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ブサメンガチファイター  作者: 弘松 涼
第四章 感謝の国と慈愛の王
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75 感謝と服従

 歩みの家を出るころには、空がわずかに明るくなり始めていた。


『それでも、ありがとうで暮らせる国を作ることって、素晴らしいことだと思いませんか?』


 ヘレナさんの問いに、俺は答えられなかった。


 いまは考えている時間もない。

 俺と伶亜さんは、急いで感謝の家へ戻った。


 保管庫へ飛び込むと、誠司さんと聖華さんも戻っていた。

 リーズは通気口のそばで、廊下の音を聞いていた。


「衛兵が階段を下りています」


 もう時間がない。


 リーズと伶亜さんが、三つの身代わりを通気口へ押し込んでいく。


 木の騎士は、俺の懐に入れたままだ。


「しげるさん!」


「分かってます!」


 俺は三枚の葉を握り、三人へ術をかけた。


 誠司さんを英雄像へ。

 聖華さんを聖女像へ。

 俺は豚の貯金箱へ。


 視界が一気に低くなる。


 直後、鉄扉が開いた。


「競技場へ運べ。急げ」


 身体が持ち上げられ、荷車へ載せられる。

 車輪が石畳の上を転がり始めた。


 どれくらい揺られただろう。


 荷車が止まり、俺たちは一つずつ運び下ろされた。


 競技場は、円形の砂地を石造りの客席が囲んでいる。

 奥には一段高い王席があり、その向かいには大きな幕が張られていた。

 王席の傍らには、銀の手鏡が置かれている。


 俺たちは、王席脇に並んだ三つの小さな幕の裏へ、一つずつ置かれた。


 客席の向こうには、さっきまで時を告げていた時計塔の上部が見えた。


 やがて、競技場の門が開いた。


 市民が、次々に客席へ入ってくる。


「パンをよこせ!」

「製粉所は、いつ動くんだ!」

「水路も止まりかけてるぞ!」

「王様じゃ駄目だ! アルディーンを呼べ!」


 怒号に混じって、別の声も聞こえた。


「アベル様に何てことを言うんだ!」

「この国を救ってくださった方だぞ!」

「感謝を忘れたのか!」


 客席のあちこちで、言い争いが始まる。


 ヘレナさんのように、アベルへ心から感謝している人もいる。

 今日のパンを求めて、王へ怒りをぶつける人もいる。


 どちらも、この国の民だ。


 王席の扉が開いた。


 白い外套をまとったアベルが、感謝鳥を肩へ乗せて現れた。


 いつもの穏やかな笑顔だ。

 だが、目の下には濃いクマができている。


 どうやら、昨夜はほとんど眠っていないらしい。

 怒りが消えたわけじゃない。笑顔の下へ押し込んできただけみてぇだな。


「静かに!」


 アベルが片手を上げた。


 衛兵が槍の石突きを床へ打ちつける。

 競技場が、少しずつ静かになった。


「アルディーンを呼べ、と聞こえたよ」


 アベルは、穏やかな笑顔で客席を見回した。


「君たちは、大きな勘違いをしている。アルディーンが行ってきた善行は、すべて僕の指示によるものだ」


 客席がざわつく。


「孤児院の少年を助けた。暴走荷車から母子を救った。角走獣から子供を守った。そのほかにも、数え切れないほど人々を救ってきた。だが、どれも僕が与えた役割を実行しただけだ」


