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似合わない布




南へ二日ほど下った。

人影の乏しい村を一つ越え、街道に戻る。


昼前、まいと高成は馬を降りて小さな市に入った。

野菜や布を広げた露店が並ぶ。


正月が明けたばかりの市は、思ったより賑やかだった。

笑い声や呼び声が、冷たい空気の中で弾んでいる。

その中にいるのが、まいは少しだけ場違いに感じた。


「ここで整える。次の滞在先に入る準備だ」


高成はそれだけ言って、簡単に“設定”を伝えた。

高成は主家を失い日銭を稼ぐ浪人で、まいは病弱な妹。

長く説明はしない。必要なことだけ。


まいは胸の奥で、言葉が引っかかった。

先の宿で咄嗟についた嘘。

妹――そう呼ばれる役を、ここから生きる。


高成の後ろをついて歩く。それも段々と当たり前のようになってきていた。


「着物を選べ」


そう言われて、立ち止まる。

“選ぶ”という言葉が、すぐには意味を結ばなかった。


並べられた反物や古着を前に、手が止まる。

着るものを、自分で選ぶ。

まいにはそんなこと、今まで一度もなかったのだ。


今だけでなく、父と暮らしていた頃から。

貧しくて、着物を買う余裕なんてなかった。

あったのは村のおこぼれで貰った、くたびれた布だけ。


店の前に高成は立っている。

まいを急かすでもなく、声もかけない。


店主はにこやかに笑って、

「ゆっくり見ていきなさい」と言う。


まいは、自分だけその場に取り残されたように感じた。


迷っているうちに、高成は少し離れた店で櫛や紐を見はじめた。

こちらを気にする様子はない。


焦って、目の前の着物に触れる。


藍鼠の一枚。

派手さはなく、しかし粗末でもない。

元侍の妹として、もっとも無難な色だった。


町に紛れるなら、きっとこれでいい。


「……これにします」


「まいど」


店主は銭を受け取り、畳んだ着物を差し出す。


ちょうど買い物を終えた高成が戻ってくる。


まいは着物を胸に抱き、視線を上げた。


「どうでしょうか…?」


声が小さくなる。

高成は一度だけ視線を向け、短く頷いた。


「悪くない」


それ以上はない。


店の人が愛想よく言葉を重ねる。

「よく似合いますよ、お嬢さん」と。

その声に、まいは曖昧に会釈をして応えた。


その後高成を盗み見たが、様子は変わらなかった。

褒めもしない。

否定もしない。


それが、なぜか居心地が悪かった。


選んだのは、私のはずなのに。

決めたのも、自分のはずなのに。


───その実感がない。


布を包んでもらいながら、胸の奥に小さな違和感が残る。

外側を型にはめていかれる感覚と、置いていかれる感覚が、同時にあった。



買い物を終える頃には日が傾いていた。

市のざわめきも、少しずつ落ち着いていく。


まいが高成に連れられて入ったのは、街道沿いの安宿だった。

古い建物で、廊下を歩くと床がわずかに鳴る。

部屋は一つだけ。火鉢は小さく、壁際に置かれている。


「ここで一晩休む」


それだけ言って、高成は荷を下ろした。


市場で買った軽食を広げる。

干した餅と、塩気のある保存菜。

特別なものではないけれど、空腹には十分だった。


向かい合って食べる。

言葉は少ない。

外の気配が薄れていくのと一緒に、胸の奥のざわめきも、少しずつ静まっていく。


食事を終えると、高成は無言で刀を取り出した。

布を敷き、手入れを始める。


研ぎ澄まされた動き。

無駄がない。

その様子を見ていると、昼間の市の喧騒が、ずっと遠くの出来事みたいに思えた。


まいは部屋の隅で、買ったばかりの小袖を包みから出した。

膝の上に広げて、そっと指でなぞる。


地味な色。

目立たない布。

それでも――。


これを着た自分の姿を想像すると、胸の奥がざわついた。


───似合わない気がしたのだ。


きれいすぎるわけじゃない。

でも、今までの自分とは違う。

“作られた”人間みたいで、落ち着かない。


包み直そうとした、その時。


「……髪を整える」


不意に、高成の声がした。


顔を上げると、刀の手入れはもう終わっている。

布を畳み、道具を片付けていた。


「え……?」


思わず声が漏れる。


「そのままでは、目立つ」


淡々とした声だった。


まいは反射的に首を振った。


