表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
22/80

人の中へ




里へ入る直前、高成は一度だけ道を外れ、馬を預けてから戻ってきた。

理由を聞く必要はなかった。


再び街道へ出る。


里の入口に、人が立っていた。


見張りというほどではない。

ただ、行き交う者を何となく眺めているだけの男だ。


まいの足が、わずかに強張る。


視線が、こちらに向いた。


高成は歩調を変えない。

背筋を伸ばし、刀の位置を確かめるように一度だけ手を動かす。


──雇われの護衛。


そう見える立ち姿だった。


男の目が、まいに移る。


一瞬。

長くも短くもない、探るような視線。


まいは教えられたとおり、顔を伏せた。

肩をすぼめ、歩幅を小さくする。


手伝いの娘。

守られず、いざというときは捨て置かれる側。


そういう立ち方。


男の視線が、高成へ戻る。


値踏みするような目だった。

何者かを量るような目。


だが高成は、ただ前を見る。


それ以上も、それ以下もない態度で、通り過ぎる。


一歩。

二歩。


背中に刺さる気配が、ふっと途切れた。


里の中の音が、急に近づく。

人の声。

暮らしのざわめき。


まいは、ようやく息を吐いた。


視線をくぐっただけなのに、山を越えた時より、ずっと疲れた気がした。


里に足を踏み入れると、耳に入る音が一気に増える。


話し声が重なり、笑い声が混じる。

荷車の軋み、犬の鳴き声、子どもが駆け回る足音。


山では、音は一つずつしか聞こえなかった。

ここでは、すべてが同時に耳に入ってくる。


まいは、思わず歩調を乱しそうになる。


人が近い。

視線が多い。


誰もこちらを見ていないようで、誰かが見ている気もする。


高成は、ほんの少しだけ進路を変えた。

人の流れに逆らわず、けれど飲まれない位置へと。


その背中を見て、まいは慌てて距離を詰める。


通りの端では、食べ物を並べる女たちが声を張り上げていた。

土のついた根菜や干し肉。

煮物や焼き魚の匂い。


どれも見慣れたはずのものなのに、今はやけに噎せ返るほどの現実味があった。


──生きてる。


そんな当たり前のことが、胸に落ちてくる。


すれ違いざまに、誰かの肩が触れた。

謝る声もなく、流れに押されて離れていく。


まいは思わず、前を行く袖を掴みそうになり、寸前でこらえた。


高成は振り返らないし、歩調を落とすこともない。

まいは唇を噛み、必死に追いかけた。


荷を持つ娘。雑務の多い娘。


そういう顔で歩く。


人の声に混じって、知らない噂話が耳に入る。

どれも自分とは無関係な話なのに、心臓が跳ねる。


誰も、まいの名を呼ばない。

誰も、足を止めない。


当たり前のことなのに、それに安堵する。


高成の歩幅は一定だ。

迷いがない。


その半歩後ろで、まいは必死に人の中へ溶け込んだ。


里の雑踏は安心できるものではないが、紛れるには十分すぎる場所だと感じた。


そう思い、通りの脇に並ぶ露店の前を通りかかった時だった。

人の流れが一時的に滞り、高成が足を止める。


「お嬢ちゃん」


突然かけられた声に、まいの肩が跳ねた。


「その身なり、山越えしてきたんだろ? 喉、乾いてないかい?」


籠の中には干し果物と水筒。

日に焼けた顔のおばちゃんが、にこにことこちらを見ていた。


──話しかけられた。


頭が、真っ白になる。


返事をしなければ。

手伝いの娘なら、何を言うのだろう。いや、そもそも、雇い主の許しなく話してよいのだろうか。


まいは口を開いたが、声が出なかった。


「……あ、えっと……」


言葉が、形にならない。


視線が定まらず、足先がもつれる。

周りの音が、急に遠くなる。


──だめだ。高成の指示がなければ、何もできない。


おばちゃんの笑顔が、少しだけ困ったものに変わる。


「兄さんの手伝いかい?」


「あ、その……えっと……」


頭が、くらりとする。


その瞬間、高成が一歩、後ろへ下がった。


「気遣いはありがたい」


声は低く、穏やかだった。


「だが、この子は山越えで疲れていて、思うように話せぬようだ。街に入ったばかりでな」


言い訳でも、拒絶でもない。

ただの事情説明。


