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四章「神と騎士と人と」-①

「よっ。」


「...なんだ、先客がお前か...」



底知れぬ海原を照らす月明かりがひとつ。

照らされた月光に、映る影がふたつ。

傍らに座る少年に目を向けず、海を見ながら少女は呟く。



「リラ、相変わらず泣き虫だね。

久々に会ったのに変わんないんだ。」



「...お前こそ、変わんねぇな...」



アネモスだけに留まらず、他の多くの国でも神が国家の実権を握る場は少ない。

王都は事実上民主主義を主張した王政だが、その実貴族会による統治があるように...


アネモスにも所謂村長【ムラオサ】という役目は存在している。



ユノ・ピテル。

アネモスの村長サトゥル・ピテルの一人娘にして、リラの初恋の相手...

同い年だが、ややリラより背が高く大人びた顔立ちが目立つ。

うなじを隠す程度の黒髪は、月の銀光に照らされ粒立った淡い光を放っている...


当時、まだリラが幼かった頃からトレーネやニンリルとも親交があり、村でも数少ない父ウノスを慕っていた人物でもある。



「今日は...

というか日付回ったから昨日か...

リラが帰ってくるって聞いて、何となく此処が懐かしくなって...」



無我夢中で走ってきたが、気づけばウノスの墓まで走ってきていたらしい。

此処が村で一番見晴らしがいいと、ニンリルが選んでくれた場所...



ユノの隣に腰を下ろす。

少し息を整えながら、潮風に身体を預ける。



「どう、王都での生活は慣れた?」


「ぼちぼち...

ニンリル以外の聖神騎が担任で、今の俺の任意補佐【バディ】で...

学園のヤツらは話を聞かない奴らばっかだな。」



他愛のない話だった────



「お前がワンピース着てるの珍しいな。

それに、髪もちょっと伸びたか...」


「うん...」



幼い頃とは変わった自分たち────



「リラが当番なら、私も食べに行けばよかったな。」


「なんだ、金取るぞ?」



それでも笑い合える大切な時間だった────



「リラはさ、この村...

好き...?」



「...嫌いだね...

トレーネやニンリル...

それにお前が居なきゃ、とっくにこんなところ見限ってる。

きっと一人だったら、色んな国を旅して回って...

なんかしら好きなことやってるさ。」



チクリと、針のような鋭い痛みが胸を指す。

思えば、しがらみも何もない世界なら...

リラはきっと、自由に空を飛ぶ鳥のような人だったろうと思う...



「ねぇ、ちょっと泳がない?

今なんだか、心がとってもあつくって...」



一瞬、泣いたような笑みを浮かべたユノは、後ろ手にこちらに微笑み、海の波間に身を落とす。



「馬鹿ッ」



ほぼ同時に、リラも走り出す。

先程までの逃避で熱を上げていた身体は、唐突なユノの身投げにより一気に血の気を引かせていく。



バンッ。

と身体を叩きつけられる感覚を覚えながら、紙一重でユノの身体と水面の狭間に身体を滑り込ませる。


飛沫を上げ、波紋を呼んだ水面には、月の乙女と見紛う程の...

美しい彼女の姿が静かに揺らめいていた...



┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈



「...なぁ、ユノ...

...お前、何かあったか...」



透けた衣服を隠すように、リラは上着を手渡す。



きっかけは些細なことだった。

年相応の言葉を使えないはずのトレーネの急な口調の変化。

自由奔放だが決して他人に弱みを見せないユノの無謀。



「トレーネも...お前も...」



「...」



ユノは何も言わない。


トレーネらしからぬ上品な言葉遣い...

漠然とした悪意...

勝手に抱かれた嫌悪...

明確な殺意...

心を守ろうとして起こしていた幼児退行が、突然それとは真逆の反応を示す違和感...


ユノらしからぬ振る舞い...

抑圧を跳ね除ける気骨...

無邪気、大胆、我武者羅に...

周囲を巻き込むカリスマとも異なる才能は影を潜め、向けられる度に熱を帯びたその笑顔は、深い水底に手を伸ばしたような鈍い冷たさを感じる...



「誰が、お前らをこんなふうにした。」



あぁ。

堰き止めていたものに、亀裂が走る音がする。

決壊寸前だった堰堤がたった一滴の雫で流れだすように...

自分は、既に限界だったことを自覚する。



「...リラが村を出てから...色々あった...」



ぽつぽつと、ユノは空白の一ヶ月を話し始める。

まるで懺悔するかのように...



「この村は、より一層トレーネを許さなかったの。」



リラという砦...

ニンリルという抑止力...

蘭風という絶対的な象徴...



