば甘いもの食べられるし」


「……甘いもの?」


「うん。

向かいの店の団子とか」


その一言に、

まいは思わず瞬きをした。


(団子……)


甘味を、

誰かと一緒に、

仕事のあとに食べる。


それは、村育ちのまいには想像したことのない光景だった。


「たまちゃんは?」


ユキが何気なく聞く。


「甘いの、好き?」


「……好き、です」


少し間を置いてから、そう答える。


「そっか、よかった!」


ユキは、満足そうに頷いた。


「じゃあ、今度一緒に行こうよ」


軽い調子だった。


約束でも、

誘いでもない。


ただの提案。


それなのに、

胸の奥が、きゅっと鳴る。


「はい」


その返事は、

自分でも驚くほど、自然だった。


ユキが嬉しそうに頷く。それにつられて、まいも思わず笑い返していた。


遠くで、店の戸が開く音がする。


休憩は、もうすぐ終わる。


ユキが立ち上がり、

手を伸ばしてくる。


「ほら、後半もあるよ」


「はい!」


まいはその手を借りず、

自分で立ち上がった。


ユキはそれを笑顔で見ると、「頑張ろ」と小さくはにかんだ。


足はまだ少し重い。


それでも、

逃げたいとは思わなかった。


ここにいて、

働いて、

誰かと話している。


それだけのことが、

胸の奥で、確かに何かを変えていた。


初日の昼は、

そうして静かに過ぎていった。






***




商家を出る頃には、空はすっかり暮れていた。


通りには、夕餉の支度を始める匂いが漂っている。

昼間の喧騒が嘘のように、人の流れも落ち着いていた。


高成は、少し前を歩いている。


一定の距離。

振り返らず、だが、離れすぎない。


まいは、その背を見ながら歩いていた。


(……一日、終わった)


足は重い。

けれど、心は不思議と静かだった。


しばらく、言葉はなかった。


宿が見えてきたところで、

高成が口を開く。


「……疲れたか」


短い問いだった。


「はい」


まいは正直に答えた。


「でも……大丈夫です」


高成は、歩みを止めずに続ける。


「無理はするなと言ったはずだ」


責める声ではない。

事実を確認するような口調だった。


まいは、一瞬だけ迷ってから言う。


「……はい。でも」


その先を、言葉にする。


「ちゃんと…自分でもやれることがあるのか、確かめたかったんです」


高成は、少しだけ歩調を緩めた。


「追い出されなかったですし、

怒られもしませんでした」


ユキも……

皆さんも……」


そこまで言って、言葉が途切れる。


自分でも、何を伝えたいのか分からなかった。


高成は、しばらく黙っていた。


やがて、低く言う。


「……それで、どうだった」


問いは、意外にも簡単だった。


「怖かったです」


即答だった。


「でも……」


一拍置いて、続ける。


「嫌だとは、思いませんでした」


その言葉に、

高成は一瞬だけ視線を落とす。


「そうか」


それだけだった。


だが、否定はない。


宿の前に着く。


戸を開ける前、

高成が一度だけ立ち止まる。


「明日も来るのか」


まいは、少し考えてから頷いた。


「……はい、もちろん店の中だけですけど」


付け加えると、

高成は短く息を吐いた。


「条件は変えん。…無理だと思ったら、すぐ戻れ」


「……はい」


それでも、

止めろとは言わなかった。


部屋に入る。


静けさが戻ってくる。


まいは、荷を置きながら言った。


「……ありがとうございました」


何に対してか、

説明はしなかった。


高成は、背を向けたまま答える。


「礼を言われることじゃない」


それきりだった。


だが、その背中は、

いつもよりも、少しだけ近く感じられた。


まいは、そっと息を吐く。


初日は、終わった。


緊張も、疲れも、残っている。


それでも——

明日が来るのが、怖くはなかった。



寝る準備をしていると、


部屋の隅で、高成が何かを動かす気配がした。


振り返ると、壁際に立てかけられていた衝立が、静かに引き出されている。


今まで、そこにあっただけのもの。


それが、今日は間に置かれる。


布団を敷く位置が、わずかに変わる。


「……」


声には出なかった。


ただ、目で追う。


衝立は、ゆっくりと二人の間に立てられた。


いつもと同じ部屋。

同じ灯り。

同じ静けさ。


なのに、空気が少しだけ整う。


(……ああ)


ここは、仮の寝場所ではなくなったのだと、

その仕切りが教えていた。


守るためでも、

拒むためでもない。


ただ、

暮らすための形。


まいはそれを、重大なことだとは思わなかった。


けれど、

胸の奥がほんの少しだけ、

静かに鳴った。


高成は何も言わない。


いつものように、

先に灯りを落とす。


衝立の向こうで、

衣擦れの音がする。


その距離を、

まいは測ろうとはしなかった。


ただ、

今日もここで眠るのだと思いながら、

布団に横になる。


目を閉じる前、

衝立の影が、ぼんやりと視界に残った。


不思議と、寂しくはなかった。










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