 アベルは、自分の胸へ手を当てた。


「君たちが感謝すべき相手は、作り物の英雄ではない。正しく力を使わせてきた僕なんだよ」


「嘘をつけ!」

「アルディーンは、自らの意思で俺たちを助けてくれたぞ!」


 客席から、また怒号が飛んだ。


 アベルの笑顔が、一瞬だけ消える。


「愚民め」


 小さな声だった。

 だが、俺の神クラスの聴力は聞き逃さない。


「パンと見世物がなければ、何も理解できない」


 すぐに、慈愛に満ちた王の顔へ戻った。


「いいだろう。君たちが望んだアルディーンを見せてあげよう」


 アベルが、競技場の中央に張られた幕を指した。


 衛兵が綱を引く。

 重い幕が、ゆっくりと左右へ開いていく。


 その奥に、一人の英雄が立っていた。


 背格好も、翼の形も、額にある第三の目も、俺たちが見てきたアルディーンと同じだ。


 だが、金色だった髪も、白い翼も、赤い鎧も、すべてが黒い。

 目元には、表情を隠すような黒い仮面までつけている。


 一見しただけでは、アルディーンだと思えない。

 それでも、あの姿は間違いなく――。


「アルディーン……様?」

「どうして、真っ黒なんだ?」

「あれが、本当にアルディーンなのか?」


 客席に戸惑いが広がった。


「ただし、いまの彼は、君たちが知る英雄ではない」


「どういうことだ!」


「君たちは、助けられることを当たり前だと思っている。感謝を忘れ、今日の不満だけで国を壊そうとしている。その心が、アルディーンを黒く染めたんだ」


 ずいぶんな責任転嫁だ。


「黒いアルディーンは、感謝を忘れた君たち自身だ。やがて、その憎しみで、この国を破壊する」


 アベルが腕を振り下ろした。


「見せてやれ!」


 黒いアルディーンが、右の拳を突き出す。


 一瞬遅れて、競技場の外から爆音が響いた。

 時計塔の上部が砕け、黒い煙を上げる。


 客席から悲鳴が上がった。


 拳から時計塔まで、何かが飛んだ気配はない。

 代わりに、火薬の臭いが流れてきた。


 最初から、爆薬を仕掛けてやがったのか。


「見ただろう!」


 アベルが叫ぶ。


「君たちが感謝を忘れれば、この国はこうなる!」


「ふざけるな!」

「製粉所が止まったのも、俺たちのせいだって言うのか!」


 市民は、まだ黙らない。


 アベルの口元から、笑みが消えた。


「まだ分からないのか」


 黒いアルディーンが、客席へ身体を向ける。


「もう一度、見せてやれ」


 黒い拳が突き出された。


 次の瞬間、客席の最前列、その目の前にある石壁が爆発した。


 悲鳴とともに、全員が頭をかばう。

 砕けた石と土煙が、前列まで飛んできた。


 今度は、近い。

 一歩間違えれば、誰かに当たっていた。


「次は、どこが壊れるだろうね」


 アベルは、客席を端から端までゆっくりと見回した。


 視線を向けられた市民は、次々に目をそらし、うつむいていく。

 さっきまで声を上げていた者たちも、何も言えなくなった。


 アベルは、ようやく満足したように笑った。


「だから、もう一度だけ機会を与える」


 アベルが、王席脇の幕へ顔を向けた。


「英雄よ。本物のアルディーンとなれ」


 合図だ。


 俺は幕の裏で、一枚目の葉を握った。


 英雄像が、白いアルディーンへ変わる。


 衛兵が幕を開いた。

 白い兜で顔を隠し、白い鎧と翼をまとったアルディーンが、競技場へ歩み出る。


 客席が、大きくどよめく。


「白いアルディーンは、正しい感謝から生まれた英雄だ。僕の教えを理解し、この国のために力を使う」


「白いアルディーン?」

「アルディーンが二人いるぞ!」

「どういうことなんだ?」


「これから、この二人に戦ってもらう」


 アベルが、白と黒のアルディーンを順番に示した。


「白が勝てば、君たちはもう一度、感謝とともに生きていける」


「黒が勝ったら、どうなるんだ!」


「黒は君たちを襲い、この国を壊すだろう」


 客席に動揺が走った。


「それが、感謝を忘れた国の結末だ」


 アベルが、白い英雄へ手を向ける。


