商家の朝
商家の中へ足を踏み入れた瞬間、
空気が変わる。
帳場の声、
荷を運ぶ足音、
商家特有の喧騒。
まいは思わず息を詰め、
高成の背中を見失わないようについて行く。
——見られている。
視線は、まず高成に集まる。
女たちは、ひそひそと囁き、
男たちは、値踏みするように目を細める。
立ち姿、腰の刀、
黙って立っているだけで、場の空気が変わる。
そして、その視線が、後ろへ流れた。
——まいへと。
(……っ)
この赤い髪が、また人目を引いているのではないか。
胸が、きゅっと縮む。
好奇と探るような目。
知らない人たちに見られる感覚。
無意識に歩幅を狭め、高成との距離を詰めた。
高成は振り返らない。
だが、歩調をわずかに落とす。
それだけで、胸の緊張がほんの少し和らいだ気がした。
帳場の奥で商家の主が顔を上げる。
四十代半ばほどの男。
商人らしい穏やかな身なりだが、
目は鋭く、即座に二人を測る。
「……お前が、昨日の」
「はい」
まいは主人の雰囲気に萎縮するが、高成は即座に短く答え、頭を下げすぎることもない。
「路地でうちの倅を助けてくれたそうだな」
「たまたま居合わせただけです」
「それでも、助けてくれたことに変わりはない。礼を言おう」
商家の主は小さく笑った。
「名は?」
「……成高です」
一瞬の間。
それを主は見逃さなかったが、何も言わずに頷く。
「成高殿か」
次に、視線がまいへ向く。
「……そちらは?」
突然の問いに、
まいは一瞬、言葉を探した。
「……たま、と申します」
声は小さいが、はっきりと。
高成が、何も言わず隣に立っている。
それだけで、まいは少しだけ背筋を伸ばせた。
商家の主は帳場の脇に立ったまま、高成を見た。
「さて」
軽く咳払いをしてから、話を切り出す。
「まずは今日一日、店と荷の護衛を頼みたい」
高成は頷く。
「店内と裏口、
それから荷の出入りがある時間帯を重点的に、ということでよろしいですか」
主は、その即座の理解に小さく目を細めた。
「話が早いな」
帳場の奥にある帳面を指で叩く。
「実はな、
近いうちに大きな商談を控えている」
声は抑えめだが、重みがある。
「遠方の商人と取引が決まっていてな。
普段よりも、金と品が動く」
「……それで、狙われる可能性があると」
高成の言葉に、主は静かに頷いた。
「噂というものは、厄介でな。
真偽はともかく、“儲け話”の匂いだけで寄ってくる連中もいる」
そして、声を潜めて続けた。
「強盗の話もちらほら聞く」
一瞬、空気が張る。
高成は表情を変えない。
「今日一日で、こちらとしても様子を見させてもらう」
主はそう前置きしてから、続けた。
「それで、問題がなければ、
護衛の期限を三週ほど延ばしたい」
高成は少し考え、答える。
「承知しました」
「条件は?」
「昼夜を問わず、
必要であれば動きます」
過不足のない返答だった。
主は、ふっと息を吐く。
「……頼もしいな」
視線を横にやり、
少し離れたところに立つまいを見る。
「連れの方は?」
高成は即答する。
「店内に留まらせます。
護衛の妨げにはしません」
主は一瞬考え、やがて頷いた。
「分かった。無理はさせるな」
「約束します」
高成は短く答えた。
そのやり取りを、まいは少し緊張しながら聞いていた。
(……ちゃんと話してる)
高成はただ腕が立つだけではない。
状況を読んで、言葉を選んでいる。
南雲で、家老嫡男として…武功を上げていた重臣として生きていた。その一面を見た気がした。
胸の奥が、少しだけ痛む。
「よし」
商家の主は手を叩く。
「では今日は、
店の表と裏、両方を見てもらう。
──────倅!」
「はい!」
少年が元気よく返事をする。
「成高殿を案内しろ。たま殿も、一緒にな」
少年はにっと笑って、二人を見る。
「任せとけ!」
高成は一歩前に出る。
「よろしくお願いします」
それだけ言って、
主に静かに頭を下げた。
「じゃ、こっち!」
新吉はそう言って、先に立って歩き出した。
高成とまいは、主に会釈したあとその後ろを着いて行く。
店の中は広かった。
反物を扱う商家らしく、棚が奥まで続いている。
色とりどりの布が掛けられ、
ところどころで店の者が品を運び、客と声を交わしていた。
まいは思わず、きょろきょろと視線を巡らせる。
(……大きい)
宿や路地とはまるで違う。
人の数も、音も、情報も多い。
「ここが表の売り場な!」
新吉は振り返りながら言った。
「昼は客が多いからさ、
盗みとか、言いがかりとか、たまにあるんだ」
「……なるほど」
高成が短く応じる。
新吉は、得意げに頷いた。
「裏はこっち!」
奥へ進むと、空気が変わる。
売り場の喧騒が遠のき、
荷と帳場の気配が濃くなる。
「反物の出入りは、だいたいここから」
「朝と夕方が一番忙しい」
新吉は指差しながら説明する。
その様子を見て、
まいは少し驚いていた。
(……ちゃんと分かってる)
ただ走り回っているだけの子どもじゃない。
この店の中で育ったのだと、分かる。
新吉は、ふと立ち止まり、まいを振り返った。
「姉ちゃんは、ここにいればいいよ」
「え?」
「表の帳場の近く。
親父もいるし、目も届くからさ」
まいは一瞬、高成を見る。
高成は軽く頷いた。
「無理に動くな。
何かあれば、声を出せ」
「……はい」
そう答えながら、
まいは少しだけ、背筋が伸びるのを感じた。
新吉はにっと笑う。
「安心しな!
成高がいりゃ、まず大丈夫だ!」
「……お前が言うな」
「はいはい!」
軽口を叩きながらも、
新吉はどこか誇らしげだった。
(……信頼されてるんだ)
あの一件で、少年は随分と高成に懐いているようだ。
まいは、改めて高成の背中を見る。
刀を帯び、
静かに周囲を見渡す姿。
商家の中でも、
その立ち姿は変わらない。
そして同時に、
この場所では、自分が“外側の人間”なのだと実感する。
見られている。
測られている。
それでも——
高成がいる。
その事実だけで、
胸の奥が、少しだけ落ち着いた。




