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境界




「下がれ」


低い声。


まいは、反射的に一歩下がる。


木立の間から、人影が現れた。


軽装の歩兵が四人。


数は多くない。

それでも、完全に包囲されている。


逃げ道が、ない。


男の一人が前に出た。


相手はまだ刃を抜かない。

まずは確かめる目だった。


「名を名乗れ」


高成は答えない。


男は一瞬だけ高成を見直し、続ける。


「……生田高成、だな?」


疑いと確認が混じった声。


その侍の位は高そうには見えなかった。

おそらく高成の名は知っていても、直接関わりのある立場ではないのだろう。


高成はなおも黙っている。


肯定もしない。

否定もしない。

体勢を緩めることもなかった。


男は、舌打ち混じりに言った。


「女を渡して投降しろ。

おとなしくしていれば、手荒な真似はしない」


まいの喉が鳴る。

数日ぶりの緊張に、足がすくんだ。


目の前の背中を、ただ見つめることしかできない。


高成の左足が、わずかに音を立てて後ろへ引かれた。


「――逃げる」


ごく小さな声。


振り向かずに、言う。


意味を考えるより先に、高成の気配が変わった。


次の瞬間――


音が、消える。


高成の身体が、前へ滑った。


前方、一番距離のある男。


刃が、光ったように見えた。


悲鳴は上がらない。

低く鈍い音がする。


男が腹を押さえて崩れ落ちる音だけが、短く響く。


その直後には、残りの侍たちが一斉に刀を抜き、高成の背へ殺到していた。


「生田さま……!!」


斬られる。


そう思ったのも束の間だった。


高成は一段と体勢を低くし、そのまま身を反転させた。


地を踏み切る音。


まいの身体が、宙に浮く。

高成の腕が腰を掴み、そのまま担ぎ上げていた。


叫ぶ暇もない。


「──っ」


漆駒が、いななきもせず跳ねる。

高成はそのまま、その背へ飛び乗った。


まいは目を開けていられなかった。


「捕まれ!」


それだけ。


まいは手探りで、必死に高成の衣を掴む。


次の瞬間、蹄が土を蹴り上げた。


腰の奥を、ぞわりと冷たいものが走る。


速い。

このまま、走り出す。


そう理解するより先に、風が頬を打った。


背後で怒声が上がる。


「追え――!」


だが、もう遅い。


徒歩の足では、漆駒に追いつけない。


二人を乗せ、漆駒は街道を一直線に駆け抜けた。


「ひ……っ」


不安定な体勢の中、漆駒の速度がさらに上がる。

だが、高成の腕がある。


落ちない。


その体温だけが、

かろうじて、まいを現実に繋ぎ止めていた。





***






街道から森へ入る。

漆駒はなお速度を落とさなかった。


途中、馬上へ引き上げられ、腹に腕が回される。

定位置だ。

背中の体温に、まいはわずかに息をついた。


しばらく走ると、枝が途切れ、視界がひらけた。

街道から外れた、細い山道。


踏み跡は薄く、人の往来もない。


そこで、高成はようやく手綱を引いた。


全速から、駆け足へ。

それでも、止まるにはまだ早い速度を保つ。


まいは前を向いたまま、必死に呼吸を整える。


胸が上下し、喉が痛む。

息は、まだ整わない。


背後の音に耳を澄ます。


――追っては、来ていない。


それでも、高成は振り返らない。


まだだ。

まだ、安心できる距離ではない。

そう判断しているのだろう。


さらに森を抜け、一刻ほど進んだところで、ようやく漆駒の速度がはっきりと落ちた。


歩みに近い。


高成が、初めて後ろを確認する。

視線は短く、鋭かった。


「……切れたか」


独り言のような声。


追っ手との距離を、ようやく“測れる段階”に入ったという意味だった。


まいは、やっと肩から力を抜いた。

だが、身体はまだ硬い。


──怒られる、と思ったからだ。


「……申し訳……ありません」


声は、風に紛れるほど小さい。


「私が……足を止めたから……」


待てないと言われたのに、あそこで留まってしまった。

追っ手が来ると警告されていたのに。


体調とともに少し持ち直しかけていた心が、再び無力感に沈んでいく。


高成はすぐには答えなかった。

まいは目を閉じ、その沈黙に耐える。


漆駒の歩調を一定に保ったまま、高成がわずかに身じろぎしたのを背中で感じた。


そして、普段と変わらない声音が降ってくる。


「謝るな」


わずかに間を置いて、


「利用されているかもしれない相手に、

申し訳なく思う必要はない」


高成は、そう淡々と続けた。


まいは目を開き、息を呑む。


その言い方は、冷たい。

だが、事実だった。


自分は高成の目的など知らない。

助け出された、守られたと、手放しで感謝して信用を預けられる相手ではない。


高成は続ける。


「確かに止まったのはお前だが、

それを待ったのは私だ」


責任の所在を、はっきり切り分ける。


高成は、無理にでも自分を動かすことができたはずなのだ。

それでも、そうしなかった。


「判断を誤ったなら、私の落ち度だ」


そこで、言葉が止まる。


ほんの一瞬。

腰に回る腕に、力が入った気がした。


高成は低く息を吐き、少しだけ声を変える。


「……それでも謝るなら、お前は、無駄に気を遣いすぎだ」


苛立ちに近い。

だが、怒りではない。


呆れたような言い方だった。


その語尾は、どこか緩んでいた。


まいは、何も言えなくなる。


本来なら、謝る必要などない。

そう言われて、初めて気づく。


それでも謝ってしまう自分を、

この人は否定しきらない。


高成は、最後に一言だけ付け足した。


「足手まといなら、最初から連れていない」


評価でも、慰めでもない。


ただの事実。


だが、その事実が、

まいの胸の奥に静かに残った。


高成は、進路を少しだけ変える。


街道に戻らない。

かといって、深山にも入らない。


――中間。


追う側が、

「どちらへ行ったか」を迷う位置。


高成は、その場所を選んでいた。


漆駒が、小さく鼻を鳴らす。


歩調は安定している。

疲労は、まだ浅い。


「……まだ油断はするな」


高成が、低く言う。


まいは、黙って頷いた。


今は、何も聞かない。従う。


道が、二つに分かれる。


どちらも、踏み跡は少ない。


高成は、一度だけ馬を止めた。


周囲の音を拾う。


風。

鳥の声。

木々のざわめき。


人の気配は、ない。


だが――完全に消えたとも言い切れない。


高成は、視線を上げる。


この先は、

人が「待てる」場所だ。


追う者が、焦らず、情報を拾うために。


高成は、静かに息を吐いた。


――そろそろ、来る。


昨日から、完全には振り切れない、殺気のない気配。


それが敵か、味方か、

あるいは、そのどちらでもないか。


それを探る必要がある。


漆駒が、地を踏みしめる。


高成は手綱を引き直し、まいに短く言った。


「構えておけ」


それだけ。

理由は言わない。


だが、その声には、

さっきまでとは違う緊張があった。


追われるだけの段階は終わった。


道は、まだ続いている。


この先で誰かと出会うことだけは、

避けられないと分かっていた。








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