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息を潜める夜





通りを進みながら、まいは高成の背中を見ていた。


歩き方は変わらない。

急がず、遅れず、人の流れに逆らわない。


けれど──

ただ歩いているわけではないのが分かった。


高成は、ときおり視線を動かす。

露店の並び。

通りの奥。

人が溜まる場所と、逆に人が避けている場所。


首を巡らせることはしない。

ほんのわずか、目だけを動かす。


まいには、何を見ているのか分からない。

それでも、無意味ではないことだけは伝わってくる。


角を曲がる前、高成は一瞬だけ歩調を緩めた。

人がぶつかりやすい場所だ。


まいは遅れないように足を運ぶ。


通りの向こうから、鎧のきしむ音がした。

心臓が跳ねる。


だが現れたのは、兵ではなく、荷を担いだ男だった。


高成は何の反応も見せない。


(何をしてるんだろう)


まいが考えるより先に、高成は進路を少しだけ変えた。

表通りから、半歩ずれた位置。


人は減るが、視線は集まりにくい。


高成は、ときおり立ち止まる。

理由は告げない。


まいも、聞かない。


聞いても、この人は明確には答えない。

それに、聞くべきではない気がした。


代わりに、まいは周囲を見る。


笑い声。

値を巡る言い争い。

怒鳴り声と、すぐに収まる気配。


日常の音だ。


高成の足取りは、少しずつ安定していく。


それが、判断が進んでいる合図なのだと、まいは思った。


たぶん、安全かどうかを感覚で量っている。


まいには真似できないやり方。


この背中について行けば、間違いない。

そう思わせるだけの確かさが、そこにはあった。


だから、まいは何も言わず、半歩後ろを歩き続けた。


この街が安全なのかどうか、まいには分からない。

けれど、高成はもう答えに近づいている気がした。






そうして、日差しが少しずつ横に流れ始めた頃。


通りに落ちる影が長くなり、人の動きも変わっていく。

昼の喧騒は薄れ、代わりに足早な気配が増えた。


通り過ぎる者。

泊まる者。

それぞれの行き先が、はっきりし始める刻。


まいは無意識に空を見上げ、すぐに視線を戻した。

変に目立つことはしたくない。


高成は、歩く速さをわずかに落とした。

露店の数が減り、通りの端に灯が入り始めた頃だった。


「今夜は泊まる。

二日いれば十分だ。それ以上は目につく」


まいにだけ聞こえる声量で、先の予定が告げられた。


宿屋の軒先。


いくつも並ぶ看板を、通り過ぎるだけで足は止めない。


人の出入り。

声の大きさ。

酒の匂い。


高成は、どれも一度は目に入れているはずなのに、選ぶそぶりを見せない。


まいは、口を開きかけてやめた。


(──今、聞くことじゃない)


高成は、通りを一本外れたところで足を止めた。

派手さのない宿だった。


看板は古く、明かりも控えめ。

だが、出入りする人間の顔はどれも疲れている。旅人の顔だ。


高成は一度だけ周囲を見回し、まいへ視線を落とす。


「今夜はここだ」


それだけ。


相談はない。

迷いもない。


まいは小さく頷いた。


宿の戸を開ける音が、やけに大きく聞こえる。


中から流れてくる、夕餉の匂い。

人の気配。

安心とは言えない、だが拒絶もされない空気。


外が暗くなれば、逃げ場は減る。

だからこそ、ここで一度、足を止める。


まいは背筋を伸ばし、手伝いの娘の顔を作った。


逃亡は、まだ終わっていない。

けれど、今夜は──ここで息を潜める。


宿の中は、外より少しだけ暗かった。


灯りは控えめで、床板の軋む音がよく響く。

鼻をくすぐるのは、夕餉の匂いと古い木の匂い。


帳場にいたのは、年配の女だった。

二人を見るなり、視線を一度、高成からまいへ移す。


「旅の方かい」


まいの喉が、きゅっと鳴る。


──話さなきゃ。


高成が口を開くより先に、勇気を振り絞って、まいは一歩前に出た。


「はい。山を越えてきました」


声は小さいが、震えなかった。


女は頷き、帳面をめくる。


「兄妹かい?」


一瞬、間が空いた。


まいは反射的に高成の方を見てしまう。

視線がぶつかる前に、すぐ正面へ戻した。


──違う、と言うべき?


視界の端で高成の表情を探る。


高成は何も言わない。

訂正しない、という選択なのだと分かった。


「はい、私は兄の手伝いで」


まいは、そう答えた。

女は納得したように、ふむ、と呟く。


「今日は部屋が埋まっててね。一部屋しか空いてないよ」


胸の奥が、きゅっと縮む。


一部屋。


さすがに気まずい。高成が断るかもしれない、と思った瞬間、


「構わない」


笠を取り、高成がまいの代わりに答えた。


その顔を見た瞬間、宿の女は一瞬、惚けたような顔をした。

だが、すぐに何事もなかったように帳面へ視線を落とす。


(目立つよね……)


びっくりするほど整った容貌。

平民に見えるよういくら小汚く偽装しても、それは隠しようがなかった。


(……私が、ちゃんとしないと)


