戻ってからのイレーネ
並足から駈歩、その日の決まったメニューで馬場を走らせていく。最近のルイーザは以前と違ってマイペースに走る事もなく、イレーネの指示通りの速度で走っていく。他の馬が並走しても揺るがなくなったのは、ルクスガルドで積んだ経験のおかげだ。
時折、今から早駆けもできる、とばかり耳の角度を伏せるようにして速度を上げる準備をするが、イレーネがその指示をしないのでまたいつもの駈歩に戻っていく。
ルイーザと共に駆けてゆきたい、と心の片隅によぎっていく想いを、軽く頭を振って霧散させる。
あれから一ヶ月がたった。
「ネイト、ルイーザのこと、お願いできる? すぐに戻らなければいけないの」
「承知しましたよー」
「ありがとう、お願いね」
以前は調教後の馬の世話も必ずやっていたイレーネだが、今は淑女教育と歴史、経済学、と自国だけでなく周辺の国々の事も学び出したのでルイーザの事もネイトに任せることにしている。
「ルイーザ、また明日ね。いい走りだった」
ルイーザも首を軽く叩きながら声をかけて離れる時でも特に寂しそうな顔もしない。いろいろな厩務員の手で世話をされる事に慣れ、イレーネじゃなきゃいやだ、というような甘えもなくなった。
(お互い、強くなったよね。わたしも落ち着いて向き合えるようにがんばる)
ネイトの先導で厩舎に入っていくルイーザを見送って、イレーネは屋敷に向けて歩き出した。今日の為に、準備をする為に。
乗馬用の革手袋を外し、髪をまとめていた紐を解くと金色の髪が風を受けてそよぐ。以前は走って行き来していた厩舎から屋敷への道を、今はゆっくりと歩いて帰るのが常となった。
この貴重な一人の時間に、イレーネは思いを馳せる事ができる。
(ネイトも無事だったから、きっとライも無事よ、大丈夫。きっと大丈夫)
ネイトはイレーネがラースへ戻って一週間後に帰国してきた。病み上がりのイレーネはすぐに厩舎にかけつけ、ネイトの無事を涙ながらに喜んだ。ライの無事も聞いてみたが、ネイトはライと別れて西のトルソ村に行ったきり会っていなかった。
ネイトはテレサと共にトルソへ先行して入り「ブーレル砦に〝銀狼の軍神〟が到着した、まもなく援軍がここにも来る」と声高に告げて村の者を鼓舞して回ったという。
その後すぐ到着したアーダルベルト隊と共に波のように襲撃してくるザード兵を蹴散らしながら耐えていると、ノルダンから〝常勝の槍使い〟ラース領主マンセルが到着。優秀なラース騎馬隊と共にザード兵を叩きのめし、一両日待って反撃がないのでマンセルと共に帰国したのだ。
キズ一つないネイトによかったと声をかけると「逃げ足だけは速いですからねー」と相変わらず気の抜ける口調で「でもテレサさんには参りましたよー!」と開口一番にテレサの愚痴だった。
どうやら向かってくる敵兵に突っ込んでいったり、逆に引いていく兵士を追おうとしたのでテレサの兄と共に必死に止めたのだそう。
「さすがに説教しましたよー、久しぶりの暴れ馬に腕が鳴りましたー」
「ネイトの気の抜ける説教が効くの? 私はネイトに帰りなさいよーと言われてもここで遊んでいたけれど」
「姫さまは姫さま、テレサさんはテレサさんですよー、ちゃんとわかってくれましたよ、かわいかったですー」
可愛がりながら叱るってどういうことだろう? と首を傾げるが、ネイトは軽く笑っているだけなので、気が強いテレサにのらりくらりとネイトが説き伏せたのかもしれない。
そういえば昔からネイトは癖のある馬の調教が上手だったと、ふっと笑う。結局の所ライの無事は今もってわからないのだけど、テレサもネイトも変わりないから、きっと大丈夫、とずっと自分に言い聞かせている。
屋敷に戻ると母、サーネが玄関ホールにてほっとした顔で待っていた。そしてすぐにキリッと口を結んで声高に話しかけてくる。
「こんな大事な日に朝から厩舎に行くだなんて!」
「大事な日だからこそよ、母さま。平常心でいられるでしょ?」
「あなたの支度をしないと侍女たちが他の仕事に移れないのです! 近隣の方々をお呼びしての夜会なんて久々なのですから!」
「はいはい」
「はいは一回っ!」
「……はい」
はりきっている母のご機嫌を損ねてはならぬ、と粛々と頷いて自室に戻ると侍女たちが飛びつくように手をとられ、バスルームにつれていかれる。
「いたたた、そんなにこすらなくても大丈夫だから」
「姫さまは黙っていてください! あっ、藁なんかつけてきて! もうもう今日はピカピカに磨き上げなきゃいけない日なのですよっ」
「いつも通りでいいのに」
「「「ダメです!!!」」」
三方から責められてイレーネは肩をすくめる。
身体をこれでもかと磨き上げられ、香油もたっぷりと塗られていく。強い香りを好まないイレーネの為にさわやかな柑橘系が選ばれて、指先、足先までつけられるのはやりすぎなのでは、と呟くがこれでも控えめにつけております! と封じ込められる。
