イレーネ、ルクスガルド辺境伯殿下と出会う。
イレーネはソファから立ち上がり、窓を開けて外を眺める。高台にある屋敷からは柵の向こうに広がる丘の先にラース領とルクスガルド領に連なる山脈が見えていた。
「殿下にお会いしたらイレとしてルクスガルドに居たことを話して、ライにお世話になった事も伝えて、……ライが元気かどうかぐらいは……聞いてもいいよね」
(ライへの想いは告げない方がいい。私はバルトウィン辺境伯殿下に嫁ぐのだから)
何度も何度も心に言い聞かせてきた。これでいいのだと、ライを含めたルクスガルドを守る為に。
頬を撫でる指を思い出しても。
髪を撫でる手を思い出しても。
偽ったまま戻ってきてしまって、でもこちらから手紙を出すことはできなくて、ルクスガルドから届くのは見たこともない婚約者からの手紙だけ。
堪えきれない夜に、ただ涙が溢れて。
イレーネの手の中にはライを思い出す物は何もなくて、髪を整えてくれた優しい感触だけが残って枕を叩いた。
「もう言えない、大好きだよ、を、言える時がきても、黙っていようね、イレーネ。そして毅然として殿下の手を取るの。微笑んで、いけるよね」
ぎゅっとドレスの前で組んだ手を握る。ライだけでなく、カイル、アーダルベルト、バルドル、ルクスガルドで出会った人々の顔を想い浮かべて、最後にテレサの怒った顔が出てきてしまって笑った。
「ふふっ、そうね、がんばるから、向こうにいったらテレサをびっくりさせるわ」
さすがのテレサも、イレが辺境伯夫人として嫁いでくるとは思わないだろう。
「だましたって怒られそうね。謝らなきゃ、テレサにも。みんなにも。……会いたいな」
すぐに心がルクスガルドへ飛んでしまいそうになる。再び向かう為に、大事な第一歩を歩く為に今日があるというのに。
「笑って挨拶しよう、少しでも良い印象をもってもらう為にも、ね」
侍女に呼ばれるまでいつまでも、イレーネは窓の外を眺めながらルクスガルドに想いをはせていた。
****
日が落ちてくると共に招待客が集まってきた。イレーネは大広間にてラース領領主である祖父マンセルと母サーネに連なり招待客を迎え入れていた。
招待客からデビュタントの言祝ぎを頂戴して、美しくカーテシーをする姿にお褒めの言葉を頂く。繰り返される同じような挨拶に飽きて素行を崩さないかとハラハラしていた母だったが、微笑みを崩さずに対応し続ける娘の姿にほっとした顔を見せていた。
社交の場では思ったことを顔に出してはいけませんっ、と口すっぱく言っている母がこの調子なので、もしかしたら自分は母似なのかもしれない、とイレーネは内心呆れながら粛々とあいさつをこなす。
ほとんどの招待客が入場したところで、母はソワソワとドアの方を気にしだした。
「遅いですわね」
「遠方からくるんだ、多少遅れても構わぬ。先の戦の後処理で前日入りができないといっていたからな」
「まぁ、お忙しいですわね」
二人の会話から待ち人がまだ到着していないのだとイレーネは少しだけ力を抜いた。
「姫さま、お水をどうぞー」
「ありがとう、丁度欲しかった所なの……って、ネイト⁈」
一介の厩務員がここに居ていいのか、と目で訴えるも、ネイトはにっこり笑って軽く頷くばかり。
「もうすぐ到着されますから、姫さまが倒れてしまっても大丈夫なように側にきましたー」
「何いってるの、どんな強面な人だとしても倒れるなんてしないわよ。大丈夫」
「まぁまぁ、姫さま見守り隊としてはこの歴史的な日を間近で見たいという自分の願望でしてー、あ、いらしゃいましたよ」
すっとネイトの気配が引いたと同時に従者の声が響く。
「アルタス国ルクスガルド辺境伯ラインハルト・フォン・バルトウィン殿下、並びにアーダルベルト・ドレスラー伯爵、ご到着!」
さっと背筋を伸ばし迎え入れようと、微笑みを作った所で息を呑んだ。
銀髪に湖のような淡い水色の瞳がこちらを見て目を細めている。同じ仕草をする人を、何度も想い浮かべてかき消した、のに。
固まってしまったイレーネを見て、申し訳なさそうに会釈をする辺境伯は、ラース領領主、マンセル・ラースに挨拶をする。
