何もしない一日
眩しい朝の光に、まいは目を覚ました。
障子越しの白さが、昨日よりもはっきりしている。
体は重かった。
長く眠ったはずなのに、疲労が抜けきっていない。
それでも、頭は不思議と澄んでいた。
身を起こすと、高成はすでに起きていた。
室内に背を向け、窓の外を見ている。
刀は、手の届くところに置かれていた。
昨夜のことを思い出す。
高成は、ほんのわずかな間、目を閉じていただけだった。
眠ったとは言えない。
胸に、小さな棘が刺さる。
けれど、まいはそれを押し戻した。
——これが、この人のやり方なのだ。
昨日は、何も言わなかった。
「……眠れたか」
振り返らずに、高成が言う。
「…よく眠れました。」
少し、迷って伝える。
「ありがとうございます」
「礼を言われることじゃない」
返答はそっけないものだった。
宿の者が運んできた朝食を、二人は部屋で取った。
湯気の立つ椀を前にしても、会話は少ない。
箸を置き、まいが口を開く。
「今日は、何をするんですか」
「街を見る」
簡潔な答えだった。
「……分かりました。準備します」
高成は、首を振る。
「いや。今日はいい」
まいは、思わず顔を上げた。
「俺一人で十分だ。今日は休んでいろ」
「でも……」
「追っ手の気配は、今のところない」
そこで一拍置き、
「ここにいろ。危なくない」
まいは、それ以上言えなかった。
一人になるのが怖いわけじゃない。
そう思いながら、胸の奥に、言葉にならない引っかかりが残る。
高成は朝食を終えると、手早く支度を整えた。
「夕刻までには戻る」
そう言い残し、返事を待たずに部屋を出ていく。
戸が閉まる音が、思ったよりも静かに響いた。
高成が出ていくと、部屋は急に広くなった気がした。
まいは畳の上に、ごろんと仰向けになる。
手足を投げ出し、天井を見上げた。
目を閉じる。
一度、大きく息を吸って、ゆっくり吐く。
もう一度、天井を見る。
「……疲れたな」
小さく呟く。
体の奥に、まだ重さが残っている。
けれど、眠たいわけではなかった。
「……何しよう」
遠くで、街の音がしている。
人の気配はあるのに、この部屋は静かだ。
しばらく、そのまま天井を眺めていた。
「……あ」
視線を巡らせて、気づく。
「お膳、下げなきゃ」
立ち上がり、食べ終えた二人分の膳を持つ。
まいは、ひとりで階段を下りた。
宿の一階は、思ったよりも騒がしかった。
人の声、器の触れ合う音、行き交う足音。
まいは少し肩をすくめながら、膳を返す。
目立たないように、それだけ済ませると、そそくさと階段を上った。
部屋に戻ると、また静けさが戻ってくる。
何かしようとして、立ち止まった。
布団は畳んだ。
荷物は最初から少ない。
片付けるものも、他にない。
(……暇だな)
逃亡の最中にあるまじき言葉だと思いながら、
まいは部屋の隅に座り込み膝を抱えた。
目を閉じる。
(一人になるの、ずいぶん久しぶりだ)
これまでにも、高成が短く席を外すことはあった。
けれど、気配を感じないほど離れるのは、初めてだった。
(……色々、あったな)
攫われてからの日々を、ゆっくりと思い返す。
あの頃は気づかなかった。
けれど、今なら分かる。
——守られていたのだ。
(……まだ、教えてはくれないだろうけど)
高成は、今も警戒している。
話す時ではないと、判断しているのだろう。
「いつか話す」と言ったその言葉を、まいは信じている。
ふと、昨日のことが脳裏をよぎる。
(……初めて、見た顔だった)
まいの知る高成は、いつも固い表情をしている。
(城にいた頃のあの人は、どんな人だったんだろう)
小瀬の前では。
忠興の前では。
忠臣と噂されるほど、景綱に仕えていたという。
(……私は、何も知らないんだな)
そうして、時間だけが過ぎていった。
まいは部屋の隅で膝を抱えたまま、いつの間にかうとうとしていた。
ふと目を開けると、障子越しの光が、朝とは違う色を帯びている。
