始まりの日
弥助はひとり、昔のことを思い出していた。
弥助が九つ、夏の終わりだった。
村に、新しい子供が来た。
畑の手伝いを終え、川で手を洗っていると、村の大人たちが妙に声を落として話しているのが聞こえた。
──戦で、親を亡くした子だそうだ。
──どこの生まれかはわからんらしいが、山道んとこの家が引き取ったんだと。
興味本位でその家に近づいた弥助は、土間に座るその子を見て、足を止めた。
少女は七つほど。
汚れた着物を着ているのに、背筋だけは不自然なほどまっすぐだった。髪は黒く艶やかで、透けるほど白い肌。
だが──目が、何も映していなかった。
それが不気味で、同時に気に食わなかった。
弥助はなんとなく、その頭を小突いてみた。
「おい、お前」
しかし、少女は何の反応も示さない。
その後も、声をかけ続け、肩を揺すってみた。
それでも、泣きもしなければ、怯えもしない。
まるで、ここに“いない”みたいだった。
「お前……喋れないのか?」
弥助の問いに、少女はただ瞬きをしただけだった。
それから何日か、弥助は用もないのにその家の前を通った。
母親に叱られながら握り飯を持って行ったり、木の実を置いていったりした。
貰われ先でまいと名付けられた少女は、礼も言わなかった。
食べもしなければ、視線も合わない。
ある日、弥助は腹が立って言った。
「……いらないなら、もう持ってこないぞ」
それでも返事はなかった。
ただ、弥助が帰ろうとした時──
小さな指が、弥助の袖を掴んだ。
力は弱く、すぐに離れた。
だが、確かに“拒まれなかった”。
弥助は何も言えなくなった。
そして──その日を境に、弥助はまいの手を引いて外へ連れ出した。
川で石を投げる遊びを教えた。
畑の隅で、こっそり虫を捕まえた。
夕方、月の浮かぶ空を、同じ方向を向いて座った。
まいはほとんど喋らなかったが、
弥助の話は黙って聞いていた。
弥助は何故かそれが嬉しくて、村の子供たちと遊ぶよりも心が落ち着いた。
ある日、弥助が転んで膝を擦りむいた。
泣くほど痛くはなかったが、血が滲んだ。
すると、まいが初めて動いた。
何も言わず、一瞬ためらう素振りを見せたあと、それでも自分の着物の袖を伸ばして押し当てたのだ。
弥助は呆然としつつも、短く礼を言った。
「……ありがと」
その時、まいはほんの一瞬だけ──
困ったような顔で頷いた。
それが、弥助とまいの「初めての会話」だった。
その日以降、弥助は布団の中でなかなか眠れなかった。
目を閉じると、あの無表情な顔と、袖を掴んだ指が浮かぶ。
(あいつ、帰る場所がないんだ)
あの無表情、無反応の理由は分からない。
だが、自分と同じ村にいながら、どこにも属していないのだと感じた。
弥助は、小さな拳を握った。
(俺が守る)
誰に言うでもなく、心の中で誓った。
(この村にいる間は。大人になるまで。いや……一生だ)
子供の誓いだった。
軽くて、無鉄砲で、根拠なんて何もない。
けれど──その誓いは、
十年間、弥助の中で一度も消えることはなかった。
だから弥助は、理由を問われても答えられない。
まいが“何者か”など、知らない。
ただ、守ると決めた日だけは、忘れたことがなかった。
侍たちが去ったあとの村は、妙に音がなかった。
壊れた戸板が風に鳴ることもなく、土間に落ちた血の匂いだけがいつまでも残っている。
弥助はまいの父を座敷に寝かせ、濡らした布で額を拭いた。
拳で殴られた頬は腫れ、唇の端が切れている。
それでもまいの父は、歯を食いしばり、声を上げなかった。
「……すまん」
掠れた声で、父が言った。
謝る理由がどこにあるのか、弥助には分からなかった。
「お前を、危険に晒した」
弥助の手が止まる。
「気にすんなよ。俺が勝手にやったことだ」
それに、謝らなければならないのは、自分も同じだ。今日だけの話ではない。
あの日そばにいたのに、あの男に手も足も出なかった。
その悔しさは、ずっと胸に燻ったままだ。
だから、決めたことがある。
しばらく黙ってから、弥助ははっきりと言った。
「おじさん。俺は、今夜にもまいを探しに行くよ」
父は目を見開き、すぐに首を振った。
「やめろ。お前が行ってどうなる」
「分かってる」
父の制止に被せるように、言い切る。
弥助の声は揺れなかった。
見つかる手立てなどないし、下手を打てば死ぬ。
そう、まいの父は言いたいのだと理解している。
「分かってるけど……行かない理由がない」
「弥助。お前にはわしらだけじゃない。お袋さんに、兄弟だっているんだぞ」
心配をかけるな。
同じ親として、その言葉はもっともだった。
