崩れる日常
生きるほどに失ってきた。
名前も、居場所も、過去さえも。
それでも、歩みだけは止められなかった。
──お前は、何を選んだ。
この旅の先で、自分は何を思うのだろう。
──時同じくして、所はまいがこれまで暮らしてきた村へ移る。
朝霧の残る比良野の村に、異物が踏み込んだ。
鎧の軋む音。
馬のいななき。
乾いた命令の声。
南雲家の侍たちが、村へ雪崩れ込むように入ってきたのだ。
「赤髪の娘を見た者はいないか!」
「南雲の城から逃げた女だ」
「匿えば、村ごと処罰する!!」
鋭い声が飛ぶたび、農民たちは肩をすくめ、目を伏せた。
畑は踏み荒らされた。
霜の降りた田の刈り株が踏み砕かれ、泥が跳ねる。
家々の戸は乱暴に開けられ、鍋や蓑が蹴り倒されていった。
「……あの娘だ!」
「だから言ったんだ、関わるなって……っ」
「厄介事を連れてきやがって……!」
ひそひそと、毒のような言葉が広がっていく。
前々から、まいの名は“災いを呼ぶもの”として囁かれていた。
彼女が攫われた翌日には、噂は村中へ広がっていた。
誰も見ていないようで、どこに目があるかわからない。
村とは、そういう閉ざされた場所だった。
やがて、侍の一人が声を上げた。
「あの家だ! 娘の父親が住んでいる」
その傍では、村人が侍を連れて、村外れにあるまいの家を指さしていた。
粗末な家の戸が蹴破られ、白髪混じりの男──まいの父が、腕を掴まれ外へ引きずり出される。
「待ってください……! 娘は……娘は……」
言葉は震え、膝が地につく。
「知らぬはずがなかろう! 娘はどこだ」
「城へ連れ戻せば、お前の命は助かるかもしれんぞ」
父の頬へ、容赦なく侍の手が飛ぶ。
乾いた音が村に響いた。
それを見た農民たちは誰一人、声を上げなかった。
むしろ、苛立ちすら滲ませる。
「お侍様に逆らうんじゃねぇ!」
「さっさと連れ戻されりゃいいんだ」
「これ以上、村に迷惑をかけるな……!」
父は俯いたまま、何も言えなかった。
知らぬものを話せるわけもなく、ましてや、うまい嘘など思いつかない。
黙りこくる父に苛立った侍は、さらにその腹へ拳を叩き込んだ。
「吐け! 隠したところで、お前たちの逃げ場などないのだぞ!」
ここ数日、まともな食事を取っていない。
ほとんど水のような胃液が口から吹き出し、たまらず地面に転がる。
すると、次は足が飛んできた。
(殴られて済むなら、安いものだ)
痛みに耐えながらも、娘が生きて城を抜け出したという事実に、父の胸は安堵していた。
(決して言うものか)
容赦なく侍たちの暴行は続く。
それでも、まいの父は口を割る気はなかった。
父は理解している。
生きて逃げた娘が、これからもっと過酷な道を行くことを。
ならば余計に、自分が足枷になってはいけない。
小屋の壁に砕ける木の音が響き、かすかな風に父の呻きが混じる。
苛立ちと恐怖、わずかな哀れみが入り混じった視線が集まる中、父はただ力なく俯き、痛みに耐えるしかなかった。
そこへ、駆け寄る足音がした。
「どけ! お前ら邪魔だ!!」
喉を引き裂くような叫びが、村の空気を震わせた。
一瞬、誰の声か分からなかった。
次の瞬間、人垣が乱れ、弥助が鍬を持ったまま、転ぶように飛び出してくる。
娘が消えた日、意識を失ったまま──
まいを追うことすらできなかった、家族同然の娘の幼なじみ。
村人に「これ以上、事を荒立てるな」と止められ、歯を食いしばって留まった、村でいちばん優しい青年。
その弥助が、今は侍の前に立っていた。
手にしていた鍬が地面に落ちる。
乾いた音が、不自然なほど大きく響いた。