日が傾き始めていた。
——まだ、戻っていない。
胸の奥に、ほんの小さなざわめきが生まれた、その時だった。
戸が、静かに開く。
「……!」
まいは顔を上げ、すぐに声を出した。
「……おかえりなさい」
自分でも分かるほど、肩の力が抜けていた。
口元が、わずかに緩む。
高成は一瞬、まいを見て立ち止まる。
「……ああ」
それだけ言って部屋に入り、戸を閉めた。
「何もなかったか」
「はい。十分、休めました」
「……そうか」
高成は刀を腰から外し、畳に置く。
そのまま座り込み、短く息をついた。
「何か、ありましたか」
まいの問いに、高成はすぐには答えなかった。
「……仕事がきた」
まいは、目を瞬かせる。
「商家の護衛だ。昨日の子どもが、そこの家の子だったらしい」
「そうなんですね」
それだけの会話なのに、
高成の表情は、いつもと少し違って見えた。
——ほんの、わずかだけ。
その違いに気づけたことが、なぜか嬉しい。
たぶん、判断に迷っている。
自分の側を離れることの危うさと、逃亡における戦法の間で考えているのだろう。
「……受けるのですか」
「……断る理由はない」
高成は、再び黙り込んだ。
ひとりで考えている時の、あの沈黙だ。
まいは、少しだけ息を整える。
「それは……私も、同行していいものでしょうか」
高成は、しばらく答えなかった。
視線を落とし、考えを巡らせているのが分かる。
その沈黙は、拒絶ではなかった。
「……護衛は、穏やかな仕事じゃない」
低く、静かな声だった。
「刀を抜かずに済むとは限らん」
少し間を置いて、言葉を継ぐ。
「人目も多い。
何かあった時、動きが制限される」
まいは、黙って聞いていた。
「……万が一、追っ手が来た場合
───守り切れる保証はない」
それは脅しでも、拒絶でもなかった。
ただ、事実を並べているだけの声。
「……でも」
まいは、小さく息を吸う。
「何もせず、ずっと宿に籠っているのも……少し、不自然ですよね」
高成は答えない。
再び考え込むように、視線を伏せた。
だから、まいはそのまま続けた。
「何かあれば、すぐに、生田さんの側に行きます」
しばらくして、高成が口を開く。
「……危険性は、理解しているんだな」
「はい」
まいは、ためらわずに答えた。
そして、ほんの一拍置いてから、言葉を続ける。
「……私も、何かできることをしたいです」
高成は、まいを見た。
すぐに目を逸らすことはしなかった。
だが、答えも出さない。
その沈黙の中に、迷いがあるのが分かる。
障子の外は、すでに薄暗くなっていた。
部屋に落ちる影が、ゆっくりと伸びていく。
高成は、なおも黙ったままだった。
長い沈黙が落ちた。
まいは、遅れて緊張が込み上げてくるのを感じた。
——出過ぎた真似だっただろうか。
そう思いながらも、胸の奥では、別の思いが消えずに残っている。
このまま、何もせずに部屋に籠っているだけなのは、耐えられなかった。
——何も、言ってくれない。
──────・・・怒っている?
「あの……」
まいは、思わず声を出した。
無理ならいいですから。
そう言いかけた、その時だった。
「……わかった」
低い声が、静かに落ちる。
「え」
思わず、間の抜けた声が漏れた。
「……自分で言い出したことだろう。何を驚いている」
「え、あ……すみません」
うまく言葉が出てこず、まいは思わず頭を下げた。
「ただし」
高成は、そこで一拍置く。
「必ず、目の届く範囲にいろ」
「……!」
まいは顔を上げ、慌てて頷いた。
「わ、分かりました」
高成は、その反応を見てから、ふっと視線を逸らす。
ほんの一瞬。
どこか、ばつが悪そうな表情だった。
それを見て、まいは胸の奥の力が、すっと抜けるのを感じた。
——怒ってはいない。
そのことが分かっただけで、十分だった。
その日は何も起きなかった。
けれど、確かに、何かが変わった気がした。




