エピローグ
朝靄がかかる厩舎に、イレーネはそっと滑り込んだ。厩舎の朝は早く、みんなもう動き出しているのだが、イレーネは厩務員がどう動いているのかを把握しているので、誰にも見つからずに馬に会いに行くことができるのだ。
ルイーザの厩舎に顔を出すと、ルイーザは心得た顔をして静かに尾を振っている。
「イレーネさま、イレーネさまっ」
鞍をかけ鎧に足をかけた所で、自分を呼ぶ声が聞こえる。声の小ささからまだ距離があるとふんだイレーネは勢いをつけてまたがった。
「ルイーザ、静かに行こう」
囁いて立て髪を撫でると、ルイーザは耳を立てて了承の合図をしてきた。そっと厩舎を出ると、北に向けて静かに歩き出す。
街中に降りると、始業が早いパン屋のドアを叩いて顔を出した。
「いらっしゃ……イレーネさま?! いいんですか? ここに居て!」
「しー! ほんの少しだから、ちょっと走ったら戻るから! 今日を逃すとたぶんしばらく乗れないし」
「いやまぁ、そうでしょうけど……いつものでよろしいです?」
「ええ、ここのくるみパン大好き。これもしばらく食べられないと思ったらついつい来てしまうのよね」
「門番に話をつけてくださればいつでも差し入れに届けますよ?」
「本当⁈ お願いする!! 屋敷の者も一生懸命作ってくれるからそんなに頻回に呼ぶことはできないけれど、どうしても屋敷から出られない時は手紙で呼ぶわね」
「お待ちしておりますよ、はい、どうぞ」
紙袋に包んで手渡されたくるみパンはほかほかと温かかった。
「わ! うれしい、焼きたて! ありがとう!」
「こちらこそです、どうぞお気をつけて」
「はーい、いってきます!」
ひらひらと手を振るイレーネを見送ったパン屋は、すぐにエプロンを脱いで厨房に声をかける。
「おーい! 屋敷に声かけてくるから後たのむー!」
「えぇー?! いまのイレーネさまだったの?! 今日、結婚式よね?!」
「ああ、心配しているからひとっ走りいってくるわ!」
「ええ、お願い! きっとすぐ戻られると思うけれどね!」
「ああ、普段通りだったからな、それも伝えてくるわ!」
パン屋は笑って走り出した。本日めでたくルクスガルド辺境伯夫人になるイレーネさまは、なかなかのはねっかえりなのだ。
婚約者としてルクスガルドに移ってきたイレーネは、ラインハルトの屋敷に住みながら淑女教育だけでなくルクスガルド辺境伯夫人にふさわしい教養や近隣諸国の状況などを学んでいた。
なかなか勤勉であると教師たちには評判のイレーネだが、ある一定の期間を過ぎると、息抜きと称してルイーザにまたがり、遠乗りに行くことがあった。
もちろん一言屋敷の者に告げてから行くのが常なのだが、ときおりふらっと抜け出すように出てくる時があって、ルクスガルドに店を構えている者たちには見かけたら屋敷に告げるようにと内々に通達が回っている。
曰く、イレーネを快く見送ってから、屋敷に告げるように、と。
その通達を見た者は、一様にして口元をゆるませ、語り合う。
うちの領主さまは、イレーネさまに骨抜きだね、と。
やがてしばらくすると同じ道を黒馬が走っていくのだ。通報してしてくれた店先に軽く頷いて向かう様もほほえましい。
領主さまもお気をつけて! と手を振って送り出すのも、ここ半年の間によく見る風景だ。
草原の丘の上で、イレーネはルイーザを放牧させ、自分は温かいパンを胸に抱いたまま景色を見回していた。
すると、眼下に見えるルクスガルドの街中から黒馬が走ってくる。
「さすがに今日は早いね」
イレーネは微笑みながら待っていると、ラインハルトが苦笑しながらそばに来る。
「イレ、今日抜け出すと侍女が涙目になる」
「ごめん、書き置いてきたから大丈夫だと思ったのだけど。ライと一緒に朝食が食べたくて。はい、どうぞ」
イレーネは冷めないように囲っていた腕の中からくるみパンを渡した。仕方のないイレだ、とばかり片眉を上げるライだが、口元は緩やかにパンを受け取り、二人並んで座った。
「今日の式の後は晩餐で二日目は街中を回る。三日目にノルダンの方々と会食する時間を設けるが大丈夫か?」
「うん、まさか父さまも出席するとは思っていなかったから、急なことでごめんね」
「いや、何を置いてもくると思うけれどな」
「そう? とりあえず喧嘩しないように気をつける」
「ああ、頼む。しかしあの方と喧嘩か……イレじゃないとできないな」
ノルダンのラース領で生まれ育ったイレーネからすると、ノルダン国王として王都に住んでいる父親は年に一度会うか会わないかの遠い存在だ。
今日の結婚式にも、ラース領主である祖父マンセルが父親の名代として参加する予定だったのだが、半月前に父も参加すると連絡してきたのだ。
たまに会うと淑女らしくしろと言われて口喧嘩になる父。珍しく眉に谷を作って手紙を持っていったイレーネに、ラインハルトは快諾して席を設けようとすぐに返答を送った。
