表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
33/79

戻らない朝

 




──あれ。

私、逃げてる途中じゃ⋯⋯。


そう思った瞬間、湯気の匂いが鼻をくすぐった。


気づけば、まいは家の居間に座っていた。

朝の光が障子越しに差し込み、土間の隅まで柔らかく照らしている。


卓の上には、白い粥。


向かいでは、父が椀を手にしていた。


ひと口、口に運ぶ。

次の瞬間、父の眉がわずかに寄る。


「⋯⋯」


じゃり、と小さな音がした。


「⋯⋯苦いな」


まいは、はっとして口を開く。


「ごめん。今日、ちょっと焦がしちゃって」


言いながら、胸の奥で小さく首を傾げた。


──なんで、私は謝ってるんだろう。


父はもう一度、粥をすくい、今度はゆっくり噛む。


「いい、いい。なかなか味わいがあるぞ」


「もう⋯⋯あんまり食べないでね。身体に悪いから」


自分の声が、少しだけ柔らかい。

それを聞いた瞬間、すとんと腑に落ちた。


ああ。

これは──村にいた頃の夢だ。


父が、まだ腰を悪くする前。

朝、野菜を村に下ろしに行く父の代わりに、

家の食事を作るのはいつも自分の役目だった。


そのとき、外から声がした。


「おーい。おじさん、いるかい?」


弥助だ。


「いるよー」


父が返すと、弥助の足音が近づく。


「村長が用事あるってさ」


「またかい。もうクタクタだ⋯⋯」


父はそう言って、肩を軽く回した。


「別に、娘でもいいってよ」


その言葉に、まいは自然と立ち上がっていた。


「あ、じゃあ私、代わりに行ってくるよ」


父は少しだけ考える素振りをして、頷く。


「ああ。頼めるかい」


その声は、何の疑いもなく、

まいを一人の人間として扱っていた。


村長の家は、変わらず道の突き当たりにあった。

戸を叩くと、すぐに中から声が返る。


用件は、本当に些細なものだった。

次の市の日取りの確認と、野菜の量の話。

まいが頷き、覚えておくと答えると、それで終わり。


家を出ると、弥助が言った。


「俺、ちょっと鍛冶屋寄ってくるわ」


「うん。先に帰ってようか?」


「いや、すぐ戻る」


そう言って、弥助は手を振り、路地の向こうへ消えた。


まいは、村道の端に立ったまま、空を見上げる。

朝よりも少し高くなった日差しが、目に眩しい。


──そのとき。


背後で、声がした。


小さい。

けれど、確かに自分に向けられたもの。


「⋯⋯あの子⋯村におりてきてるよ⋯⋯」


「⋯⋯見るのやめなよ、呪われるって⋯⋯!」


言葉の続きを、聞かなくても分かる。

まいは、唇を噛んだ。


──私は、何もしていない。


胸の奥が、じわりと重くなる。

ここに立っているだけで、

自分が場違いなもののように感じられる。


足を動かそうとして、止まった。

逃げるのも、立ち向かうのも、どちらもできない。


そのとき──


「まい」


聞き慣れた声がして、肩に軽い衝撃。


振り向くと、弥助が立っていた。

何も聞いていない顔で、いつもの調子で。


「帰ろうぜ」


まいは、一瞬だけ周囲を見た。

視線は、まだそこにある。


それでも、弥助は動じない。

まいの隣に立ち、自然に歩き出す。


「⋯⋯うん」


そう答えて、まいも足を出した。


人の目があっても。

囁きがあっても。


隣に立ってくれる人がいる。

それだけで、胸の重さが少しだけ和らいだ。


家に戻ると、夕餉の支度が始まっていた。

火にかけた鍋から、湯気が立つ。


父が戸口で声をかける。


父が戸口で声をかける。


「早かったな」


「おう。用事、すぐ終わったぜ」


そう言って、弥助は勝手知ったる様子で居間に腰を下ろした。

次に父はまいの顔を見るなり、静かに言う。


「まい──大丈夫だったか?」


何のことか、訊き返さなくても分かった。

まいはほんの少しだけ口元をゆるめる。


「うん。大丈夫だったよ」


父は頷き、それ以上は何も言わなかった。

だからまいも、何も言わない。

辛い顔をすれば、父まで辛くなる気がした。



やがて、三人で卓を囲む。


日が傾き、部屋の中が橙に染まっていく。

器の音。

箸が触れる音。


今日も、一日が終わる。


何も特別なことはない。

けれど、その静けさが、胸にしみた。


父が、椀に粥をよそう。

弥助が、それを受け取り、まいの前に置いた。


「はい」


「ありがとう」


指先が、器に触れた。


──冷たい。


一瞬、そう思った。


家の中は、火も入っているし、

こんなはずはないのに。


まいは、椀を持ち上げる。

その重さが、やけに頼りない。


父の声が、少し遠い。


「⋯⋯どうした?」


答えようとして、息を吸った。


その瞬間、

ふっと、音が消えた。


器の音も、

人の気配も、

夕暮れの色も。


──ぱちり、と目を開ける。


見知らぬ天井。

宿の、低い梁。


夜の冷気が、肌にまとわりつく。


まいは、しばらく動けなかった。

胸の奥が、ひどく静かで、

同時に、空洞のように広がっていく。


ああ。

夢だった。


特別に幸せでもないけど、穏やかで、

父と弥助の優しさに、守られていた日々。


今の自分が失ったもの。


分かってしまうのが、苦しい。


布団の上で、そっと袖を握る。

声を出せば、何かが壊れてしまいそうで。


涙が、滲んだ。


拭っても、

止めようとしても、

静かに、落ちていく。


高成は室内に不在だった。

隣には、誰もいない。

今のまいは、もう──家には帰れない。


まいは、音を立てないように顔を伏せた。

闇の中で、ただ一人。


外は新月。

少し強めの風が吹いている。


まいの震える肩に、触れる手はなかった。







評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