「白を勝たせたいのなら、僕への感謝で示すんだ。誰のおかげで、この国がここまで歩いてこられたのか。今度こそ、正しく理解してほしい」


「アルディーン様、お願いします!」


「違う」


 アベルの笑顔が、また消えた。


「『ありがとうございます、アベル様』だろ?」


 最初に、衛兵たちが声を上げた。


「ありがとうございます、アベル様!」


 王を支持する者が続く。

 やがて、周囲の顔色をうかがっていた市民からも、同じ言葉が聞こえ始めた。


「ありがとうございます、アベル様……」


 感謝の言葉が、競技場を埋めていく。


 アベルは満足そうに目を細めた。


「聖女よ。立ちなさい」


 俺は別の幕の裏で、二枚目の葉を握った。


 聖女像が光に包まれ、聖華さんの姿へ戻る。


 衛兵が幕を開いた。

 聖華さんが、競技場へ歩み出る。


「せいか。君には、どちらが正しいかを皆へ示してもらう」


 聖華さんは答えなかった。


「さあ、始めよう」


 アベルが、黒いアルディーンへ命じる。


「白を倒せ」


 黒いアルディーンが動いた。


 三歩進む。

 音のした方へ顔を向ける。

 左腕を前へ出し、右の拳を突く。


 歩みの家で、何度も練習した動きだ。


 誠司さんは拳をかわし、反撃せずに距離を取った。


 黒いアルディーンが、また三歩進む。

 音を追い、左腕で誰かを守る形を取り、右手で目の前の危険を止める。


 同じ動き。

 同じ歩数。


 誠司さんも、決まった動きを繰り返していることに気づいたらしい。


 目の見えない少年が、怖がらずに歩けるようになるまで、身体に覚え込ませた動きだ。


 アベルは、それを戦いへ使っている。


「ほら、見ろ! 白いアルディーンが押されている!」


 アベルが客席へ向かって叫んだ。


「君たちの感謝が足りないからだ! 白を勝たせたいのなら、もっと僕へ感謝しろ!」


「ありがとうございます、アベル様!」


 客席の一部から声が上がった。


「足りない! もっとだ!」


 アベルが、黒いアルディーンへ腕を振る。


「力を見せてやれ!」


 黒い拳が地面へ叩き込まれた。


 客席前方の石壁で爆発が起きる。

 石片と土煙が舞い上がり、市民から悲鳴が上がった。


「白が負ければ、次に壊されるのは君たちだよ!」


「ありがとうございます、アベル様!」

「ありがとうございます、アベル様!」

「ありがとうございます、アベル様!」


 感謝の言葉が、悲鳴を押しつぶすように広がっていく。


「そうだ。それでいい。感謝するんだ! 感謝こそ正義! 感謝こそ力! 感謝こそ法!」


 アベルが白い英雄を指した。


「行け、白いアルディーン! その悪を倒せ!」


 次に黒いアルディーンが踏み込んだとき、誠司さんは左腕の外へ回った。

 突き出された右手を受け流し、背後へ抜ける。


 足を払う。


 黒いアルディーンが体勢を崩し、片膝をついた。


 誠司さんは、その首元へ剣先を向ける。


「さあ、とどめだ! その失敗作を消せ!」


 だが、誠司さんは剣先を下ろした。


「従いません」


「アベル、カナシイ」


 感謝鳥が鳴いた。


「お前まで、僕に逆らうのか!」


 剣を砂地へ置き、自分も黒いアルディーンの前へ片膝をつく。


「あなたが、ずっとこの国を助けてきた英雄だったのですね」


「お、おい、何をしている! やめろ! 僕は、そんな命令をしていない!」


 誠司さんはアベルの声を無視し、黒いアルディーンの肩へそっと手を置いた。


「ありがとうございます。心から感謝します」


「お前、誰に感謝してるんだ! 感謝する相手は、僕だろうが!」


 白い布を結んだ矢が、競技場の上を横切った。


 昨夜決めておいた、リーズからの合図だ。


 セレノア支店の閉鎖は、正式に受理された。


 間に合った。


「立て、せいじ!」


 アベルが右手を向ける。


「その失敗作を処分しろ!」


「従いません」


 白い光が、誠司さんの胸へ放たれた。


 同時に、俺は一枚目の葉へ力を込める。


 白い英雄の姿が崩れ、元の英雄像へ変わった。


