74 この子たちの「ありがとう」(後編)
夜の街は、寝静まるどころではなかった。
鍋を叩く音。
役所へ詰め寄る声。
衛兵が倉庫の前へ柵を並べている。
パン屋の前には、夜だというのに長い列ができていた。
「今夜は、もう焼けません!」
店主が、空になった粉袋を掲げた。
「製粉所が止まってるんです。粉が届かなければ、どうにもできません!」
「子供に何を食わせろってんだ!」
「グラティアならある! ほら、こんなにあるんだぞ!」
「店に粉がなければ、何グラティアあってもパンにはできません!」
列の後ろから、小石が飛んだ。
店先に掲げられた〈アベル王に感謝を〉という看板へ当たる。
「王様へ感謝しろだと? ふざけるな!」
「やめろ!」
止めたのは、パン屋の店主だった。
「水害のあと、店を再開できたのはアベル様のおかげだ。その看板を壊すんじゃねぇ!」
「だったら、今の俺たちはどうなる!」
「知らねぇよ! 俺だって困ってる!」
店主は、空の粉袋を地面へ叩きつけた。
「恩があることと、腹が減ってることは別だろうが!」
その一言で、列が少しだけ静かになった。
伶亜さんは何も言わなかった。
店主の声がした方へ顔を向けたまま、しばらく動かなかった。
「行こう」
俺たちは騒ぎを避け、裏通りへ入った。
伶亜さんは、ときどき立ち止まりながらも、迷わず進んでいく。
古い石壁に沿って歩き、孤児院の敷地にある、古い別棟の前へ出た。
木の騎士を持つ手が止まる。
「ここだ」
建物の正面には、新しい木の看板が掲げられていた。
〈セレノア児童生活訓練院 歩みの家〉
*
夜だというのに、建物には灯りが残っていた。
俺は扉を叩いた。
しばらくして、四十歳前後の女性が顔を出した。
栗色の髪を後ろで一つに束ね、紺色の質素な服に、使い込まれた白いエプロンを重ねている。
優しそうな顔をしているが、袖からのぞく腕や指には、長年働いてきた跡が残っていた。
「夜分にすみません。少しお尋ねしたいことが――」
女性の視線が、俺の持つ木の騎士で止まった。
「その人形を、見せていただけますか?」
俺は木の騎士を差し出した。
「それを、どこで?」
「公園で拾ったんです。連れが古い物を鑑定できるんですけど、価値のある物かもしれねぇって」
その人は、木の騎士と俺の顔を見比べた。
「かなり古いし、片腕も直してある。作った職人がまだいるなら、一度見てもらおうかなと」
彼女が、ぷっと吹き出した。
「ご、ごめんなさい。あまりに真剣なお顔でしたので」
「そんなにおかしかったですか?」
「これは、ルカのおもちゃです。残念ですが、価値のあるものではないと思いますよ」
「そうですか。そのルカ君に、どこで手に入れたのか聞けますか?」
その笑みが消えた。
「もう、ここにはいないんです」
「いつごろからですか?」
「二年ほど前からです」
アベルが王になったころと重なる。
彼女は、木の騎士の片腕を指でなぞった。
「本当に、公園で拾ったのですか?」
やっぱり、無理があったか。
ルカについて直接聞くしかない。話してくれるかは分からねぇが、これ以上ごまかす方が怪しい。
「持ち主を探しているのは本当です。ルカ君について、教えてもらえませんか?」
彼女が俺を見た。
「ルカは、生きているのですか?」
「まだ、はっきりしたことは言えません。ただ、危ない目に遭っている可能性があります」
「助けていただけますか?」
「そのために探しています」
彼女はしばらく黙っていた。
やがて木の騎士を俺へ返し、食堂の方を示した。
「分かりました。ルカと、この歩みの家についてお話しします」
「お願いします」
「ですが、ルカのことをお話しするなら、最初にアベル様のことから説明しなければなりません」
「申し遅れました。私はヘレナ。この〈歩みの家〉で、子供たちの世話をしています」
俺たちは、小さな食堂へ通された。
長机には細かな傷が残っている。
壁には、子供が描いたらしい絵が何枚も飾られていた。
その中に、白い服を着た男がいる。
子供たちに囲まれ、笑っていた。
「ここは昔、歩みの家などという立派な名前ではありませんでした」
ヘレナさんは、俺たちの向かいへ座った。
「身寄りのない子や、体に不自由のある子を、ただ集めておく場所でした。雨が降れば天井から水が落ち、冬になれば窓の隙間から雪が入りました」
「国は、何もしなかったのか?」
伶亜さんの声が少し低くなった。
「何度もお願いしました。ですが、水路も畑も城壁も直さなければならない。戦争に備えて、兵士も養わなければならない。国に余裕がないことは、私たちにも分かっていました」
「それで、ここの子たちは後回しにされたのか」
「はい。仕方がないことだと、何度も言われました」
仕方がない。