「遅くなり申し訳ありません。先の戦では軍を率いていらして下さり、望外の喜びでした。おかげを持って早期収束する事ができました。感謝申し上げます」
「なに、その前の時にはバルトウィン卿に出張って頂いたのだ。返礼は時間を置いても返すものと心得る。こたびは間に合ってよかった」
「早馬の伝令が駆けてくれましたので。ラース産の馬はどの馬も速いですね、素晴らしい脚です」
「馬好きの卿にそういって頂けると鼻が高いな」
握手をしながら彼の人の腕を叩き、祖父は嬉しそうだ。母、サーネにも丁寧な謝辞を述べて、辺境伯、ラインハルト・フォン・バルトウィンはイレーネの前に立つ。
「お初にお目にかかる、ラインハルト・フォン・バルトウィンと申します。どうぞ、ライとお呼びください」
「……イレーネ・ラ・ノルダンと申します。イレーネ・ラースと名乗るときもあります。どちらでもお好きなように呼んで頂ければ幸いです」
「ではイレーネ殿、と」
「はい」
イレーネは婚約者にお会いしたらこう言おうと思っていた台詞をそのまま告げた。今、微笑んでいるのだろうか、と意識して口角を上げる。ただ、心が追いつかない。
「どうだろう、バルトウィン卿、着いて早々だが今日はイレーネのデビュタントも兼ねておる。告知する事を周知する為にもパートナーとして孫とダンスを踊ってくれぬかの」
イレーネの様子を見た祖父が横から話しかけてきた。ラインハルトは光栄ですと微笑むとイレーネの前で跪き、右手を差し出した。
「慈悲深き若き人よ、あなたの初めてのダンスを踊る栄誉を私に授けて下さいませんか」
「……よろこんで」
差し出されて大きな手に、イレーネは僅かに震える手を添えた。
その手を見つめ、少し苦しげに目を細めたラインハルトは、すぐに微笑むと、ありがとう、と礼を述べて添えられた指先にそっと口付けた。そして震える手を軽く握って隣に並び立つ。
それを受けてラース領領主、マンセル・ラースが声を張った。
「今宵、お集まりの皆さまに申し上げる。こたび縁あってアルタス国ルクスガルド辺境伯であり、アルタス国第三王子であらせられる、ラインハルト・フォン・バルトウィン殿下と我が孫娘であるイレーネ・ラ・ノルダンが婚約を結ぶことに相成り申した。この良き日に皆さまと共に祝う事ができるのを僥倖とさせて頂きたい。今日の良き日に! 乾杯!」
口々に乾杯と言祝ぎが飛び交う中、イレーネはラインハルトと共に深くカーテシーをして返礼をした。
「さぁ、今宵は孫娘のデビュタントも兼ねております。どうぞ皆さま、孫娘と共に華を添えてくだされ」
我こそはとダンス好きな人々がさっとダンスホールに並んだ。イレーネもラインハルトの手に導かれてホールドをする。
音楽が鳴り出せばリードに合わせて踊り出せた。ラース領に戻ってから真面目に受けたレッスンの成果もあって、身体が自然と動いてくれた。
微笑みは絶やしていないか、身体は音楽とリードに合わせて踊っているか、それだけを意識してイレーネは無心に踊った。左胸に微かに揺れるラインハルトの勲章の数の多さに、身分と功績が見える。本来ならばその事をきっかけに交流すべきなのだか、イレーネは目を合わすことも、話しかけることもできない。
儀礼として二曲連続で踊った終わり際に、ラインハルトが小声で囁いてきた。
「少し、バルコニーで話すことはできますか?」
「……はい」
わずかに首を縦に振って応えるイレーネ。
ラインハルトはほっとしたように微笑み、曲が終わると同時に拍手に応えながらさりげなく誘導して、そっとバルコニーに連れ出してくれた。
人の目がなくなった所でイレーネはラインハルトの手を離し、バルコニーの手すりまで駆け寄った。気がつけば肩で息をしていて、全身が細かく震えている。
限界だった。どう対応していいのかわからない。感情が乱れに乱れて、叫び出しそうな気持ちを必死でおさえた。
「イレ……」
「そのような者はおりませんわ!」
吐息のように呟かれた名に、イレーネは反射的に応えた。今、私はイレーネだ、イレという偽りの名の者は存在しない。
(イレーネとして、イレーネ・ラ・ノルダンとしてバルトウィン卿に嫁ごうと思っていたのに……!)