抑圧されていた蓋を跳ね上げるように、表立っての虐めが横行するようになった。


漁師達の中には、日頃からリラに世話になっていたり、そもそも閉鎖的な村人が好かないという理由でトレーネを守ろうとする動きもあった。



「でもね、それだけじゃダメだった。」



守れる人間には限りがある。

いつどこから来るかも分からない暴言や暴力に脅えて過ごすなかで、彼女はついに笑えなくなった。



「私じゃ、守りきれなかった...」



嗚咽を堪えるように...

吐き出そうとしたものをもう一度呑み込むように...



「私じゃ、守りきれなかったんだ...」



大粒の涙を零しながら、声を押し殺すように泣いている...



「...最後の...引き金だったの...

私が...」



リラの袖をキュッと握る。

飛沫で濡れたその掌から、雨粒のように言の葉が落ちていく...



┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈



リラが帰ってくるおよそ半月ほど前...



家までの帰路でのことだった。

気分転換に、いつもと違う道を少しゆっくりと歩いたのが良くなかったのか...

村一番の大男からもう還暦も過ぎた年寄りまで...

数人に取り囲まれた。

為す術がなかった...



咽び泣くトレーネの肩を抱きながら、消え入りそうな意識に鞭を打ってようやく家路に着く。


シャワーを浴びながら、ゆっくりと股下を伝う感触に激しい吐き気を催したのを今でも覚えている。



それからだった。

トレーネの振る舞いが、まるで人が変わったかのように形を変えたのは...



「見て...リラ...」



おもむろに立ち上がり、白のヴェールに纏われた素肌を露わにする。



思わず目を覆いたくなる。



無数の小さな傷...

擦過傷、挫創の他に無数の切創も見受けられる...

それに、煙草を押し付けたような火傷も...



「...」



言葉はなかった。

苦悶を浮かべる少年の顔は、ただひたすらに突きつけられた無力と後悔を物語り...

決して逸らさないその眼だけが、ユノにとってのほんの少しの救いとなった...



「...私は、どうしようもなく無力だった...

でも、そんなことよりも...自分が許せなかった...」



トレーネの叫び声が脳裏に呼び起こされる。

そんな中で、自分が最初に思ったこと...



「...ごめんね、リラ...

私...穢されちゃった...」



笑ったような、泣いたような...

グチャグチャにかき混ぜられた心と身体の傷は、生涯消して消えることのない呪いとして、彼女を傷つけるのだろうか...



┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈



生きることに疲れたように意識を手放した彼女を腕に腕抱え、家へと送り届けたあと...


いつもの帰路がとても遠くに感じる錯覚を覚えた。



道を歩く足取りは重く...

吸い込む空気は底無しに生ぬるく...

ただ何度もあの日の...トレーネが大怪我をして帰ってきた日の光景が浮かんでは消え、消えては浮かぶ...



「朝帰りとは、感心しねぇな。」


「ニンリル...」



気づけば、見慣れた自宅を前にしていた。



海岸線に朝日が上り始めている。



朝焼けがこの無力な身を焼き焦がしてくれないか...

そんなありもしない幻想を抱きながら、それでも問うべきことがある。



「ユノと会った。」



「...」



表情は変わらない。

まるで街中で知らない人間とすれ違ったような反応...



「そうか、お嬢も綺麗になってただろ?」



言葉の片手間...

箱の下を軽く叩いて煙草を咥える。

慣れた手つきでオイルライターのヤスリに指を掛ける。



ジッ...



ジッ...



数度の小さな花火の末、淡い光を放ちながら小さな炎が揺らめき立つ。



「珍しく...動揺...してるな...」



「...なんの事だ...」



いつものニンリルなら、一発で火を灯していた。



「なんで、黙ってた。」



フー...


消え入りそうな小さな呼気とともに、ニンリルは呟く。



「...そうさな...どこから、話そうか...」



言い淀む。

まるで、リラの一挙手一投足に探りを入れるように。

普段は遠慮をしないニンリルの、明確にこちらに対して言葉を選ぶその態度が、決定打だった。



┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈



「行かせて、よかったの?」



リラが去った後。

蘭風はただニンリルの隣に座る。

まるで、試すように。



「落とし前は、私が付ける。

その代わり、ケジメはあいつに付けさせてやりたい。」



ただの我儘だ。

私には、ウノスさんのような強さは見せられない。

かと言って、マリアン様のような母性も持ち合わせていない。



「私は、あいつらの姉貴分でしかないから。

ただ、帰る場所でありたいんだ。」


「また、昔のようになるかもしれないわよ。」



蘭風の言葉にチクリと胸が痛む。

変わったといえば、リラの方だ。



トレーネが大怪我をしたあの時...



騎士としての綺麗事でリラを縛り付けた。

感情の発露を怒りでしか見いだせないのは愚かだと...

あろうことか、「翡翠の竜」が、弱さの中の強さを述べた。



「...貴方が何を考えているか、分からなくなってきたわ…」



...つくづく、神は故に神なのだと...



ニンリルは静かに目を伏せるのだった...

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