この街に溶け込むなら、姿形は自分の方が適任だ。

次はもっと上手くやらなければと反省する。


女は鍵を取り出し、帳場に置いた。


「食事はどうする」


まいは一瞬、言葉に詰まりかけて、それでも答えた。


「……簡単なもので、お願いします」


女はちらりと高成を見る。


「兄さん、いいのかい」


「問題ない」


それだけ。


女は何も追及せず、代金を告げた。


まいは、事前に受け取っていた銭を数えて渡す。

指が、ちゃんと動いた。


女は銭を受け取り、鍵を差し出す。


「二階だよ」


階段を上りながら、まいは僅かな達成感に息を吐いた。


声を出せた。

答えられた。

逃げずに立っていられたと。




通された部屋は狭かった。

荷を置けば、ほとんど余白はない。


高成は、何も言わずに戸を閉める。


「……ごめんなさい」


達成感があったのは否定しないが、思わず、そう漏れた。結局1人では対応できなかったからだ。

高成の目は見れない。


「謝る必要はない」


その声音は、やはり淡々としていた。


「できていた」


続いた声も変わらない。それだけ言って、窓の外に視線を向ける。


まいは、ほっとため息をついて、頭巾を取る。

少しだけ、息がしやすくなった気がした。


まだ緊張は解けない。

同じ部屋で夜を越すことにも、不安はある。


それでも──


今日、二度目の小さな成功は確かにここにあって、それを認めてもらえたことが、ほんの少しだけ嬉しかった。


「…………」


会話を終えると、部屋は思った以上に静かになった。


外の物音は薄く、代わりに自分の呼吸がやけに大きく聞こえる。


狭い。

人が二人いるだけで、余白がなくなる広さ。


息を詰め、なんとなく身体を小さくしていると、ほどなくして食事が運ばれてきた。


盆の上に、湯気の立つ椀と粗末な煮物。

女中は手早く置き、何も言わずに出ていく。


布団は、一組だけ敷かれた。


それを見た瞬間、まいの胸が詰まる。


兄妹、ということになっている。

一部屋でいいと、こちらが言った。

不自然ではないはずだ。


それでも──落ち着かない。


食事は、無言で取った。

箸の音が、畳に吸い込まれる。


高成は静かに食べ、早々に箸を置く。

まいは急いで食べ過ぎないように気をつけながらも、自分の咀嚼音が大きくないか気になって、味がよく分からなかった。


片付けが終わり、灯りが落とされる。

闇が、ぐっと近づく。


敷かれた布団が、いやに存在感を強めた。


高成は眠るのだろうか。その場合、二人で並んで眠るのか。そもそも、自分は寝ていいのだろうか。


思考を巡らせていると、高成が何でもないことのように、その問いに終止符を打った。


「布団はお前が使え」


「え、でも……」


金を出したのは高成だ。

そこまで図々しくはなれない。


「私は別に……」


「…………」


断ろうとした。だが、有無を言わせない視線が向けられる。


まいはその圧に耐えかねて、しずしずと従うしかなかった。




薄い布団に座ると、思ったよりも畳の感触が伝わってくる。

横になれば、高成が体勢を直すわずかな振動が伝わり、余計に近くに気配を感じた。


狭い部屋だ。


息を吸う音も、

衣擦れも、

きっと聞こえる。


まいは、緊張で肩を強張らせた。


高成は、壁際に腰を下ろしたまま動かない。


「……寝ないんですか」


声は、思ったより小さくなった。


「私はいい」


短い答え。


まいは、布団の端を握る。


「でも……ずっと、起きてますよね」


高成は少しだけ間を置いた。


「ここでは、まだ休まない」


理由は言わない。

それでも意味は分かった。

ここも、完全に安全と判断しているわけではないのだろう。


「……少しは、休んでください」


言葉にすると、胸が詰まる。


大人しく寝かせてもらっている分際で、何を言っているのだろうと、呆れられるだろうか。


それに、高成の本心も知らないのに気遣うのを、危機感がないとか、平和ぼけしていると嗤われるだろうか。


高成はこちらを見ないから、その表情はわからない。


「お前が休めばいい」


短く、それだけだった。


拒絶でも、優しさでもない。

決めている、という声。


まいはそれ以上、何も言えなかった。


布団に横になる。

身体を丸め、なるべく小さくなる。


目を閉じても、眠気は来ない。


高成の気配が、そこにある。

動かない影のように。


──また、寝ずの番。


胸がきゅっと痛んだ。


自分は眠る。

この人は眠らない。


その差が、どうしようもなく申し訳なくて、

それでも、今は受け入れるしかなかった。


まいは、静かに息を整える。


外では、夜の音が続いている。


この部屋の中だけが、

張りつめたまま、夜を迎えていた。


布団に横になっても、眠気は来なかった。


畳の冷たさが背中に残り、

目を閉じるたびに、部屋の狭さを思い出す。


高成の気配が、すぐそこにある。


息遣いは聞こえない。

衣擦れの音もしない。


それが余計に、意識を引き寄せた。


胸の奥がざわつく。


いつまで、そうしているのか。

この夜だけなのか。

それとも──。


まいは、思わず口を開きかけた。


それは吐息にすらならなかったが、

闇の向こうから、低い声が返る。


「眠れないか」


問い返されただけなのに、

胸がきゅっと縮む。


「はい」


それだけ。

それ以上の言葉を、高成は多分求めていない。


それでも、言葉が喉に引っかかる。


──いつまで、寝ないつもりなんですか。


そこまで浮かんで、止まる。


聞いてはいけない気がした。

答えをもらっても、受け取れない気がしたから。


「寝れなくても、目を閉じていろ」


「……」


続けられた言葉に、まいは何も言えなくなる。


沈黙が、部屋に落ちる。


高成は、それ以上何も言わない。

ただ、そこにいる。


闇の中で、動かない気配だけが続く。


まいは、布団の中で身を縮めた。


言われたように、眠れないまま、それでも目を閉じる。


この沈黙が、声にならない問への答えなのだと、なぜか思えた。







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