おばちゃんは、すぐに頷いた。


「ああ、それは悪かったね。お兄さんの手伝い、頑張って」


それだけ言って、次の客に声をかける。


何事もなかったように。


まいは、息を吸うのを忘れていたことに気づく。


胸が、じんと痛む。


──何もできなかった。


逃げることも、紛れることも、

全部、高成がしている。


自分は、後ろを歩いているだけ。


しょうがない。

自分はそんな修羅場を潜ってきたことなどないのだから。


しょうがないのだし、開き直ったところで文句を言われる筋合いもないはずだ。


なのに、袖の中で指が震える。


申し訳なさと、無力感が、同時に押し寄せた。


高成は、何も言わない。

ただ、少しだけ歩調を落とした。


それが余計に、胸に刺さった。


まいは俯き、唇を噛む。


──次は。次こそは、ちゃんと話さないと。


そう思いながら、もう一度、人の中を歩く。


その時だった。


──ぐぅぅうぅ……


「!!?」


音は、思ったよりはっきり鳴った。


一瞬、何が起きたのかわからず、次の瞬間、熱が一気に頬へ集まる。


まいは思わず立ち止まり、両手で腹を押さえた。

思えば、城でも、城を出てからも、ろくに食事を取っていない。


「す、すみません」


聞こえなかった、では済まない音だった。


恥ずかしい。

それ以上に、申し訳ない。

何もできないくせに、いっちょ前に腹だけは空かせて。


まいはきつく服を握ったが、高成は足を止めた。


「構わん。……そろそろ、食事を取るべきだな」


それだけ言って、周囲を一度見回す。


声の調子は変わらない。

責める気配も、からかう気配もない。


「本当に、すみません……」


まいは俯いたまま、もう一度小さく謝った。


自分の腹くらい、自分でどうにかしなければ。

でも、まいには手持ちがない。


高成はどうするつもりだろう。

食事の世話までしてくれるのだろうか。


おろおろと地面に視線をさまよわせていると、頭上から声が降ってきた。


「お前が行け」


「え……?」


高成はまいの手首を掴んだ。

そのまま、懐から出した銭を、まいの手に乗せる。


「干し物か、包んで持てるもの。

高くないのでいい」


それだけ。


命令のようでいて、逃げ道も与えられている言い方だった。


高成の目に感情は見えない。

自分に買わせる意図も、よくわからない。


だが、高成が初めて役割をくれた。


まいは目をぱちぱちと瞬かせながら、手に感じる銭の重みを確かめるように握った。


さっきの場面を見ても、このくらいはできると、高成は自分を見ている。


「……わかりました」


離された手を、胸の前で握り直す。

そして、ゆっくりと露店の方を見た。


さっき話しかけられて、何も言えなかった。

今度も、失敗するかもしれない。


それでも──

行かなければならなかった。


一歩、前に出る。


いくつかある店の中で、干し芋と焼き団子を並べた露店に足を止める。


「……あの」


声が、ちゃんと出た。


おじさんが顔を上げる。


「干し芋を、一つ……ください」


指さしだけで済ませず、逃げない。

ちゃんと言葉にする。


「はいよ」


包みを受け取り、銭を渡す。


指が触れないように気をつけながら、きちんと数を数えた。


それだけのことなのに、胸がいっぱいになる。


戻ると、高成は何も聞かなかった。


ただ、買ってきたものを受け取り、その半分をまいに差し出す。


「食え」


まいは、小さく返事をして受け取った。


噛むと、甘さが広がる。

それに、温かい。


お腹だけでなく、まいの中の何かも満たされるようだった。


まるでものすごく高価なものを食べる時みたいに、まいは噛みしめながら、ゆっくりと食べた。


一方、高成は早々に食べ終え、周囲の様子を見ている。


それに気づいて、まいは手元へ視線を落とした。


──この人は、別に食べなくてもよかったんだ。


それでも、食事を取ると言った。


自分を気遣って。


空腹だけではない。

何もできない無力感まで、汲んでくれたのだ。


胸の奥が、少しだけ温かくなる。


ほんの小さなこと。

でも、それで十分だった。
















評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