量れない者
小瀬の姿が完全に見えなくなると、高成は馬首を南へ向けた。
街道は選ばない。人の気配が薄れる方へ、林と谷を縫うように進む。
漆駒はよく応えた。
速歩を基本に、要所で短く駆ける。だが、全力は出させない。息が乱れれば歩を緩め、汗が引けばまた進む。その繰り返しだった。
まいは言葉少なに、ただ鞍にしがみついていた。揺れに慣れたはずの身体も、次第に力を失っていく。
高成は双方の様子を確かめながら、何度も足を止め、水を含ませた。
漆駒の首を撫で、呼吸を確かめる。蹄に異常がないことを見届けてから、また鞍に乗る。
半日。
それだけ走ったという実感は、距離よりも重く残った。
***
陽は西へ傾き、風の匂いが変わる。
ここまで来れば、追撃が即座に及ぶことはない。
高成はようやく馬から降りた。
漆駒は鼻を鳴らし、ゆっくりと首を振る。
「……よく耐えた」
それだけ言って、手綱を緩めた。
寒村の外れに、小さな社があった。
鳥居は傾き、境内は落ち葉に埋もれている。
高成は漆駒を林側へ入れ、目立たぬよう繋いだ。
それから社の奥に、崩れかけた小屋を見つけ、まいを中へ導く。
屋根は残っていた。
雨風は凌げそうだ。
まいは腰を下ろした途端、どっと身体の重さが増した。
息は浅く、指先がわずかに震える。
「……少し休め」
それだけ言って、高成は外へ出ていった。
──夜明けまで、ここで耐える。
どれほどそうしていたのか、分からない。
身体を横たえたはずなのに、眠りは浅く、意識は低く澱んだままだった。
目を開けると、闇がある。
小屋の隙間から、冷えた夜気が流れ込んでくる。
高成の姿は、ない。
「……っ!」
一瞬、胸が強く打った。
だがすぐに、外でかすかな足音がするのに気づく。
──見回っている。
それが分かって、息を吐いた。
昼。
立ち尽くしたこと。
追われたこと。
追ってきた人に、見逃されたこと。
頭の中で何度も繰り返しているのに、どれも現実味が薄い。
まるで、誰かの話を聞いたみたいだった。
それなのに。
高成は、いつもと同じだ。
休みもせず、危険がないかを確かめ、闇の中にいる。
自分は、逃げて。
守られて。
結局、何もできなかった。
自分だけが、あの昼間に取り残されたみたいだ。
小屋の奥で身を起こそうとして、脚に力が入らず諦める。
疲れているのだと、その時ようやく自覚した。
──怖かった。
それを口にする気力すらない。
外で、草を踏む音が止まった。
高成が立ち止まった気配がする。
その背中がそこにあることが、なぜか苦しかった。
「……異常はない」
それだけ言って、彼は入口のそばに腰を下ろした。
こちらを振り返りはしない。
「漆駒は……」
声は思ったよりも小さかった。
「落ち着いている。今夜は動かさない」
短いやり取り。
それ以上、言葉は続かなかった。
静けさが戻る。
胸の奥に溜まっていたものが、少しずつ形を持ちはじめる。
昼から、ずっと引っかかっていた。
──立ち尽くしていた、あの人。
追ってきたのに、
それでも見逃した人。
喉がひどく乾いた。
言葉を紡ごうとしても、掠れた吐息にしかならない。
話すことすら、ひどく億劫だった。
だが、今聞かなければ。
今を逃せば、きっとまた聞けなくなる。
「……さっきの人は」
一拍、置く。
聞いてもいいのか、なんて考えなかった。
高成の背中が、わずかに強張る。
「どういう関係、なんですか」
問いは夜風に溶ける。
高成は振り返らないまま、少し間を置いてから答えた。
「奴はただの……家老家に仕える、一家臣だ」
それ以上は付け足さない。
言い切る声音だった。
まいは、すぐには頷けなかった。
昼の光の中で見た、あの人の目。
追う立場で、剣を抜く理由もあったはずの立場で、それでも──高成を前にして、踏み出さなかった。
「……そんな関係の人が」
言葉を選んでいるうちに、声が少し震えた。
「見逃すでしょうか」
高成は、答えなかった。
外で風が鳴り、木の葉が擦れる音がする。
夜は深く、境内は静まり返っている。
しばらくして、高成が低く言った。
「さあな」
否定でも、肯定でもない。
「理由を聞いても、答えは返らんだろう」
それだけだった。
まいは唇を噛んだ。
納得できない、というより──怖かった。
自分の知らないところで、
高成の選択が、また誰かの選択と交差していることが。
「……そう、ですか」
それ以上、踏み込む勇気はなかった。
高成は振り返らない。
ただ、自分に背を向けたまま、夜の外を見張り続けている。
変わらない背中。
そのことが、なぜか胸に引っかかった。
しばらく、沈黙が落ちた。
高成は、やはりまいを見ないまま言った。
「……人が何を選ぶかは、俺には量れん」
それだけだった。
理由も、意味も、続きはない。
まいはその言葉の中に、
逃げも、言い訳もないことを感じ取った。
高成は、本当に分からないのだ。
あの人が、なぜ立ち止まったのか。
なぜ、剣を抜かなかったのか。
分からないまま、受け取っている。
まいは、しばらく黙っていた。
胸の奥で、言葉を探す。
「……でも」
小さく、息を吸う。
「あの人は──」
高成が、わずかに視線をこちらへ向けた。
「あなたを、心配しているんじゃないですか」
問いは、確かめるようでもあり、
願いのようでもあった。
まいの問いに、高成はすぐには答えなかった。
しばらくして、低く言う。
「……そう見えたか」
それだけだった。
否定も、肯定もない。
問い返すような声音ですらない。
まいは、それ以上、何も言えなかった。
外では風が木々を揺らし、落ち葉が擦れる音がする。
境内は暗く、夜は深まっていく。
高成は入口に座ったまま、動かない。
変わらず、外を見張っている。
高成は、変わらない。
何者にも、その在り方を変えることはできない。
その背中を見ているうちに、まいの意識は少しずつ沈んでいき、夜は静かに更けていった。




