人の中へ
里へ入る直前、高成は一度だけ道を外れ、馬を預けてから戻ってきた。
理由を聞く必要はなかった。
再び街道へ出る。
里の入口に、人が立っていた。
見張りというほどではない。
ただ、行き交う者を何となく眺めているだけの男だ。
まいの足が、わずかに強張る。
視線が、こちらに向いた。
高成は歩調を変えない。
背筋を伸ばし、刀の位置を確かめるように一度だけ手を動かす。
──雇われの護衛。
そう見える立ち姿だった。
男の目が、まいに移る。
一瞬。
長くも短くもない、探るような視線。
まいは教えられたとおり、顔を伏せた。
肩をすぼめ、歩幅を小さくする。
手伝いの娘。
守られず、いざというときは捨て置かれる側。
そういう立ち方。
男の視線が、高成へ戻る。
値踏みするような目だった。
何者かを量るような目。
だが高成は、ただ前を見る。
それ以上も、それ以下もない態度で、通り過ぎる。
一歩。
二歩。
背中に刺さる気配が、ふっと途切れた。
里の中の音が、急に近づく。
人の声。
暮らしのざわめき。
まいは、ようやく息を吐いた。
視線をくぐっただけなのに、山を越えた時より、ずっと疲れた気がした。
里に足を踏み入れると、耳に入る音が一気に増える。
話し声が重なり、笑い声が混じる。
荷車の軋み、犬の鳴き声、子どもが駆け回る足音。
山では、音は一つずつしか聞こえなかった。
ここでは、すべてが同時に耳に入ってくる。
まいは、思わず歩調を乱しそうになる。
人が近い。
視線が多い。
誰もこちらを見ていないようで、誰かが見ている気もする。
高成は、ほんの少しだけ進路を変えた。
人の流れに逆らわず、けれど飲まれない位置へと。
その背中を見て、まいは慌てて距離を詰める。
通りの端では、食べ物を並べる女たちが声を張り上げていた。
土のついた根菜や干し肉。
煮物や焼き魚の匂い。
どれも見慣れたはずのものなのに、今はやけに噎せ返るほどの現実味があった。
──生きてる。
そんな当たり前のことが、胸に落ちてくる。
すれ違いざまに、誰かの肩が触れた。
謝る声もなく、流れに押されて離れていく。
まいは思わず、前を行く袖を掴みそうになり、寸前でこらえた。
高成は振り返らないし、歩調を落とすこともない。
まいは唇を噛み、必死に追いかけた。
荷を持つ娘。雑務の多い娘。
そういう顔で歩く。
人の声に混じって、知らない噂話が耳に入る。
どれも自分とは無関係な話なのに、心臓が跳ねる。
誰も、まいの名を呼ばない。
誰も、足を止めない。
当たり前のことなのに、それに安堵する。
高成の歩幅は一定だ。
迷いがない。
その半歩後ろで、まいは必死に人の中へ溶け込んだ。
里の雑踏は安心できるものではないが、紛れるには十分すぎる場所だと感じた。
そう思い、通りの脇に並ぶ露店の前を通りかかった時だった。
人の流れが一時的に滞り、高成が足を止める。
「お嬢ちゃん」
突然かけられた声に、まいの肩が跳ねた。
「その身なり、山越えしてきたんだろ? 喉、乾いてないかい?」
籠の中には干し果物と水筒。
日に焼けた顔のおばちゃんが、にこにことこちらを見ていた。
──話しかけられた。
頭が、真っ白になる。
返事をしなければ。
手伝いの娘なら、何を言うのだろう。いや、そもそも、雇い主の許しなく話してよいのだろうか。
まいは口を開いたが、声が出なかった。
「……あ、えっと……」
言葉が、形にならない。
視線が定まらず、足先がもつれる。
周りの音が、急に遠くなる。
──だめだ。高成の指示がなければ、何もできない。
おばちゃんの笑顔が、少しだけ困ったものに変わる。
「兄さんの手伝いかい?」
「あ、その……えっと……」
頭が、くらりとする。
その瞬間、高成が一歩、後ろへ下がった。
「気遣いはありがたい」
声は低く、穏やかだった。
「だが、この子は山越えで疲れていて、思うように話せぬようだ。街に入ったばかりでな」
言い訳でも、拒絶でもない。
ただの事情説明。