「見たか!」


 アベルが客席を振り返る。


「僕に逆らえば、こうなる! 間違いを理解するまで、感謝の家で反省してもらう!」


 市民の顔から、血の気が引いた。


「いままで、戻ってこなかった人たちも……」

「感謝の家で、物にされてるのか?」


 ざわめきが広がっていく。


「違う! こ、これは……正しくやり直すために必要な――」


「必要ありません!」


 聖華さんが、アベルの言葉を遮った。


「誰かを助けたいと思った気持ちまで、間違いだったとは思いません。ですが、人を物にして、従わせることは間違っています!」


「君まで、僕を否定するのか」


「間違っていることを、間違っていると言っているんです!」


「なら、君も反省しろ!」


 アベルの手から、二本目の光が放たれた。


 俺は二枚目の葉へ力を込める。


 聖華さんが、祈りを捧げる聖女像へ変わった。


 悲鳴が上がる。


「分かったか!」


 アベルは、もはや笑っていなかった。


「この国で僕へ逆らえば、誰であろうと檻へ入る! 許すかどうかを決めるのも僕だ!」


 アベルは言い切った。


 国民全員の前で、自分に逆らった者を物へ変えてきたと、自ら明かした。


 豚の貯金箱へ変身する直前、誠司さんから口早に聞かされていた。


 アベル自身に、国民の前で能力を明かさせる。


 これが、誠司さんの狙いだった。


 俺は葉を握り直した。


 英雄像に亀裂が走る。

 聖女像を包んでいた光もほどけていく。


 白いアルディーンと聖華さんが、再び姿を現した。


「なぜだ。なぜ、術が解けた?」


 アベルが、自分の手を見る。


「いまのは、俺の術です」


 俺も豚の貯金箱を解き、元の姿へ戻った。

 残っていた幕を押しのけ、競技場へ出る。


「あんたの光は、最初から効いていません」


「そんなはずはない!」


 俺へ向けて、三本目の光が飛ぶ。


 胸へ当たった。


 だが、何も起きない。


「支店は、先ほど閉鎖しました」


 誠司さんが告げた。


「僕たちはもう、セレノア支店の所属ではありません。あなたの命令を受ける立場でもない」


「な、なぜ仕組みが分かった? いや、そんなことはどうでもいい。お前ら、分かっていたのに、ずっと僕を騙していたのか!」


「騙したかったわけではありません。あなたに、心を開いてほしかっただけです」


 白いアルディーンが、兜を外した。

 その下から、誠司さんの顔が現れる。


「もう終わりにしましょう」


「感謝の家にいる方々を、全員元へ戻してください。そして、自分がしたことを、国民へ説明してください」


 完全に決まった。


 アベルの力は、俺たちには届かない。

 何をしてきたのかも、自分の口で認めた。

 競技場にいる全員が聞いている。


 アベル。

 あんたは、もう詰んでいる。


 全員を戻して、謝るしかねぇ。


「……僕が、間違っていただと……」


 アベルは、自分へ言い聞かせるようにつぶやいた。


「違う」


 その顔が、ゆがんだ。


「僕が謝るのは、おかしい。謝るのは、お前たちの方だ!」


「アベルさん!」


「僕は国を救った! 水路も、治療院も、学校も! 誰も見ようとしなかった人たちを、僕は助けた!」


 客席へ向けて両手を広げる。


「それなのに、今日のパンが足りないってだけで、なんだよ、この仕打ちは! 昨日まで僕に感謝してたじゃないか! お前ら、なんなんだよ!」


 誰も答えなかった。


「何か言えよ!」


 アベルの声が裏返る。


「僕が間違っているなら、誰が正しいんだ! あの何もしなかった王か!」


「そのナマケモノ王なら、ここにおるぞ」


 客席の入口から、太い声が響いた。


 振り返った市民たちが、次々に道を空けていく。

 その間を、先王オルフェンがゆっくりと歩いてきた。


「先王様……」

「どうして、ここに……」


 客席がざわつく。


「オルフェン、何しに来た!」


 アベルが、オルフェンへ手を向けた。


 白い光が放たれた。


 オルフェンは逃げなかった。


 光が胸へ当たる。