香油が肌に馴染むまで少しお待ちください、とガウンを着せられソファに座ると、数日前に届けられたドレスが目に入った。
湖のような淡い水色が基調のイブニングドレスは、デコルテから肩に駆けてが繊細な総レースになっていて、胸の切り返しから足先までかかるシルクの緩やかなドレープは光の加減で銀色に輝いても見える。
そういえばこのドレスを贈ってくださったルクスガルド辺境伯も銀髪だった、絵姿しか見ていないけれど、と一つ息をはくと侍女に呼ばれてソファから立つ。
しっかりと下地を作ってからナチュラルに見えるように化粧をされ、目を軽く伏せている間にいくつもの手が肌を掠めていく。
「姫さまは血色がようございますから紅の色があまり目立ちすぎない色をのせますわね」
「ほほも軽くにしましょうね、薄くさっと」
「目元は柔らかくしておきますわ! お淑やかに、お淑やかに、ですわよ!」
控えめな膨らみのペチコートをはき、肌触りの良いドレスを見にまとっていくと、不思議と身体にピッタリと合った。
「とても着心地がいいわ」
「非常に柔らかな素材ですわね、あちらも良い職人がいそうです」
「実直な人々だから……時間をかけて作ってくれたみたい」
胸元の何重にも重ねられたレースが肌が透けるのを防いでいる。一枚一枚に飾られた複雑な花模様に、イレとして接した手を抜かないルクスガルドの人々を想い浮かべた。
鏡の前に座り、ふわふわとまとまりのない髪の毛は侍女の手によってゆるくまとめられていく。
「ゆえるぐらいに伸びてよかったですわ、姫さま」
「かんざし……にはちょっと届かないですわね、バレッタ……いえ、もっとこのレースに似合うような優しさを表現するには……小花を編み込むのはどうでしょう?」
「いいですわね、白い小花であれば合うかと! 用意してきますわ!」
すぐに摘んできた小花が編み込まれ、ふわふわと逃げる金の髪を生かしてゆるくふわっとした髪にまとまった。
「後毛はあまりかっちりとまとめない形にさせていただきました。デビュタントも兼ねておりますし、可愛らしさと共に大人への階段を登る乙女、といった感じですわよ、姫さま!」
「戻られてからは落ち着かれましたのでまさにこのドレスに相応しい乙女になられましたね! 姫さま!」
「さぁ、仕上げはこちらで」
首元と耳にシルバーを土台としたアクアマリンがつけられる。イレーネは鏡に映るネックレスをそっと触った。
(ライの瞳みたい……)
きゅっと唇をかむと、侍女たちが口々に話しかけてくる。
「姫さま! そんな唇を噛んではいけませんわ、口紅が落ちてしまいますっ」
「あ、でも、今のうちに軽食を召し上がって頂いた方がよろしいかと。お口元はお食事の後に直せますから」
「そうですわね、すぐにお待ちしますわ!」
髪型のほつれを流していると、サンドウィッチと共に紅茶が注がれた。
「ありがとう、あとは一人でできるから。みんな、お客さまを迎える準備に向かって?」
「承知しました、お時間の前にもう一度整えに参ります」
「ええ、お願い」
美しい所作で紅茶を飲むイレーネを見て、満足そうに頷きあった侍女たちは、腰を落として部屋を下がっていった。
一人になったイレーネはサンドウィッチを二切れほど食べると、すぐに手が止まってしまった。いつもならどんな時でもしっかりと食べる事が出来るのだが、さすがに緊張をしていて食べ物が喉に入らない。
あと数時間後に、近隣の領主を招いて夜会が開かれる。ラース領領主が夜会を開くのは久しぶりで、屋敷中が浮き足だち、みな楽しそうに準備をしている気配がする。おそらく、喜ばしい会になるからだろう。
当家の娘であり、ノルダン国第四王女イレーネ・ラ・ノルダンとアルタス国ルクスガルド辺境伯ラインハルト・フォン・バルトウィンの婚約が発表されるのだ。
イレーネがラース領に戻ってからすぐに、バルトウィン辺境伯から手紙が送られてきた。
ラースからの援軍のおかげでザード国を退けられた事、和平交渉も早期にまとめられそうだという事、お礼兼ねてラース領主に会いにいく、その際にイレーネとの婚約を発表したい、と。
手紙を持って祖父の執務室に向かうと、祖父宛にも正式に訪問の伺いが届いていた。
「お受けする、で、いいな?」
「……はい」
政略的にも否はなかった。ルクスガルドを守る為に、ラース領との結びつきは必須だという事をイレーネはイレとして実感していた。それでも少し息を呑んでから返事をしてしまったのは、個人的感情が瞬間的に渦巻いたからだ。
「まぁ、思う所あれば本人にいうがいいさ」
「じじさま……」
「ルクスガルドに居たことを話してもよかろうよ、せっかくの機会だ。腹を割って話して、そこから始めてもいい。対外的には婚約は発表するがの、それから先は二人で話し合って決めれば良い」
「いいのですか? 自分たちで決めて……」
「良い。二言はない」
最後は祖父としてではなくラース領主としての言葉と受け取り、深々と礼をとった。
あれから、一、二度手紙のやり取りをして今に至る。