おばちゃんは、すぐに頷いた。
「ああ、それは悪かったね。お兄さんの手伝い、頑張って」
それだけ言って、次の客に声をかける。
何事もなかったように。
まいは、息を吸うのを忘れていたことに気づく。
胸が、じんと痛む。
──何もできなかった。
逃げることも、紛れることも、
全部、高成がしている。
自分は、後ろを歩いているだけ。
しょうがない。
自分はそんな修羅場を潜ってきたことなどないのだから。
しょうがないのだし、開き直ったところで文句を言われる筋合いもないはずだ。
なのに、袖の中で指が震える。
申し訳なさと、無力感が、同時に押し寄せた。
高成は、何も言わない。
ただ、少しだけ歩調を落とした。
それが余計に、胸に刺さった。
まいは俯き、唇を噛む。
──次は。次こそは、ちゃんと話さないと。
そう思いながら、もう一度、人の中を歩く。
その時だった。
──ぐぅぅうぅ……
「!!?」
音は、思ったよりはっきり鳴った。
一瞬、何が起きたのかわからず、次の瞬間、熱が一気に頬へ集まる。
まいは思わず立ち止まり、両手で腹を押さえた。
思えば、城でも、城を出てからも、ろくに食事を取っていない。
「す、すみません」
聞こえなかった、では済まない音だった。
恥ずかしい。
それ以上に、申し訳ない。
何もできないくせに、いっちょ前に腹だけは空かせて。
まいはきつく服を握ったが、高成は足を止めた。
「構わん。……そろそろ、食事を取るべきだな」
それだけ言って、周囲を一度見回す。
声の調子は変わらない。
責める気配も、からかう気配もない。
「本当に、すみません……」
まいは俯いたまま、もう一度小さく謝った。
自分の腹くらい、自分でどうにかしなければ。
でも、まいには手持ちがない。
高成はどうするつもりだろう。
食事の世話までしてくれるのだろうか。
おろおろと地面に視線をさまよわせていると、頭上から声が降ってきた。
「お前が行け」
「え……?」
高成はまいの手首を掴んだ。
そのまま、懐から出した銭を、まいの手に乗せる。
「干し物か、包んで持てるもの。
高くないのでいい」
それだけ。
命令のようでいて、逃げ道も与えられている言い方だった。
高成の目に感情は見えない。
自分に買わせる意図も、よくわからない。
だが、高成が初めて役割をくれた。
まいは目をぱちぱちと瞬かせながら、手に感じる銭の重みを確かめるように握った。
さっきの場面を見ても、このくらいはできると、高成は自分を見ている。
「……わかりました」
離された手を、胸の前で握り直す。
そして、ゆっくりと露店の方を見た。
さっき話しかけられて、何も言えなかった。
今度も、失敗するかもしれない。
それでも──
行かなければならなかった。
一歩、前に出る。
いくつかある店の中で、干し芋と焼き団子を並べた露店に足を止める。
「……あの」
声が、ちゃんと出た。
おじさんが顔を上げる。
「干し芋を、一つ……ください」
指さしだけで済ませず、逃げない。
ちゃんと言葉にする。
「はいよ」
包みを受け取り、銭を渡す。
指が触れないように気をつけながら、きちんと数を数えた。
それだけのことなのに、胸がいっぱいになる。
戻ると、高成は何も聞かなかった。
ただ、買ってきたものを受け取り、その半分をまいに差し出す。
「食え」
まいは、小さく返事をして受け取った。
噛むと、甘さが広がる。
それに、温かい。
お腹だけでなく、まいの中の何かも満たされるようだった。
まるでものすごく高価なものを食べる時みたいに、まいは噛みしめながら、ゆっくりと食べた。
一方、高成は早々に食べ終え、周囲の様子を見ている。
それに気づいて、まいは手元へ視線を落とした。
──この人は、別に食べなくてもよかったんだ。
それでも、食事を取ると言った。
自分を気遣って。
空腹だけではない。
何もできない無力感まで、汲んでくれたのだ。
胸の奥が、少しだけ温かくなる。
ほんの小さなこと。
でも、それで十分だった。




