抜かれぬ刃
森は、いつの間にか音を失っていた。
枝葉が重なり、空は細く切り取られている。
陽はまだ高いはずなのに、足元は早くも薄暗い。
漆駒の蹄が、湿った土を踏むたび、鈍い音を立てる。
街道の乾いた響きとは違う。
道は、獣道に近い。
踏み跡はあるが、人のものとは限らない。
まいは、無意識に背筋を伸ばしていた。
枝が頬をかすめ、葉が肩に触れる。
それだけで、心臓が小さく跳ねる。
森の奥に入るにつれ、
「追われている」という感覚が、形を変えていく。
背後を気にする必要は、もうない。
代わりに──
前に何があるか、それだけを考えさせられる。
漆駒が、ふっと鼻を鳴らした。
高成の指が、手綱をわずかに引く。
歩調がほんの少しだけ落ちる。
それでも、止まらない。
「……」
高成は言葉を発さない。
だが、背中越しに伝わる緊張は、はっきりしていた。
まいは理由も分からないまま、背筋を強ばらせる。
やがて徐々に木々の障害が少なくなり、木立が途切れる。
視界が、ひらけた。
森を抜けた先は、小さな開け地だった。
草は短く、踏み固められている。
人が立ち止まり、待つには十分な広さ。
高成はそこで初めて馬を止めた。
漆駒が低く息を吐く。
蹄が地に根を下ろすように静止する。
高成は周囲を見回していた。
視線は速い。
だが、漏らさない。
風向き。
草の揺れ。
木陰の奥。
──いる。
確信だけが、静かに積み上がる。
高成は、まいに短く言った。
「……前だけ見ていろ」
理由は告げない。
それで十分だと、分かっている声だった。
まいは小さく息を吸い、頷く。
森は、背後にある。
道は、前に続いている。
だが、この場所だけが、
不自然なほど静かだった。
誰かが出てくるにはちょうどいい。
高成は手綱を握り直す。
その指に、迷いはなかった。
風が通り抜け、乾いた葉の擦れる音がする。
「──そこだ」
低く、短い声。
「出てこい」
返事はなかった。
だが、木立の奥で──
気配が、動いた。
葉を避ける気配でも、息を殺す様子でもない。
枯枝を踏み、落ち葉を弾き、あえて音を立てて近づいてくる。
(……来る)
高成の視線が、木陰の一点に据えられる。
次の瞬間。
「あちゃー、バレたか」
場違いなほど、軽い声だった。
枯葉や枝を連続して踏み鳴らしながら、その人影は姿を現す。
およそ隠密とは言い難い、雑な足運び。
癖のある髪を無造作に結い、肩の力の抜けた立ち姿。
戦場よりも、街道の茶屋の方が似合いそうな男だった。
「高成。数日ぶりだな」
まるで、偶然出くわした知人にでも声をかけるような調子。
男は刀に手を伸ばさない。
構えもしない。
距離も、詰めすぎない。
それが、かえって不気味だった。
「小瀬……」
高成は、低く言う。
警戒は解かれない。
だが、その名を呼ぶ声に驚きはなかった。
(……顔見知り?)