 だが、その姿は変わらない。


「なぜだ……」


「お前は、そもそもわしの王ではないからじゃろうな」


「お前まで、僕を笑いに来たのか!」


「違うぞ、アベル」


 オルフェンは、ゆっくり首を横に振った。


「わしには救いきれなんだ者を、お前は救った。今日を生きられん者へ、パンと薬を渡した。それは、王として成したお前の仕事じゃ」


 アベルの眉間に、深いしわが寄った。


「だったら……なぜ、僕のやり方を認めない」


「お前が救った者は、確かにおる。じゃが、人を物にして従わせたことまで、正しいとは言えん」


「結局、僕を否定するんじゃないか!」


「否定ではない。間違いを認め、やり直せと言っておる。お前はまだ若い。生きて償う時間は、十分に――」


「うるさい! うるさい!」


「アベル」


 今度は、女性の声だった。


 王席に置かれた銀の手鏡が、陽光を拾っている。

 反射した光の中に、白い服のミレーユさんが立っていた。


「あなたを否定しているのではありません」


「黙れ!」


「王でなくても、英雄でなくても、あなたの価値はなくなりません」


「黙れと言っている!」


「わたしは、あなたに戻ってきてほしいのです」


 アベルが、黒いアルディーンを見る。


 黒いアルディーンは、片膝をついたまま動かない。


「ルカも、同じです」


 俺は懐から木の騎士を取り出した。


 黒いアルディーンのそばへ行き、その手へ古い騎士を握らせる。


「遅くなって悪かったな。返すよ」


 黒い指が、木の騎士を包んだ。


 アベルの視線が、片腕を直された古い騎士で止まる。


「違う。こいつは僕を否定した」


「ルカは、あなたにいなくなってほしくなかったから、止めたのです」


 アベルの唇が震えた。


「これ以上、行かないで」


 ミレーユさんが、あの日の言葉を繰り返す。


「あの子は、あなたを嫌いになったのではありません」


 アベルは、王席から降りた。


 一歩ずつ、ルカへ近づいていく。


 黒い英雄の前で、膝をついた。


 木の騎士へ触れる。


「ルカ……」


 返事はない。


 アベルの手が、かすかに震えている。

 何かを言おうとしているのに、言葉が出てこない。


「もしかして、僕は……」


 アベルの声が、初めて弱くなった。


「あなたがしたことは消えません」


 誠司さんが静かに告げた。


「だからこそ、ここで終わらせず、生きて償ってください」


 聖華さんが、一歩前へ出る。


「大丈夫です。今からでもやり直せます」


 アベルが、俺を見た。


「あんたが救った人まで、いなかったことにはならねぇよ」


 歩みの家で聞いた、ヘレナさんの言葉を思い出す。

 子供たちの「ありがとう」で買った、焼きたてのパン。

 ルカが初めて、自分の足で歩いた廊下。


「あんたは一線を越えた。もう、なかったことにはできねぇ。けど、ここで逃げちゃ駄目だろ」


 アベルの膝から、力が抜けた。


 石床へ崩れ落ち、握り締めた拳を震わせている。


 ミレーユさんを見る。

 ルカを見る。

 そして、自分が物へ変えた人々を見る。


「僕は……」


 喉が震えた。


「僕は、間違って――」


 怒りで強張っていた顔が、少しずつほどけていく。

 それでも、その表情には、まだ深い苦しみが残っていた。


 あとは、心から反省し、〈許す〉と言えばいい。


 それで、オブジェにされた全員を元へ戻せる。


 長かった。


 だが、アベル。

 本当に長いのは、ここからだぞ。


 その刹那。


 陽は出ているのに、競技場全体が巨大な影に覆われた。


「間違っていません」


 聞き覚えのない声が、王席の後ろから響いた。


 俺は振り返る。


 王席の陰から、黒い人影が姿を現した。

 その胸元に刻まれているのは、鎖と槍を組み合わせた紋章。


 忘れもしねぇ。

 あれは、まさしく――。


「慈愛王アベル。あなたは、どこまでも正しい」


 オルドヌングスピア――。


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