並ぶ視線
夜が明けきる前に、二人は宿を出た。
部屋を出る時。まいは反射のように頭巾へ手を伸ばした。だが高成に、それではかえって不自然だと止められる。
「堂々としていろ」
隠したいのに──そう思いながら、まいは手を下ろした。
廊下は冷え切っていて、踏みしめるたびに小さく音が鳴る。
高成はすでに支度を終えていた。刀を帯び、戸口に立つ背中は、昨夜と何も変わらない。
ただ、まいには分かった。
動きが、ほんのわずかに鈍い。
問いかけるほどの違和感ではない。
言葉にするほどでもない。
けれど、歩き出す一拍が、いつもより遅れる瞬間があった。
街道に出ると、空は低く、冷えた空気が肌を刺した。
道は整っているが、人影はまだ少ない。
馬の歩みに揺られながら、まいは前を見る。
結い直された髪は、首元にまとまっている。
小袖はまだ体に馴染みきらないが、昨日よりは落ち着いていた。
整えられた、という事実だけが残っている。
それ以上の意味は、まだ見つからない。
道中、高成は多くを語らなかった。
道を選び、周囲を見て、必要な時だけ足を止める。
まいは、周囲を見る余裕が少しだけ生まれていることに気づく。
畑の向こうに立つ家々。
行き交う旅人の足音。
生活の匂い。
それらは、これまで遠くにあったものだ。
昼を過ぎるころ、人の数が増えはじめた。
道幅が広がり、往来が途切れなくなる。
やがて、宿場町が見えた。
街道脇の道標に刻まれた地名は、まいの知らぬものだった。
高成は一度だけそこへ視線をやり、何も言わず歩を進める。
その背を追いながら、まいはもう南雲の内ではないのだと、遅れて知った。
並ぶ家屋。
掲げられた看板。
人の声が、重なり合って流れてくる。
まいは、思わず息を吸った。
ここには、人がいる。
生きている音がする。
高成は歩みを緩めず、町へ入る。
まいはその少し後ろをついていった。
整えられた髪と、小袖。
兄妹という設定。
仮初の形。
それを身にまとったまま、
まいは初めて、
「暮らしのある場所」に足を踏み入れた。
高成の背中は、変わらず前を向いている。
けれどその距離が、昨日より少しだけ、遠く感じられた。
宿場町に入ると、高成は自然に歩調を落とした。
露骨に見回すことはしない。
ただ、道の選び方が少しずつ変わる。
人の流れを避け、建物の配置を確かめるように進む。
まいは、それを見て思った。
――また、だ。
初めてではない。
これまでも何度も見てきた動きだ。
町に入るたび、高成はこうして“空気”を測る。
まいは、その横を黙って歩いてきた。
けれど今回は、少しだけ違った。
高成の背を追いながら、
まいも同じように周囲を見てみる。
行き交う人々の表情。
旅人の数。
子どもの声が混じるかどうか。
評価の基準は分からない。
何を見て、何を決めているのかも分からない。
それでも――。
胸の奥で、ふっと力が抜けた。
ここは、危なくない。
理由は説明できないが、そう思えた。
町は騒がしすぎず、閉じすぎてもいない。
余所者に向けられる視線も、好奇と無関心の間にある。
(……大丈夫そう)
声には出さなかった。
この判断を、高成に伝えるつもりもなかった。
自分がそう感じた、というだけのことだ。
しばらく歩いたあと、高成が足を止めた。
通りの一角で、わずかに視線を巡らせる。
それから、短く言った。
「ここにする」
まいは顔を上げる。
「しばらく、滞在する」
それだけだった。
決定は、いつも一方的だ。
理由も、説明もない。
それなのに、
まいの中に反発は起きなかった。
自分も同じ結論に辿り着いていたからだ。
高成は、また歩き出す。
まいは、その後ろをついていく。
前にいるのは、高成。
判断を下すのも、高成。
けれど、
同じ町を見て、同じ“安全”を感じていた。
そのことを、
まいはまだ、言葉にしなかった。
高成は、通りを一度見渡してから、宿を選んだ。
迷いはない。
立地と人の出入り、それだけで決めたようだった。
「ここだ」
それだけ言って、戸をくぐる。
中は簡素だが、清潔だった。
帳場の向こうで、女将が顔を上げる。
高成は何も言わず、まいの方を見た。
視線だけで、分かる。
――任された。
まいは一歩前に出た。
胸の奥が少しだけ強張る。
「……一部屋、お願いできますか」
声は、思ったよりも落ち着いていた。
帳場の女将が、二人を見て言った。
「一間で一泊、五十文だよ」
まいは、一瞬だけ息を止めた。
高成から聞いていた数字が、頭に浮かぶ。
――期間は3週間程度。五十文以下なら、即決でいい。
財布の重さも、事前に渡された金の量も、思い出す。
払えない額ではない。
三週間なら、少し計算が必要だが、無理ではない。
それでも、すぐには頷けなかった。
「……少し、長くなるかもしれなくて」
声は低く、慎重だった。
女将が眉を上げる。
「どれくらい?」
「……三週間ほど、です」
女将は少し考え込むように視線を外した。
まいは、その間じっと待つ。
余計なことは言わない。
やがて女将が言った。
「じゃあ、一泊四十五文。
掃除は三日に一度になるけど、それでいいかい」
まいは、胸の奥で小さく息を吐いた。
「……はい。それでお願いします」
女将が帳面を取り出し、部屋の札を差し出す。
「前金はいらないよ。三日ごとでいい」
「ありがとうございます」
頭を下げると、女将はもう二人に興味を失ったように、次の客へ目を向けた。
まいは札を受け取り、振り返る。
高成は、何も言わない。
ただ一度だけ、視線を寄こした。
それで十分だった。
やり取りは短く終わった。
案内されたのは、奥の一間だった。
思っていたよりも広い。
荷を置いても、少し余裕がある。
高成が先に入り、部屋の中を一瞥する。
窓の位置。
出入口。
物音の抜け方。
それから無言で頷いた。
「ここでいい」
判断は、やはり高成のものだ。
それでも、まいは胸の奥が少しだけ緩むのを感じた。
一間とはいえ、余白がある。
近すぎない距離。
やっと、息ができる気がした。
高成が荷を下ろし、壁際に刀を置く。
その動きを横目で見ながら、まいは部屋の中央に立った。
さっきまで感じていた緊張が、少しだけ薄れる。
それが、意外で、少し戸惑う。
距離ができたのに、
なぜか安心している。
まいは、自分でも理由が分からないまま、
畳の上に座った。
この町での暮らしが、
静かに始まろうとしていた。
今日から3章に入ります。
よければ、まいと同じ速さで
この時間を歩いてもらえたら嬉しいです。




