きれいすぎるメロディの向こう側(日向幸子)
ミュージシャン:幸子の恋愛模様
一月の冷たい空気が、肺の奥まで澄んでいる。
日向幸子は、日進市にある川沿いのランニングコースを一定のリズムで走っていた。耳元では何も鳴っていない。ただ、自分の呼吸と足音だけ。
――最近、音が濁っている。
そう感じ始めたのは、先月のライブが終わった頃だった。キーボード奏者として活動しているバンドは、地元ではそこそこ名前も知られてきた。けれど、新曲の制作は思うように進まない。メロディを作っても、どこか借り物のように感じる。感情が、鍵盤に乗らない。
立ち止まり、川面を見る。冬の水は静かに流れている。
「……なんで、こんなに焦ってるんだろ」
自分に問いかけたその時、背後から声がした。
「日向? ……日向幸子?」
振り向くと、そこには見覚えのある顔があった。
「……村瀬?」
村瀬友則。高校の同級生だった。少しだけ背が伸びたように見える。スーツ姿で、手には営業鞄。けれど、笑い方は昔と変わらない。
「うわ、やっぱり日向だ。久しぶり。元気?」
「うん……村瀬こそ。日進にいるの?」
「転勤で去年神奈川から戻ってきた。会社で営業やってる」
懐かしさが、胸の奥をふわりと揺らす。高校時代、村瀬は軽音楽部でギターを弾き、オリジナル曲まで作っていた。文化祭で彼が歌ったバラードを、幸子は今でも覚えている。少し不器用で、でも真っ直ぐな曲だった。
「日向は? 音楽、続けてるんだよな?」
「うん。キーボードで、バンドやってる」
「SNSでいつも見てるよ。いいね、もしてる」
「そっか、ありがと」
そう言って、少し照れたように笑う。村瀬が返してくれた笑顔で胸の奥がかすかに温かくなった。
――見ていてくれた人がいる。
それから何度か、幸子はランニング中に村瀬と顔を合わせるようになった。偶然なのか、時間を合わせているのかは分からない。でも、並んで歩く時間が増えていった。
ある日、幸子はぽつりと本音を漏らした。
「ねえ、村瀬。曲ってさ……どうやって作ってた?」
村瀬は少し驚いた顔をしたが、すぐに視線を川へ向けた。
「俺の場合は……好きな景色とか、誰かの顔とか。そういうの思い浮かべて、そこに流れる音を探す感じだったかな」
「理論とかじゃなくて?」
「もちろんコードは考えるけど、最初は感情かな。うまくやろうとすると、逆に止まるんだよな」
その言葉は、幸子の胸に静かに落ちた。うまくやろうとしていた。評価される曲を、バンドの未来につながる曲を、“ちゃんとした”曲を。そう思うたび、音はどこかで息をひそめていた。
「日向、昔から完璧主義だったよな」
「そうかな?」
「うん。体育祭の応援団も、泣きそうな顔で最後まで仕切ってた」
思わず笑ってしまう。そんな自分を、ちゃんと覚えている人がいる。
「……今度、もしよかったらさ」
幸子は迷いながら口を開いた。
「デモ、聴いてくれない? アドバイスっていうより、正直な感想を聞きたい」
まっすぐだった“軽音の村瀬”を思い出した。好きで音楽と向き合っていたあの時を思い出したかった。
数日後、日進駅近くの小さなカフェで、幸子は村瀬と一緒にノートパソコンを開いた。流れる未完成の曲。村瀬は目を閉じて聴いている。やがて静かに言った。
「綺麗だと思う。でも……」
「でも?」
「日向の音、もっと強いはず」
胸が、どきりとした。
「高校の時さ、ピアノ弾いてくれたことあったろ? あの時の音、もっと荒くて、でも真っ直ぐだった」
忘れていた記憶が、ふっと蘇る。好きだから弾いていた。評価なんて考えていなかった。
「今の曲、ちょっと優等生すぎる気がする」
核心だった。悔しいのに、なぜか嬉しい。分かってくれる人がいる。
その夜、幸子は久しぶりにキーボードに向かって泣いた。焦りも、不安も、羨望も、全部そのまま指に乗せる。整えず、削らず、隠さずに。不格好でもいい。かっこ悪くてもいい。ただ、自分の音であれば。
翌週、完成した新曲を村瀬に聴かせる。イントロが鳴った瞬間、村瀬の表情が変わった。
「……うん、日向の音だよ」
短い一言。けれど、それだけで十分だった。この日、完成した曲をライブで聴いてほしい――そう約束した。
――ライブ当日。
ステージのライトがまぶしい。客席の中に、スーツ姿の村瀬が見える。
演奏が始まる。指が鍵盤を叩くたび、川沿いの冬の空気や、並んで歩いた時間が胸をよぎる。曲のラスト、最後の和音を鳴らした瞬間、会場が静まり、やがて拍手が広がった。胸がいっぱいになる。
ライブ後、外に出ると冷たい夜風が吹いていた。
「曲、よかった。日向の音が戻ってたよ」
村瀬が言う。
「……ありがとう」
もし今日、村瀬が「よかった」と言わなかったら。きっとまた、自分を疑っていた。
――しばらく沈黙が続く。幸子は深呼吸をした。
「ねえ、村瀬。私さ……」
「ん?」
息が白くほどける。
「ちょっとだけ、怖かった」
「何が?」
「音がなくなるんじゃないかって」
言葉にした途端、自分の弱さが冬の空気に溶けていく。村瀬はすぐには答えなかった。
「なくならないだろ。日向の中にあるんだから」
簡単な言葉なのに、まっすぐだった。
「村瀬のおかげで大切なことを思い出せた気がする。技術は昔より上がったけど、その分、悩み過ぎてたのかもしれない」
「うん」
「村瀬のおかげで、ちょっと見える景色が変わったかも」
彼は首を横に振る。
「俺はきっかけだろ。曲を完成させたのは日向だ」
その言葉が、胸に優しく響く。
――この人といると、自分をちゃんと見てもらえている気がする。
川沿いを歩く。冬の空に星が瞬いている。
「今度さ、一緒に走ろうよ」
村瀬に言う。
「俺もランニングウェアで?」
「うん、気持ちいいよ。それに村瀬、ちょっとお腹も出てきてるし」
幸子が村瀬の腹回りに手を近づける。
「ばかっ、触るなって! 気にしてるんだから!」
ふたりで笑い合う。こんなふうに楽しくじゃれ合うのはいつぶりだろう? 温かい時間が二人を包み込んだ。今夜はそれだけで十分だった。音を完成させてくれたことへの感謝――それだけで十分だった。
この感覚を恋だと確信するには、まだ早いかもしれない。けれど、音楽と同じだ。焦らなくていい。自然に、リズムが合えばいい。
――数日後のランニングロード。
二つの足音が、同じ速さで続いている。息が合う。歩幅が合う。音楽のように。焦らなくていい。整えなくていい。ただ、このリズムが続いていけばいい。――あの日、濁っていると感じた音は、今、ふたりの足元で澄んだリズムを刻んでいた。
- キャラクター プロフィール -
名前:日向幸子
職業:ミュージシャン(キーボード)
好きな事:ランニング
年齢:26
身長:157㎝(5'2")
体重:54㎏(119lb)
誕生日:1月14日
星座:山羊座
血液型:B型
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