父と会ったことがあるの? と膨れっ面で聞くイレーネに、ラインハルトは頷き、「豪胆なラース領主とは違って、思慮深く重みのある言葉を持った方だよ」と教えてくれた。
どうやらイレーネに見せる顔とラインハルトに見せる顔は違うらしい。
「私にとってはただの口うるさい父ですー」
「イレ似の子だったら同じ事を言うかもしれないな、発言には気をつけよう」
「ライったら!」
まだまだ先の未来の事をもう考えているラインハルトに、気が早すぎ! と肘でわき腹をつつく。すると彼は笑ってイレーネの手を取り、ふわりと膝の上に抱き上げてきた。
「常に先を読んでおかないと。お腹に子がいてもルイーザに乗りそうだからな、イレは」
「乗らないし! でもお世話はさせて、お願い」
「……危険のない範囲だったら」
まだ子作りもした事のない内からこんな話をして、と言われそうな話題も、この草原の中なら気兼ねなくできる。イレーネが定期的に抜け出していくのも、屈託のない二人だけの時間を作る意味もあった。
でもこれからは少し抜け出しは少なくなるかもしれない。今日からイレーネは客人ではなく、夫婦になるのだから。
「大丈夫、ルイーザはちゃんとわかってくれるから」
「そうだな」
イレーネとルイーザの関係は、騎乗する者、される者というだけでなく、意志が通じているような親しみを感じる。まるで姉妹のように。
「そういえばルースがブーレルから戻ってきている。テレサも一緒に到着したよ」
「わ! 会いたい!」
ぱっと膝から立ち上がろうとしたイレーネをラインハルトは柔らかく囲った。
「ライ?」
「彼らには後で会える。私のこともかまって欲しいのだが?」
「今日からはずっとそばにいるのに?」
イレーネは笑ってラインハルトに顔を寄せた。額をこつりと合わせると、湖面色の瞳が、嬉しそうにゆっくりと細くなった。
「ああ、足りないな」
言葉と共に目が伏せていくので、イレーネも恥じらいながら若草色の瞳を閉じてそっと唇を合わせる。
触れるだけの口付けが深くなってきたので、イレーネはここまでっ、とラインハルトの肩を叩いた。
口付けをしながら器用に笑ったラインハルトは、音を立ててひとまず終わりの合図を送るとイレーネを離した。
顔を真っ赤にして照れているイレーネ。ラインハルトは少しだけ強く抱きしめると、額にまた唇を落とす。
「可愛いが過ぎて困ってしまうな」
「……そんな事いうの、ライだけだよ」
「まぁ、普段はじゃじゃ馬が過ぎるからな」
「ひどいっ! ライがそう言う事いうから街中でじゃじゃ馬辺境伯夫人様って言われてるんだよ!」
「はは、みんなイレの事をよく知っている。だがそれぐらいで良い。ここの辺境伯夫人は一筋縄ではいかないと示してくれているのだから」
ブーレルから先の隣国にも轟けば良い、とラインハルトは思っている。まだそこまで考えが及ばないイレーネはぷくっと頬を膨らませているが、それもまた愛らしい。いずれその肩書きを盾に、内に外にと出ていけばいいのだ。今日はその第一歩となる。
「さて、侍女たちが号泣する前に帰るか」
「ん、謝るしちゃんと怒られる。けど、これからも息抜きさせてね、ってお願いもしておくわ」
「それがいい。私もこの時間が心地よいからな」
「うん!」
にっこり笑って、二人、手を取り合いながら立ち上がる。主人たちの様子をみて、ルイーザもガイルも耳をぱたぱたと動かしながらこちらに寄ってきた。
鎧と手綱を頼りに騎乗しようとするイレーネをそばで支えるラインハルト。一人でも乗ることは出来るのだけど、側に居る時は必ず寄り添ってくれるラインハルトが大好きだ。その後にさっと自ら騎乗する姿も、かっこよくて魅入ってしまう。
「ライ、大好き」
思わずぽろりとこぼれた言葉にあわてて口を塞ぐと、ラインハルトは困ったような、でも口元はゆるんでしまってどうしたものか、という何ともいえない顔をした。
「イレ、騎乗してしまってからそれを言うのは反則だ。何もできない」
「いい、いいっ! もうたくさん頂いたからっ! ええっと、ええっと……さ、先に帰るね!」
「いや、一緒に……あっ、こら、イレーネ!」
さっと駈歩になったイレーネに、ラインハルトは笑いながらすぐに追いつき並走する。やがて二人と二頭はじゃれ合うように走りながら街中へ戻っていった。
風薫るさわかやかな良き日に、アルタス国ルクスガルド領の〝銀狼の軍神〟と恐れられる辺境伯へ隣国ノルダン国ラース領から一見可憐に見える第四王女が嫁いできた。街中で行き交う人々が一様に言うには、愛らしいけれどはねっかえりで、時折り屋敷を飛び出して遠駆けをするじゃじゃ馬辺境伯夫人なのだと。でも、気さくに自分たちと同じ目線で話してくる夫人をルクスガルド領民は愛した。
曰く「じゃじゃ馬だけど、いつも店に顔を出してくれて、めっぽう可愛いんだ」と。
fin