まいは反射的に高成を振り返るが、
高成は一瞬たりとも視線を逸らさない。
「いやー、びっくりしたぜ。まさかお前が、女連れで逃げるなんてさ」
小瀬と呼ばれた男は、足元の木の根を避けながら近づいてくる。
親しげな笑みを浮かべているが、その目は笑っていない。
距離を測っている目だ。
「俺たちをつけていたのはお前だな」
高成の声が、その歩みを止める。
小瀬は足を止め、肩をすくめた。
この二人の関係が、よくわからない。
まいは訝しげに眉を寄せる。
追っ手であることに違いはないのだろう。
だが、小瀬からは、こちらを捕らえようという意思がさっぱり感じられない。
手綱を握る手を緩めることなく、高成が言う。
「……阻むなら、斬る」
言葉は短く、感情を含まない。
小瀬は一瞬、視線を落とした。
それは迷いというより、寂しさに近いものだった。
しばしの沈黙。
二人の間を、木の葉を舞い散らせながら風が吹き抜ける。
そして、小瀬の笑顔が消え、静かに問いかけてきた。
「城で話したことを、覚えているか」
「…………」
高成は答えない。
だが、その沈黙が肯定であることを、小瀬は知っているようだった。
「理由くらい、教えてくれてもいいだろう」
小瀬の視線が、まいに向く。
値踏みでも、興味でもない。ただ、そこに「いる」存在として。
「なぜその娘を連れ出した? ……惚れでもしたか?」
後半は冗談めかした口調だったが、
声音には探る色があった。
馬の首が小さく動き、鐙が鳴る。
小瀬は困ったように息を吐いた。
「俺はただ、知りたいだけだ。
……お前が、何を考えているのか」
その目は見定める者だった。
まいは、はっとして小瀬の顔を見る。
理由を知りたい。
その思いだけは、まいも同じだった。
しばらく、言葉が途切れる。
鳥の声が遠くで一つ鳴り、すぐに消えた。
高成の返答に、まいも耳を澄ます。
それによっては、自分はこの男の側を離れなければいけない。
高成の腕を握る手が、迷うようにわずかに緩んだ。
頭上で、高成が短く息を吐く。
「…………話す気はない」
ようやく返ってきた声は、平坦だった。
だが、小瀬は、答えが返らないことも想定済みだったのだろう。
声をわずかに落とし、話を続ける。
「城の気配がおかしい」
高成の手綱を握る手が、ぴくりと跳ねる。
小瀬はそれを見ると、さらに畳み掛けた。
「やたらと僧侶が出入りしている。それに、贄だの、祟りだの──噂が多すぎる」
贄──。
まいの喉が、小さく鳴る。
「そこに異形の襲撃。……関係ないと考える方が不自然だろ」
小瀬は、高成をまっすぐ見据える。
高成は答えない。
沈黙が、重く積もる。
「……教えてくれ」
小瀬の声が、わずかに切実さを含む。
「なんでお前は、南雲を裏切った」
純粋に、ただ知りたがっている。
まいの目には、もう小瀬は単なる敵には見えなかった。
「…………」
再び長い沈黙が続く。
その間、高成は目を伏せていたが、ゆっくりと顔を上げ、口を開いた。
「……俺の生き方は、決まっている」
それだけだった。
小瀬は、その言葉を測るように高成を見つめる。
真意を確かめる目だった。
信じたい気持ちと、追う役目の間で揺れる視線。
森は、静まり返っていた。
──だが、この沈黙は長くは続かなかった。
遠く、
蹄が土を打つ音。
一つではない。重なって近づいてくる。
乾いた葉の擦れる音に混じり、地の奥から響くように増していった。
小瀬の視線が、開け地の向こうへ流れる。
さっきまで高成だけを見ていた目が、仕事の目に戻る。
「……来たか」
小さく呟いて、それきり口を閉ざした。
高成は馬上で動かない。
視線だけが、小瀬の変化を拾う。
そして、まいを支える腕に力を込めた。
再び逃げる気だ。
小瀬は一歩、横へ退いた。
そして、その背を向ける。
「須藤は、まだここを掴めてない」
歩き出しながら言う。
そして、一度だけ振り返った。
「この場は──見なかったことにする」
道を塞ぐでもなく、導くでもない。
ただ、進む先の空気を空ける。
高成はその意図を、受け取った。
「……恩に着る」
それだけ言って、手綱を引く。
漆駒が地を蹴った。
草が弾け、冷たい風が顔を打つ。
まいは息を呑み、身体を低くする。耳元で風が鳴り、木々の影が流れていく。
背後の気配が遠ざかる。
けれど蹄音は、追ってくるというより、森そのものを揺らすように増えていた。
高成は振り返らない。
まいも、振り返れなかった。
ただ一度、視界の端で小瀬の影が木陰に溶けるのを見た。
立ち尽くしたまま、動かなかった。
森が再び閉じる。
木々の間に身を滑り込ませた瞬間、音は一段と鈍くなった。
湿った土が蹄を吸い、枝が腕を叩く。
高成は速度を落とさない。
まいは呼吸が追いつかなくなる前に、漆駒の背に合わせて身体を預けるしかなかった。