手すりを握る手の節が白くなっていく。この気持ちをどう表現したらいいのかわからない。イレーネの心の中は、なぜ言ってくれかなったのかというやるせなさと自分だって何も言わなかったという後悔とが渦巻き、最後に滑り込んできたのは、胸が痛くなるような安堵する想い。
(生きてた、ライが、生きてた……! 無事で、よかっ……っ……)
ぱたた、と白い手すりに灰色の影が沁みる。
伝令の為に戦場を離れ、その後はラース領に戻されてしまって、ライの安否を尋ねたくても尋ねられず、夜更けて星に無事を願うばかりだった。
その彼が、今、こうしてここに居る。
「すまなかった」
背中に告げられる苦渋に満ちた言葉に、イレーネは振り返る。
「イレがイレーネだという事は、最初から知っていた。予備知識なくルクスガルドを見てもらいたくて名乗る事はしなかった。何度も身分を明かそうと思ったが、結局の所、しなかった。すまない。この通りだ」
ライはイレーネの目の前で両膝をつこうとしたので慌てて駆け寄り、両手を掴む。
「やめてください! あなたのような身分の方がそんな事をしてはダメ!」
「こうしてでも私はイレーネの許しを請いたい。偽ったことを、許してもらいたいのだ。頼む、イレーネ」
「許すもなにも!」
ぼたぼたと大粒の涙をながしながらイレーネは首を横に振った。
「身分を偽っていたのは私も同じです。その方が面白そうだと思って、平民になったら自分の好きなように自由に動けると思って! ただのわがままを通したのは私です。私も、あなたに偽っていた」
「イレ、いや、イレーネ」
「どちらでも、どちらでもいいっ……ライっ……会いたかったぁ……!」
くしゃくしゃの顔で両手を伸ばすと、ラインハルトは両腕を広げて強く抱きしめてくれた。
「私も、会いたかった。やっと会えた。ライとしても、ラインハルトとしても」
頬をなぞって、涙を拭いてくれる手が暖かい。
ずっと望んでいた手が、側にある。
イレーネは溢れる涙をそのままに、ラインハルトの手に頬をすり寄せる。
ラインハルトは息を呑み、そっと目元に唇を落とした。
「イレ、貴女が好きだ。貴方を愛しているから、私と結婚して欲しい。……いやか?」
イレーネは小さく首を横に振った。
「わたし、わたしも……! ライが、ラインハルトさまが好き!」
言えないと心に刻んだ言葉を叫ぶと、苦しいぐらいに抱きしめられた。イレーネもライの背中に手を伸ばす。布が歪むほどしがみつくと、力強い鼓動が聴こえてきた。
(ライがここにいる……ライ……)
言葉にできない安心感に満たされて腕の中に囲まれるようにして重ねられた口付けは、小鳥のように触れるものから唇を食むようなものまで続き、苦しくて腕を叩いてやめてもらった。
「まって……ライ……わたし、こうゆうの初めてで……ちょっとまってほしいっ」
「そうでした、姫はデビュタントを済ませたばかりでしたね。愛らしい初めてをたくさん頂けて私はとても嬉しい」
「ち、ちょっと急に辺境伯殿下になるのやめてっ、ドキドキする」
「おや、こちらも好みにあったか。それは上々」
「ねぇ、ほんとにやめて、今度は悪い顔してるわ。どのライにもドキドキしちゃって心臓がこわれそう。どうしたらいいの?」
困り顔で助けを求めてくるイレーネが可愛すぎて、ラインハルトはもう連れて帰ろうか、とつぶやいた。
「イレ、私が帰る時に一緒に帰ろう。本来の私に慣れるためにも一緒にいた方がいい。そうしよう。ひとまずイレを部屋に送り届けて、その旨をマンセル殿に話してくる」
そういうとラインハルトはひょいっとイレーネを抱き上げた。
「え、ちょっと! ライ? 戻らなくていいの?」
大広間はまだ音楽が流れて活気づいていそうだ。
「泣き兎になった可愛いイレを誰にも見せたくないな。もう部屋に戻ろう。案内して」
「うぅ、ごめんなさい、大事なお披露目の場なのに」
「いや、十分だよ。皆、見ていないようで見ているから。私たちが仲睦まじいのはちゃんと見せられたと思う」
「え? うそっ!」
「本当。でもちゃんと見えないように囲ったから大丈夫だ」
「なっ、全然大丈夫じゃない!」
「大丈夫」
顔から火が出るとはこの事! とぽかぽかラインハルトの胸を叩くのだが、さらりと笑って取り合ってもらえず、イレーネは無言の反抗をしてまたラインハルトを振り回すのだった。




