残された者
─────南雲の東方で、戦が続いている。
異形の襲撃を知った乾は、ここぞ好機とばかりに、南雲に向けて兵を差し向けてきた。
川を挟んで、両軍が向かい合う。
大きな合戦ではない。
前へ出ては引き、浅瀬に足をかけては退く。
そして、互いの出方を探る。
小競り合いだった。
川は冷たく水量も多い。
渡るには、足を取られる。
乾の兵が、川辺へにじり出た。
数を頼りに、押し切ろうとする動きだ。
南雲側は、それを待っていた。
合図がかかる。
川沿いの土手から、弓兵が姿を現す。
矢が放たれた。
一斉ではない。
だが、数は多い。
矢は水面を叩く。
盾に刺さり、渡りかけた兵の足を止めた。
乾の隊列が乱れる。
前に出た者から、引き返していく。
南雲の兵は追撃しようとしたが、一息置いて号令が掛かり、それ以上は追わなかった。
川を越えて踏み込むほどの余力はない。
乾の兵は、対岸へと下がっていった。
───この一帯は、今日も守られた。
それだけのことだ。
だが、戦は終わっていない。
兵はなお動いた。
矢を拾う者。
負傷者を担ぐ者。
川辺の血を、土で隠す者。
誰も声を張らない。
合図だけが短く交わされる。
矢筒の底を確かめる兵がいる。
空になりかけたものもあった。
追撃はしない。
その判断は、すでに共有されている。
川向こうに、乾の気配は残っていた。
姿は見えない。
だが、引いたわけではない。
戦は、途切れただけだった。
城へ、報が走る。
南雲の城は今日も慌ただしい。
生田道重は、詰所で報告を聞いていた。
生田道重は、五十に近い年を重ねながら、今なお戦場の理を背負う、南雲家老筆頭の武士だった。
詰所で報告を聞くその横顔に、迷いはない。
「——弓兵を投入し、渡河は阻止しました」
「損耗は」
「軽傷が数名。重症一名。戦死者はありません」
道重は、短く頷く。
悪くない。
だが、良いとも言えなかった。
此度の戦は、若い重鎮が二人、いない。
高成と、忠興。
その穴を埋める必要があった。
初老の重臣たちが前に立ち、
現役の若い者たちを下がらせ、
なんとか形を保っている。
——持っているのは、これまで培ってきた経験だけだ。
時代の移り変わりと共に、その経験もすり減っている。
今回は、なんとか優勢を保っている。
だが、負傷者は予想よりも多い。
兵の士気も、確実に落ち始めていた。
……高成がいた頃は、判断に余裕があった。
高成は引き時を見誤らない。
さらに、たとえ前線が崩れかけても、すぐには退かずに済んだ。
“高成を出せば、立て直せる”
その前提が、常にあったからだ。
前に立つ者がいる。
それだけで、陣は形を保った。
判断を一拍、遅らせるための余白。
退かずに済ませるための猶予。
それが、なくなった。
いなくなった瞬間から、
判断はすべて即座になった。
迷えば、傷が出る。
遅れれば、死が出る。
どの決断も、その場で致命傷になり得る。
——それが、今の南雲だ。
報告を終えた部下が下がり、詰所に静けさが戻る。
生田道重は、一人、窓辺に立った。
城下を見下ろしながら、無意識に拳を握りしめる。
思い浮かぶのは、息子の姿だった。
——高成。
家老嫡男としては、申し分なかった。
剣も、判断も、胆力もある。
南雲を支える器だった。
それでも、馴染まなかった。
最後には、この国を去った。
——裏切った、と言うべきか。
あれを拾ったのは、間違いだったのか。
それとも——。
道重は、その先を考えなかった。
今さら答えは出ない。
出たところで、戦は待ってくれない。
「父上」
背後から少し張りを抑えた、しかし澄んだ声がする。
振り返ると、娘──露が立っていた。
露は、高成と同じ年頃、二十七を過ぎたばかり。
我が娘ながら、聡明で、どこか儚さを帯びた雰囲気だ。
その面差しは整っているが、
今日は、目の下にうっすらと影があった。
「先ほど、景綱様からの使いがありました。
自室にいらっしゃるようです……」
「そうか」
道重はそれだけ答え、再び城下へ視線を戻す。
露は、それ以上踏み込まなかった。
ほんの一瞬、言葉を探すように唇を閉じ、
それから静かに告げる。
「……無理は、なさらぬよう」
その声は穏やかだったが、
言った本人の方が、無理を重ねているのは明らかだった。
高成がいなくなってから、生田の家は落ち着かない。
表に出ぬ細事の多くを、露が引き受けている。
——この娘もまた、失っている。
それ以上、道重は何も言わなかった。
詫びたとて、露が背負ったものを軽くはできない。
その背に残るのは、
口に出さぬまま抱え続けるべき、父としての負い目だった。
道重は、答えなかった。
だが、握りしめていた拳をわずかに緩め、娘にこれ以上の心労をかけないよう気遣う。
「……何かあれば、人を使え」
それだけだった。
露は小さく頷く。
「承知しました」
露は深く頭を下げ、静かに詰所を後にした。
道重は、窓から離れ、背を正す。
──次の一手を考える。
それが、今の自分の役目だった。




