呼び名ひとつ
部屋に荷を下ろす際、高成はまいを部屋の奥に、自身は入口に近い位置を選んだ。
畳に腰を下ろし、刀は壁に立てかける。
刀掛けには置かない。
すぐ手が届く位置だ。
衝立もありはしたが、それはすぐ部屋の隅に追いやられてしまった。
荷も、必要最低限だけを脇に寄せている。
まいはその様子を見てから、静かに口を開いた。
「……ここは、しばらく安全だと思っていいんですよね」
高成は少し考えるように、視線を宙に置いた。
「追われる気配はない。
大きな動きがなければ……しばらくは、な」
まいは、小さく息をついた。
「なら……今日は、安心して眠れますね」
高成は短く頷いた。
「ああ。しっかり寝ろ」
その言葉に、まいは首を振る。
「あ、いえ……私よりも、生田様の方が……」
高成は、間を置かずに言った。
「慣れている。問題ない」
その声は、いつも通りだった。
だからこそ、まいは一歩踏み出した。
「……顔色が、悪いですよ」
一瞬、高成の動きが止まる。
沈黙が落ちた。
まいは、言葉を選びながら続けた。
「……気づいたことがあれば、すぐ知らせますから」
視線を上げ、高成を見る。
「少し……休んでください」
高成は、すぐには答えなかった。
入口の方へ向けた視線を、そのまま保つ。
しばらくして、低く言った。
「……わかった」
それだけだった。
高成は入口側の壁に背を預け、片膝を立てたまま目を閉じた。
刀は、手を伸ばせば届く位置にある。
眠るというより、意識を落とす体勢だった。
まいは、その様子を見届けてから、奥に座った。
――言えた。
それだけのことなのに、
胸の奥が、少しだけ温かかった。
距離はある。
けれど、今までよりも、少し近い。
部屋は静かだった。
外の物音も、遠い。
畳に視線を落としぼうっとしていると、
高成が静かに口を開いた。
「……呼び方だが」
まいは顔を上げる。
「『生田様』はやめろ。目立つ」
言われて、まいははっとする。
「そ、そうですよね。えっと……じゃあ、何と呼べば…」
高成は、少し考えるように間を置いた。
「ここでは、兄ということになっている。
人前では、そのまま呼べ」
まいは小さく頷いた。
「わかりました。……では、他に人がいない時は?」
高成は、肩をすくめるほどの動きで答える。
「好きに呼べばいい」
それから、短く付け足した。
「だが、“様”はいらない。
俺はもう、南雲の武士じゃない」
その言葉は、淡々としていた。
重さを、わざと乗せていない。
まいは、少し黙った。
呼び方を探すように、視線を落とす。
兄。
高成。
どれも、まだ口に馴染まない。
しばらくして、ためらうように言った。
「……では、生田さん」
高成は、一瞬だけこちらを見た。
「それでいい」
それ以上は、何も言わず、再び高成は目を閉じた。
高成の呼吸が、ゆっくりと整っていく。
まいは、灯りを落としながら思った。
(本当は、自分のこと“俺”っていうんだ)
高成の一人称は、ずっと“私”だった。上級の武士らしく畏まった話し方。
こちらからの呼び方だけでなく、それが変わったのが、なんとなくむず痒くて、だけど、穏やかな気持ちにさせた。
───夜は、静かに過ぎていく。
高成が意識を落として、数刻。
まいは、完全に眠ってはいないのだと分かっていた。
呼吸は整っているが、深く沈んではいない。
何かあれば、すぐに目を開く。そんな気配が残っている。
だから、物音を立てないように動いた。
足先をそっと運び、灯りにも触れない。
窓のそばに立ち、外を覗く。
宿場町の夜は思ったより静かで、
人の気配も、荒れた音もない。
耳を澄ませる。
遠くで誰かが歩く音。
どこかの部屋で、戸が閉まる気配。
しばらく聞いてから、
――今のところは、何も起きていない。
そう判断して、胸の奥が少し緩んだ。
まいは部屋の隅に戻り、膝を抱え込む。
背を壁に預け、外の音に意識を向けたまま高成の方を見る。
宿の障子越しに、通りの軒行灯の明かりが淡く流れ込んでいた。
だから、闇に沈みきらない部屋の中で、高成の姿が見える。
眠っている――ように見える、その顔。
初めてだった。
こうして、無防備な顔を見るのは。
見すぎてはいけない。そう思いながらも、
つい、そのまま視線を留める。
……綺麗な顔だ。
余計なものが削ぎ落とされたような顔。
けれど、よく見れば、目の下に影がある。
疲労が、そのまま滲んでいる。
この人は、
なぜ、ここまでして自分を守るのだろう。
追ってきたはずのあの人――小瀬が、
剣を抜かず、立ち止まった理由。
高成の人間性を、信じているように見えた。
まいには、小瀬自身も悪人には見えなかった。
でも、高成は小瀬にも理由を開かなさない。
そして、
高成に城から連れ出された時、
胸の奥に触れた、妙な懐かしさ。
「今は思い出さなくていい」と言われたこと。
まいには、高成との記憶がない。
過去も、理由も、分からない。
自分に、
ここまで守られる価値があるのだろうか。
いずれ話す、と高成は言った。
その続きは――
この街で、聞くことはできるのだろうか。
視線を落とす。
問いは、答えを持たないまま、胸に残る。
そのまま、しばらく座っていた。
外の音を聞きながら、
呼吸を整えながら。
まぶたが、重くなる。
ほんの一瞬、意識が揺らいで――
はっと、目を開けた。
何も変わっていない。
部屋は静かで、高成も動いていない。
まいは、小さく息を吐いた。
まだ、大丈夫だ。
夜は、
もうしばらく、続いていた。