「いえっ……そんな、大丈夫です。今まで、これで……」


言いながら、自分でも説得力がないと分かった。


反射的に指先で髪に触れる。

乾いた感触が、指に絡んだ。


胸の奥が、じくりと痛む。


伸びっぱなしで、枝毛だらけ。

村にいた頃から、ずっとこのままだ。


高成は、こちらをじっと見た。


「町に入る前だ。今のままでは、余計に見られる」


正論だった。

分かっている。


それでも、それを指摘されたのが、恥ずかしかった。


それに、多少きれいに整えたところで、この赤い髪が人に馴染むとも思えない。


「……自分で、やります」


小さく言うと、高成は首を振った。


「手早く済む」


それだけ。

彼が、責めているわけではないことは分かった。


まいはしばらく黙っていた。

膝の上の小袖に視線を落とす。


自分でやると言ったものの、擬態できるほどに整えられる自信はなかった。


「…………お願いします」


声は、思ったより小さかった。


高成はそれ以上何も言わず、小刀と櫛を手に取りまいの背後に回る。


一歩分の距離が詰まる。

それだけで、空気が変わった気がした。


布が首に巻かれ、短く、金属が擦れる音がする。


振り返るより先に、櫛が入った。

そのまま、指先が髪をすく。

思わず肩が強張った。


「……じっとしていろ」


低い声。

いつもと変わらない。


髪を指でつまみ、傷んだ先を確かめてから、

ごくわずかに刃を入れる。

それだけの静かな時間が流れる。


分かっている。

他意はない。

危険もない。


それでも、首の後ろに指が触れた瞬間、息が詰まった。


うなじに、冷えた空気が落ちる。

高成の指は、必要なところにしか触れない。

迷いも、ためらいもない。


低い位置に髪をまとめ、乱れた毛を内側に収める。

櫛が動くたび、僅かな振動が背中に伝わる。


まいは、ただ動かずにいた。

力を抜こうとしても、どこかが強張ったままだ。


落ち着かない。

でも、拒む理由もない。


高成は淡々としている。


その温度差が、余計にいたたまれなかった。


どれくらい、そうしていたのか。

長かったような、短かったような。


ふっと、気配が離れた。


「……終わったんですか?」


自分の声が、少し上ずっているのが分かる。


「ああ」


それだけだった。


首に巻かれていた布が外される。

高成は無言のまま、切り落とした髪を拾い集め、火鉢の脇に寄せていく。


触れられていたはずの場所がまだ熱を持っている気がして、まいはしばらく、そのまま動けずにいた。


そっと手を伸ばして、髪に触れる。

少し手触りが滑らかになった。

まとめられた感触が、まだ少しよそよそしい。


そして、買ったばかりの小袖を見下ろす。


布が変わったわけじゃない。

自分が変わったわけでもない。


ただ、人並みに整えられただけだ。


それだけなのに、

今まで身なりに気を使わなかった自分のことが、急に胸に引っかかった。


恥ずかしい、というより――

どうして、気にしようともしなかったのかと、思ってしまう。


気にする余裕がなかった。

選ぶ必要も、理由もなかった。


それを、今になって突きつけられたみたいだった。


小袖の袖を、指で軽くつまむ。

似合うかどうかは、まだ分からない。


でも、「こうしていればいい」と教えられた気がして、胸の奥が少しだけ痛む。


「……ありがとうございました」


そう言葉にしたのに、胸の奥は少しも澄まなかった。


高成は、何も言わなかった。


まいが髪に触れているのを一瞬だけ見て、

それから静かに背を向ける。


その背中を見て、

まいは比べてしまった。


高成は、最初から整っている人だ。

身なりを飾らなくても、

崩れない形をしている。


それに比べて、自分は。

整えられて、ようやく“形になった”。


恥ずかしいのとも、違う。

悲しい、と言い切るほどでもない。


ただ、

この人の隣に立つには、

自分は何も持っていない気がした。


高成の背中は、変わらない。

近づいたわけでも、遠ざかったわけでもない。


整えられたのは、身なりだけだ。

それ以上でも、それ以下でもない。


それでもまいは、しばらく結い直された髪と、小袖の感触を確かめていた。








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