追う者と紛れる者
弥助は村外れで足を止めた。
踏み固められた道は、二つに分かれている。
東へ向かう道と、南へ下る道。
どちらも、幾度となく通ったことのある道だった。
南雲の兵が村に入ったのは、つい今朝のことだ。
まいが姿を消したのは、それより前。
おそらく、痕跡が残っていないのだろう。
だから村へ来た。
弥助もまた、行く道を迷う。
東の道を見る。
敵国に近く、関所も多い。
戦の噂が絶えぬ土地。
まず、女一人で抜ける道ではない。
考えるまでもなかった。
弥助自身も、東へ入ることを避けて生きてきた。
命が安い土地だと知っている。
視線を南へ移す。
人が多く、道も複雑だ。
いくつかの寒村の先に、商家や宿場の集まる街がある。
南雲と他国との領境も曖昧で、商人や旅人の行き来も多い──身を隠す場所はある。
だが、その分、目立ちやすい。
どの道も、女一人で選ぶには危うい道だった。
弥助は短気な面があるが、浅慮ではない。
急いではいる。
だが、考えなしではまいを追えない。
考えた末、ひとつの想定が浮かぶ。
──もしかしたら、まいは一人ではないかもしれない。
そう思ったところで、甲冑を纏った人の足音が近づいた。
弥助は咄嗟に茂みに身を寄せ、腰を落として息を潜めた。
通り過ぎるのは、南雲の兵だった。
二人。
気を抜いた声が、わずかに聞こえる。
「村の方はハズレだったな」
「女一人の逃げ方じゃねぇ」
どうやら、まいの話をしているらしい。
弥助は、さらに注意深く耳を傾けた。
「おい、お前、噂知らねぇのか? 女を連れ出したの、あの方だって……」
「あの方?」
「……ここじゃ名前は出せねぇ。極秘事項なんだろうさ」
短いやり取りだった。
それ以上の話はなく、兵はそのまま南へ進んでいく。
弥助は動かなかった。
今の言葉を、頭の中で反芻する。
女一人ではない。
それなりの身分があり、
かつ、おそらく土地勘のある者が付いている。
道中で見た兵の動きも、闇雲ではなかった。
数を絞り、行き先を定めている。
──南だな。
弥助はそう結論づける。
生き延びるなら、東ではない。
人に紛れられる南だ。
それに、誰かが付いているなら、なおさら。
弥助は南へ続く道に足を向けた。
急がない。
騒がない。
追いかけるのではなく、辿る。
残された噂を聞き、確かめながら進む。
生きていれば、必ず行き着く。
そう信じて、弥助は静かに歩き出した。
***
同時刻、まいと高成は小屋を出て、南方へと出立していた。
小屋を出た時には、すでに日が高かった。
夜の名残はもうなく、山の空気は乾いている。
昼の光は隠れる影を少なくする代わりに、平坦ではない、障害の多い足元を明るく照らしてくれていた。
高成は馬の手綱を取り、何事もなかったように歩いている。
その背中を、まいは少し距離を置いて追っていた。
しばらく無言で歩いたのち、まいは口を開く。
「あの……」
「なんだ」
言葉は冷たい。
けれど、それが拒絶ではないことを、まいはもう知っていた。
「東の川で、私たちが死んだように見せかけてましたよね」
高成は歩みを止めないまま、まいを一瞥した。
「それでも、まだ追っ手はかけられているのでしょうか?」
少し間があった。
高成は前を見たまま答える。
「どうせ、完全には信じていない」
まいは、握っていた袖に力を込める。
「じゃあ、あれは……」
「時間稼ぎだ」
まいはよく分からず、高成の次の言葉を待った。
それを察したのか、高成は短いため息ののち、端的に説明した。
「あそこで痕跡が途切れれば、兵は迷う。東を探すか、南を見るか。全力では動けなくなる。それだけで十分だ」
「なるほど……」
まいはしばらく何も言えなかった。
少ない言葉の中に、この人がどれほどの場数を踏んできたのかを思い知らされる。
すごい……と、子供みたいな感想が胸に浮かぶ。
説明には納得した。
だが、不安が消えたわけではない。
今の自分たちは、一見すれば逃げている二人ではない。
行商に雇われた護衛と、荷運びを手伝う娘。
山を越え、行商に同行する途中で、これから南の街へ入る──そういう体でいる。
そう思うだけで、背中が強張る。
着ているものは地味だ。
色も形も、どこにでもある。
それでも、視線を集めないとは限らない。
まいは顔を伏せ、歩幅を高成に合わせた。
「不用意に足を止めるなよ」
前を向いたまま、高成が言った。
声は低く、昼の音に紛れてしまいそうなほど小さい。
だが、まいにははっきり届いた。
高成は振り返らない。
それが、今の役割なのだと分かる。
護衛は、雇い主の娘の顔をいちいち確かめたりはしない。
道は次第に整い、踏み固められていく。
森の匂いが薄れ、人の気配が混じり始めた。
遠くで、話し声がする。
荷車の軋む音。
金属が触れ合う乾いた響き。
街が近い。
「……」
胸の奥が、わずかに騒いだ。
高成の背中は変わらない。
歩き方も、速さも。
夜に動く者ほど疑われる。
高成は、昼に紛れる方が生き残ると知っている。
その経験が、今、自分の命を支えている。
街へ入れば、人に紛れる。
過去も名前も伏せる。
まいは、ぎゅっと袖を握りしめた。
まずは、南方の街に入り込む。
それだけを考えて歩く。
逃亡は、まだ終わっていない。
生きる場所は、前にしかなかった。
***
山道が、ゆるやかにほどけていった。
踏み跡ははっきりとし、足元の石も減っていく。
代わりに、乾いた土の匂いと、かすかな煙の匂いが混じり始めた。
人の暮らしの匂いだ。
まいは、思わず息を整えた。
山の静けさとは違う。
ここから先は、ただ歩けばいいわけではない。
高成は一度だけ足を止め、周囲を見回す。
「ここからは、あまり視線を動かしすぎるな」
低い声で、それだけ言った。
まいは他の村へ来るのも初めてだった。
無駄にきょろきょろと見ていたのが、どうやらばれていたらしい。
頷き、視線を落とす。
草の間から、屋根の端が見えた。
瓦でも板でもない、粗末な家並み。
里だ。
遠くで、子どもの声がした。
鍬が土を打つ音。
荷を引く足音。
胸の奥が、きゅっと縮む。
自分も村という群れに属していたのに、
人の中へ戻ることが、こんなにも怖い。
高成は、もう護衛の顔をしていた。
背筋を伸ばし、歩幅を一定に保つ。
まいは、その半歩後ろに続く。
護衛の手伝いをする娘。
名も事情も、どこにでもある存在。
そう自分にも思い込ませながら、まいは歩いた。




