噂
障子の向こうが白んでいた。
まいはしばらくそれを眺めてから、ゆっくりと瞬きをした。
──朝だ。
身体を動かしてみる。
どこも痛くない。
胸の奥が、静かだった。
昨日まで張りついていたものが、少しだけ剥がれている。
久しぶりだった。
こんなふうに、朝まで一度も目を覚まさず眠れたのは。
息を吸うと、冷えた空気が肺に入る。
冬の匂いがする。
まいは身を起こした。
部屋の端には、やはり高成がいた。
膝を立て、壁に背を預けるように座っている。
目は開いているが、こちらを見てはいない。
──起きて、待っていた。
そう思った瞬間、胸の奥がきゅっと鳴った。
「……おはようございます」
声を落として言う。
高成は、少し遅れてこちらを見た。
「眠れたか」
それだけ。
まいは頷いてから言った。
「……よく眠れました」
言葉にすると、実感が増す。
高成は何も答えない。
ただ、視線を外へ向ける。
障子の向こう、街が動き出す気配がする。
人の声。
戸の開く音。
食事の匂い。
朝が始まっている。
「今から出る」
高成が言った。
まいは驚かなかった。
それが自然だと思えた。
「準備は、簡単でいい」
必要なことだけを告げる声。
まいは布団を畳みながら、自分の手がよく動くことに気づいた。
昨日より、指が震えない。
昨日より、息が深い。
──眠れた。
それだけで、こんなにも違う。
高成は、まいの様子を一度だけ見て、頷く。
「問題ないな」
確かめるような言葉だった。
まいは少し考えてから、答えた。
「……はい」
自分でも不思議なほど、はっきりした声だった。
高成は、それ以上何も言わない。
だが、もう待たせてはいけないと思った。
まいは荷を背負い、戸の前に立つ。
朝の光が、障子の隙間から差し込んでいる。
この街は、もう、通り過ぎる場所だ。
一度だけ部屋を振り返り、
それから外へ出た。
宿を出ると、朝の街はすでに動いていた。
人の声が重なり、戸が開き、湯気が立つ。
昨日までの緊張が嘘のように、どこもかしこも生活の匂いがする。
まいはその中を歩きながら、肩の力が抜けているのに気づいた。
油断ではない。
安心とも、少し違う。
ただ、身体がちゃんと朝を受け入れている。
街道を外れ、畑の脇を抜けると、農家の屋根が見えた。
高成が短く声をかけ、用件を伝える。
やり取りは簡潔で、余計な話はない。
裏手へ回ると、漆駒がいた。
黒い体躯が、朝の光を吸い込んでいる。
足元の土を踏みしめ、静かに首を上げた。
まいは、一歩だけ近づく。
──やっぱり、大きい。
怖さはない。
けれど、親しみもまだない。
まいは少し迷ってから、声をかけた。
「……大変な道を運んでくれて、ありがとう」
言葉は、ぎこちない。
「これからも、よろしくね」
漆駒は、じっとこちらを見た。
耳が、わずかに動く。
鼻先が、ふう、と息を吐く。
近寄ってはこない。
だが、顔を背けもしない。
拒まれていない。
それに安心した。
高成が、漆駒の首に手を置く。
慣れた仕草。
短く、確かめるように撫でる。
漆駒は何も言わず、それを受け入れた。
まいは一歩引いた位置で、その様子を見守る。
この馬は、高成のものだ。
自分のものではない。
それでも同じ道を行き、命を預ける相手。
その事実が、胸の奥で静かに重なった。
高成が手綱を取り、まいを見る。
「行くぞ」
まいは頷いた。
漆駒が歩き出す。
蹄が土を踏み、音が一定に続く。
街を振り返ることはなかった。
前に伸びる道だけが、
朝の光の中にあった。
だが、その光は長くは続かなかった。
街道へ戻る途中、風に混じって声が流れてきた。
──行商同士の、何気ない立ち話だった。
「……城近くの村、兵が入ったらしいぞ」
「女を探してるとか」
「焼いたってほどじゃねえが、荒れたらしい」
足が、わずかに鈍る。
「おっかねぇなぁ。新しいご当主になってから、そうそう揉め事なんかなかったのにな」
「そうさなぁ。お、それはそうと、与吉のとこの畑がな──……」
話し手はもう別の話題に移っている。
だが、まいの耳には、それ以上の言葉は入らなかった。
──比良野。
はっきりと名前が出たわけではない。
それでも、分かった。
方角。
距離。
話の断片。
比良野だ。
女を、探している。
胸の奥が、すっと冷える。
村のことを忘れていたわけじゃない。
父のことも、弥助のことも。
ただ──逃げることで精一杯だった。
生きることに、必死だった。
その現実が、突然、形を持って押し寄せてくる。
踏み荒らされる畑。
戸を叩く音。
怒号。
想像が、勝手に広がる。
息が、浅くなる。
まいは、無意識に前を行く高成を見た。
この人は、分かっていたはずだ。
こうなることも。
村が、無事では済まないことも。
頭では、分かっている。
分かっていたとして、高成に助ける義理はないし、どうしようもないことだ。
それに、目的はどうであれ、自分は守られている。
それでも。
胸の奥から、別の感情が湧き上がる。
それは、正しさとは関係のないものだった。
どうして、何も言ってくれないのか。
どうして、自分だけが何も知らないのか。
子どもじみた、理不尽な怒り。
まいは、急に足を止めた。
自分でも驚くほど、唐突に。
胸の奥で、何かが、音を立てて崩れていく。
立ち止まった理由を、
まだ、言葉にできないまま。