弥助も、家族を思えば迷わないわけではない。
だが、今回の一件で悟ってしまったのだ。
自分はもう、この村に留まれないことを。
「それでも。今ここで行かないと、きっと俺は後悔する」
見て見ぬふり。知らぬふり。
気に食わないことがあっても、波風を立てずに、何もしない、やらない。
それは悪いことじゃない。
村で生きていく上で、必要なことだと理解している。
だが、そうすれば、自分で自分を許せなくなるだろう。
父は何か言いかけて、飲み込んだ。
弥助の意思が固く、これ以上制止する言葉が浮かばないようだった。
長い葛藤だった。
まいの父はしばらく天井を見つめていた。
やがて、低く息を吐く。
「……わしは、ここを離れられん」
「…………」
「足も、もう動かんだろう」
それを弥助は否定しなかった。
まいの父は、今日殴られたから動けないわけではない。前々から、徐々に足腰が弱ってきていた。
「でも、あの子には──」
父の声が、かすかに震える。
「まいには、生きててほしい」
再び沈黙が落ちた。
弥助は布を畳み、深く頭を下げる。
「一緒に帰ってくるよ…………必ず」
まいの父の目が見開かれ、やがて奥歯を噛み締めながら、ゆっくりと閉じられた。
そして、動きの悪い己の足を拳で押さえながら、力を振り絞るように言った。
「いや、もう──帰ってこなくていい」
弥助は顔を上げる。
まいの父の、涙を湛えた熱い瞳が、まっすぐ己を見ていた。
「村のことも、言わんでいい」
「……」
「わしのことも伝えなくていい。」
まいの父……伊作の目から、一筋の涙が落ちた。
「ただ──元気で生きろと、そう伝えてくれ」
その言葉は、まるで別れのようだった。
弥助はおそらくこれが、この人との最後の会話になるのだと、直感した。
「…………」
胸の苦しさを堪える。
伊作も、まいを探しに行きたいだろう。
唯一の家族、娘の無事を確かめ、抱きしめたいだろうに、自分が泣くわけにはいかないと思った。
弥助は拳を握りしめ、深く頷いた。
「ああ─────必ず、伝える」
***
その日の昼過ぎには、弥助は最低限の荷だけを背負っていた。
まいの家の前に立ち、最後に一度だけ振り返る。
伊作はじっとその姿を見ていた。
止める言葉は、もうなかった。
(頼むぞ)
声には出さない。
だが、その瞳がそう訴えていた。
弥助はその思いが通じたように、静かに頭を下げた。
弥助が道の先に小さくなると、伊作はそっと目を閉じた。
旅立つ青年の背が、まぶたの裏へと消える。
伊作は──あの日のことを、思い出していた。
妻と娘を流行病で亡くし、独り寂しく暮らしていた夏。
それは突然、現れた。
寝支度をしていると、家の裏手で物が倒れる音がした。
何事かと、重い腰を上げて様子を見に行った。
そこにいたのは、
血と煤にまみれた、ちょうど今の弥助と同じ年頃の青年と、その腕に抱かれていた、小さな娘。
その娘も汚れに塗れ、呼吸もか細かった。
だが、それでも──しっかりと青年の着物を掴んでいた。
「この子を、匿ってほしい」
青年はそう言って、無理やり娘の手を離すと、有無も言わせずに自分へ託してきた。
遠くから蹄の音が聞こえ、青年の表情が張り詰める。
その姿や所作から、青年が只者ではないことは伊作にも分かった。
面倒事に巻き込まれるのはごめんだ。
……そんな思いがなかったといえば嘘になる。
しかし、
娘は泣かなかった。
ただ、青年を見つめたまま、唇を固く結んでいた。
(強い子だ)
その時、確かにそう思った。
そう思った時には、目の前の青年は、名も素性も語らぬまま足早に去っていった。
腕の中の娘を覗き込む。
相当酷い目にあったはずだ。
それなのに、急に見ず知らずの男に預けられ、怖いだろう。青年と離れたくはなかっただろう。
それでも、震えながら、生きようとする目をしていた。
「……大きくなったな、まい」
伊作は、ゆっくりと息を吐く。
もう、自分の手は届かない。
だが、守る心は、確かに引き継がれた。
(この村には、もう戻らなくていい)
自分のもとでの暮らしは、決して手放しに幸せだったとは言えなかっただろう。
よそ者に村は冷たい。
ましてや、見た目が平凡ではないのならなおさらだ。
自分が守るにも限界があった。
だが、まいは、この村で生き抜いてきた。
徐々に取り戻した表情を失うことなく、控えめながらも日々笑って生きていた。
(だから、振り返るな)
まいが生きられる場所は、ここだけではない。
この村だけが、唯一の世界ではないはずだ。
「お前なら、大丈夫だ」
そう思えたことが、何よりの誇りだった。