「それ以上はやめろ!」
弥助は、まいの父を背に庇い、侍の前に立ちはだかった。
***
──斬られる。
弥助は、頭のどこかで、はっきりとそう思った。
南雲の侍に刃を向けられれば、農民の命など塵同然だ。
わかっていて、それでも足は止まらなかった。
無意識に腕を広げる。
「この人は……何も知らない!」
声が震えそうになるのを、奥歯を噛み締めて押さえ込む。
「まいは……あいつは、村には戻ってきていない!」
侍が、ゆっくりと眉をひそめた。
「貴様は何者だ」
冷え切った声だった。
刀の柄に置かれた指が、わずかに動く。
弥助の背中を、冷たい汗が伝う。
果たして、まいと自分の関係は何なのだろうか。
はっきりとした定義を与えたことはない。
だが、大切な存在であることに変わりはない。
「幼なじみだ」
一拍、息を整える。
「……家族同然だ」
それ以上は言わなかった。
しっくりくる言葉ではなかったが、それを目の前の侍たちに言ったところで、どうにもならない。
むしろ、弱みになるような気がした。
弥助はそれを隠すように、侍をまっすぐ見据えた。
「だからこそ言う!」
腹の底から声を張り上げる。
「あいつは、この村に、家族以外の居場所がなかった!」
ざわり、と人々が動いた。
誰かが唇を噛み、誰かが目を逸らす。
まいが物心つくより前から、まいを迫害してきた村だ。
自覚がないわけではなかったらしい。
弥助はぎりりと奥歯を噛み締める。
「親の元にすら、戻ってきていない!
……戻れる、わけがねぇ……っ」
苛立ち。
それは侍ではなく、村人に向けた言葉だった。
弥助はさらに一歩進み、侍との距離を詰めた。
まいの父を庇い、線を引くように。
(ここから先は、俺が立つ)
背後で、まいの父が息を呑む気配がした。
弥助の中で、葛藤が渦を巻く。
──この村を敵に回すのか。
──それとも、黙るのか。
答えは一つしかなかった。
背中越しに、視線を感じる。
──やめろ。
声にならない制止。
弥助は父を見てから、ゆっくりと目を伏せた。
(俺は、俺だけは、この人たちの味方でいたい)
弥助は、もう一歩も引かなかった。
「探しても無駄だ」
喉が張りつく。
だが、言葉を切らさなかった。
「あいつは……比良野にはいない」
沈黙が落ちた。
風の音だけが、踏み荒らされた土を撫でていく。
侍の刀が鳴る。
弥助の背中を冷たいものが伝ったが、決して足を動かすことはなかった。
侍はしばらく弥助を見下ろしていたが、やがて小さく舌打ちし、柄にかけた手を下ろした。
「……ふん」
興味を失ったように視線を外す。
「村ごと処分するほどの価値はないか」
そう吐き捨て、部下に合図を送る。
「引き揚げろ」
そして再び、まいの父と弥助、そして村人たちへ視線を向けた。
「覚えておけ。もし娘を匿ったと分かれば、次はないぞ」
侍たちは背を向け、荒らすだけ荒らして去っていく。
「ああ、肝に銘じとくよ」
足が、今さらのように震え出す。
けれど、後ろを振り返ることはしなかった。
弥助は背を向ける彼らを見送りながら、初めて気づいた。
(……次がないとしたら、俺の方かもしれない)
その言葉を、声にはしなかった。
まいの父も何も言わない。
地面に座り込んだ父の肩を支えながら、弥助は周りを囲む村人たちを見据える。
誰も謝らなかった。
誰も、庇わなかった。
気まずそうに逸らされる視線。
それを見て弥助は、はっきりと悟った。
(戻れないのは、多分まいよりも……俺の方だ)
ここは、もう居場所ではない。
まいにとって。
そして─────自分にとっても。




