戻らない朝
──あれ。
私、逃げてる途中じゃ⋯⋯。
そう思った瞬間、湯気の匂いが鼻をくすぐった。
気づけば、まいは家の居間に座っていた。
朝の光が障子越しに差し込み、土間の隅まで柔らかく照らしている。
卓の上には、白い粥。
向かいでは、父が椀を手にしていた。
ひと口、口に運ぶ。
次の瞬間、父の眉がわずかに寄る。
「⋯⋯」
じゃり、と小さな音がした。
「⋯⋯苦いな」
まいは、はっとして口を開く。
「ごめん。今日、ちょっと焦がしちゃって」
言いながら、胸の奥で小さく首を傾げた。
──なんで、私は謝ってるんだろう。
父はもう一度、粥をすくい、今度はゆっくり噛む。
「いい、いい。なかなか味わいがあるぞ」
「もう⋯⋯あんまり食べないでね。身体に悪いから」
自分の声が、少しだけ柔らかい。
それを聞いた瞬間、すとんと腑に落ちた。
ああ。
これは──村にいた頃の夢だ。
父が、まだ腰を悪くする前。
朝、野菜を村に下ろしに行く父の代わりに、
家の食事を作るのはいつも自分の役目だった。
そのとき、外から声がした。
「おーい。おじさん、いるかい?」
弥助だ。
「いるよー」
父が返すと、弥助の足音が近づく。
「村長が用事あるってさ」
「またかい。もうクタクタだ⋯⋯」
父はそう言って、肩を軽く回した。
「別に、娘でもいいってよ」
その言葉に、まいは自然と立ち上がっていた。
「あ、じゃあ私、代わりに行ってくるよ」
父は少しだけ考える素振りをして、頷く。
「ああ。頼めるかい」
その声は、何の疑いもなく、
まいを一人の人間として扱っていた。
村長の家は、変わらず道の突き当たりにあった。
戸を叩くと、すぐに中から声が返る。
用件は、本当に些細なものだった。
次の市の日取りの確認と、野菜の量の話。
まいが頷き、覚えておくと答えると、それで終わり。
家を出ると、弥助が言った。
「俺、ちょっと鍛冶屋寄ってくるわ」
「うん。先に帰ってようか?」
「いや、すぐ戻る」
そう言って、弥助は手を振り、路地の向こうへ消えた。
まいは、村道の端に立ったまま、空を見上げる。
朝よりも少し高くなった日差しが、目に眩しい。
──そのとき。
背後で、声がした。
小さい。
けれど、確かに自分に向けられたもの。
「⋯⋯あの子⋯村におりてきてるよ⋯⋯」
「⋯⋯見るのやめなよ、呪われるって⋯⋯!」
言葉の続きを、聞かなくても分かる。
まいは、唇を噛んだ。
──私は、何もしていない。
胸の奥が、じわりと重くなる。
ここに立っているだけで、
自分が場違いなもののように感じられる。
足を動かそうとして、止まった。
逃げるのも、立ち向かうのも、どちらもできない。
そのとき──
「まい」
聞き慣れた声がして、肩に軽い衝撃。
振り向くと、弥助が立っていた。
何も聞いていない顔で、いつもの調子で。
「帰ろうぜ」
まいは、一瞬だけ周囲を見た。
視線は、まだそこにある。
それでも、弥助は動じない。
まいの隣に立ち、自然に歩き出す。
「⋯⋯うん」
そう答えて、まいも足を出した。
人の目があっても。
囁きがあっても。
隣に立ってくれる人がいる。
それだけで、胸の重さが少しだけ和らいだ。
家に戻ると、夕餉の支度が始まっていた。
火にかけた鍋から、湯気が立つ。
父が戸口で声をかける。
父が戸口で声をかける。
「早かったな」
「おう。用事、すぐ終わったぜ」
そう言って、弥助は勝手知ったる様子で居間に腰を下ろした。
次に父はまいの顔を見るなり、静かに言う。
「まい──大丈夫だったか?」
何のことか、訊き返さなくても分かった。
まいはほんの少しだけ口元をゆるめる。
「うん。大丈夫だったよ」
父は頷き、それ以上は何も言わなかった。
だからまいも、何も言わない。
辛い顔をすれば、父まで辛くなる気がした。
やがて、三人で卓を囲む。
日が傾き、部屋の中が橙に染まっていく。
器の音。
箸が触れる音。
今日も、一日が終わる。
何も特別なことはない。
けれど、その静けさが、胸にしみた。
父が、椀に粥をよそう。
弥助が、それを受け取り、まいの前に置いた。
「はい」
「ありがとう」
指先が、器に触れた。
──冷たい。
一瞬、そう思った。
家の中は、火も入っているし、
こんなはずはないのに。
まいは、椀を持ち上げる。
その重さが、やけに頼りない。
父の声が、少し遠い。
「⋯⋯どうした?」
答えようとして、息を吸った。
その瞬間、
ふっと、音が消えた。
器の音も、
人の気配も、
夕暮れの色も。
──ぱちり、と目を開ける。
見知らぬ天井。
宿の、低い梁。
夜の冷気が、肌にまとわりつく。
まいは、しばらく動けなかった。
胸の奥が、ひどく静かで、
同時に、空洞のように広がっていく。
ああ。
夢だった。
特別に幸せでもないけど、穏やかで、
父と弥助の優しさに、守られていた日々。
今の自分が失ったもの。
分かってしまうのが、苦しい。
布団の上で、そっと袖を握る。
声を出せば、何かが壊れてしまいそうで。
涙が、滲んだ。
拭っても、
止めようとしても、
静かに、落ちていく。
高成は室内に不在だった。
隣には、誰もいない。
今のまいは、もう──家には帰れない。
まいは、音を立てないように顔を伏せた。
闇の中で、ただ一人。
外は新月。
少し強めの風が吹いている。
まいの震える肩に、触れる手はなかった。




