殺気のない気配
夕暮れの街は、穏やかだった。
人の声は低くなり、動きも鈍る。
城を出て三日。
まいは、まだまともに休めていない。
漆駒もまた、長い山越えで脚を酷使していた。
ここで無理に走らせれば、どちらかが先に潰れる。
加えて、人の行き来に紛れながら街道の様子を測る必要もあった。
追っ手がどの程度まで動いているのか。
どこまで情報が回っているのか。
それを見極めずに先へ出る方が危うい。
無理に走り続けるより、街に紛れる方が安全。
高成はそう判断した。
城を出るにあたり、南雲には小さくない損害を与え、東方での偽装も予定通り果たした。
追う者がここへ届くには、まだ早い。
──そのはずだった。
高成は、通りの端を歩きながら、意識の一部を切り離して背後へ向ける。
足音。
間合い。
視線の重さ。
いる。
確かに。
だが──殺気がない。
それが妙だった。
追っ手なら、もっと近づく。
あるいは、もっと距離を取りながら囲う。
探るなら焦りが滲む。
確かめるなら、どこかで踏み込んでくる。
だが、その気配は違った。
一定の距離を保ち続ける。
ただ、それだけだ。
見ているが、近づかない。
追う意思はある。
だが、捕らえる気配がない。
高成は露店の前で足を止め、何気ないふりで視線を動かす。
そして胸の奥で、結論を下す。
本隊ではない。
追撃を命じられるのは、おそらく忠興だ。
あの男は裏切りを許さない。加えて、自身の矜持を踏みにじられてなお、黙して退く性質でもない。
忠興なら、こうはしない。
気配はもっと荒くなる。
これは斥候だ。
しかも、慣れている。
だからこそ厄介だった。
だが、今すぐ動く理由にはならない。
高成はまいの歩調が乱れていないことを確かめ、何事もなかったように歩き出す。
この街は、明日まで。
いや──朝までだ。
そう結論を出した。
***
宿に戻る頃には、空はすっかり暗くなっていた。
高成は、部屋へ入るなり静かに支度を整える。
音は立てない。
荷は最小限にし、あとは捨て置く。
だが、まとめきらない。
出る準備ではなく、
“いつでも動ける形”に留める。
「後で少し出る。お前は寝ていろ」
短く告げる。
理由は言わない。
説明もしない。
まいは、少しだけ黙ってから頷いた。
「……分かりました」
それきり、何も言わない。
高成は、戸口で一度だけ外の気配を測る。
まだ、動きはない。
だが、動かないこと自体が答えだった。
今夜は来ない。
その確信に近い感覚が、胸の奥へ静かに落ちた。
宿を出る前、高成は一度だけ部屋を振り返った。
まいは、もう横になっている。
眠っているかどうかは分からない。
起こさない。
連れて行かない。
それが、最善だ。
夜の空気は冷えていた。
農家の裏手。
馬を繋いだ場所には、月明かりが届かない。
高成は、馬の首に触れ──そこで動きを止めた。
いる。
近い。
だが、やはり殺気がない。
昼に感じた者と、気配は同じ。
標的は、まいではない。高成自身だ。
腰の刀に手を掛ける。
その瞬間、漆駒が小さく鼻を鳴らした。
首を振るでもなく、
脚を踏み鳴らすこともない。
耳は立っているが、
緊張に張りつめてはいなかった。
──落ち着いている。
高成はそれを確かめるように、もう一度だけ漆駒の首を撫でる。
漆駒は身じろぎひとつせず、その手を受け入れた。
危険ではない。
少なくとも、
今すぐ刃が飛んでくる距離ではない。
高成はそこで初めて、ほんのわずかに呼吸を緩めた。
気配はそれ以上近づかず、街に溶けるように消えていく。
高成は、しばらくその場を動かなかった。
やがて漆駒の首を軽く叩き、脚を確かめたあと、その場を離れた。
***
宿に戻ると、夜はすっかり深くなっていた。
戸を開ける音を、できるだけ立てない。
布団の膨らみだけが、そこにある。
まいは起きていた。
昨日と同じだ。眠れていないのだろう。呼吸を潜めている気配がある。
「……起きているな」
「……はい」
高成は、部屋の端に腰を下ろす。
「安心しろ。今夜は休め」
それだけだった。
無駄に気遣うつもりはない。
しばらくして、まいの呼吸が変わる。
浅かった息が、少しずつ深くなっていく。
──眠ったか。
高成は、その気配を確かめてからも動かない。
警戒は解かない。
だが、張りつめていた糸が、ほんのわずかに緩む。
──今夜は、追ってこない。
そう判断できたのは、理屈だけではなかった。
距離の取り方。
踏み込まなかった間合い。
あの、殺気のなさ。
正体は分からない。
だが、判断は同じだ。
朝までは安全。
高成は、静かに息を吐く。
眠ることはしない。
だが、目を閉じる。
ほんの短いあいだ、意識を浅く落とす。
部屋には、まいの寝息だけが残る。
夜は、まだ続いている。
それでも──この一刻だけは、確かに守られていた。