便利な言葉だ。
誰も悪者にならず、最後の奴だけが我慢させられる。
「職員も、一人ずつ辞めていきました。子供たちは、そのたびに、今までありがとうと言って見送りました」
「あなたも、辞めようとしたんですか?」
「はい」
ヘレナさんは、膝の上で両手を重ねた。
「子供たちが嫌いだったわけではありません。大切だったからこそ、最後まで残りました。ですが、私にも暮らしがあります。感謝だけでは、パンも薬も買えません」
「そのころ、アベルさんがここへ?」
「はい。まだ王になる前でした」
ヘレナさんの顔に、小さな笑みが浮かんだ。
「偉い方は、入口で話を聞くだけです。中へ入っても、きれいな部屋を見て帰ります。ですが、アベル様は雨漏りしている部屋まで入ってこられました。濡れた布団を運び、床を拭き、子供たちと同じスープを召し上がりました」
「その日だけですか?」
「いいえ。翌日も来てくださいました。その次の日もです」
「毎日?」
「はい。学校や市場を回ったあと、時間を見つけては、ここへ顔を出してくださいました」
「何をしに来ていたんですか?」
「私たちの話を聞くためです」
「アベル様は、来るたびに同じことを尋ねました」
『今、一番困っていることは何ですか?』
「雨漏り。食料。薬。働く者が足りない。私たちが答えるたびに、アベル様は紙へ書き留めました」
「ルカも、そのころからここに?」
「はい。生まれたときから目が見えませんでした。人と話すことも苦手で、いつも一人で木の騎士を動かしていました」
ヘレナさんが、俺の手元にある人形を見た。
「ある日、その騎士の腕が折れたのです。ルカは何も言いませんでした。ただ、折れた腕を何度も元の場所へ押しつけていました」
「アベルさんが直したんですか?」
「はい。アベル様はルカの隣へ座り、木の騎士を預かりました。次の日には、直して持ってきてくださったのです」
「そのとき、アベル様はこう言いました」
『前より強くしておいた。今度は、簡単には折れないよ』
「ルカは、つなぎ直された腕を何度も指で確かめました。それから、小さな声で言ったのです」
『ありがとう、アベル兄ちゃん』
「それが、ルカがアベル様へ初めて伝えた、ありがとうでした」
ヘレナさんは、当時を思い出すように目を細めた。
「その言葉を聞いたアベル様は、しばらく何もおっしゃいませんでした。やがてルカの頭へ手を置いて――」
『……そうだ。やっぱり、これでよかったんだ』
「そうつぶやいて、泣いておられました」
「ルカ君には?」
「見えていませんでしたけどね」
俺は人形の片腕へ触れた。
きれいな直し方ではない。
それでも、かなり頑丈に固定されている。
壊れたあとも遊べるように、何度も工夫した跡が残っていた。
俺は木の騎士を膝へ置いた。
ルカにとって、これはただのおもちゃじゃなかった。
初めてアベルへ感謝した日の記憶、そのものだったのかもしれない。
「あなたが辞めると伝えたのは、そのあとですか?」
「はい。子供たちは、私の服をつかんで離してくれませんでした。行かないで。今までありがとう。何度も、そう言ってくれました」
ヘレナさんは一度、息を整えた。
「それでも、私は残ると言えませんでした」
「どうしてです?」
「子供たちのことは大切です。ですが、私自身が食べていけなければ、ここで働き続けることはできません」
「まぁ、そうだよな」
伶亜さんが腕を組んだ。
「ありがとうだけで腹が膨れるなら、誰も苦労しねぇ」
「はい。当時の私も、そう思っていました」
「そのとき、アベル様が私へ尋ねました」
『この子たちの「ありがとう」で、パンが買えたら残れますか?』
「なんて答えたんです?」
「はい、と答えました」
ヘレナさんは、少し恥ずかしそうに笑った。
「ただ、そんなことは不可能だとも言いました。ありがとうは、ありがとうです。お金にはなりませんから」
「アベルさんは?」
「そうですか、と笑っていました」
「それから数日後、アベル様は何人もの役人と商人を連れて戻ってきました」
「アベル様は、子供たちや周囲の方から受け取った感謝を記録し、その働きに応じて、食料や生活に必要なものを受け取れる仕組みを試しました。最初は、この建物だけでした」
「あなたも使ったんですか?」
「はい。その記録を持って、パン屋へ行きました」
「本当に買えたんですか?」
「はい」
ヘレナさんは、はっきりとうなずいた。
「焼きたてのパンを、籠いっぱいにいただきました。ここへ戻ると、子供たちは歓声を上げました」
「ルカは、パンへ触れてから尋ねました」
『僕たちの、ありがとうで買えたの?』
「私は、はいと答えました」
ヘレナさんは、そこで一度言葉を止めた。
目に涙が浮かんでいる。
「私たちの『ありがとう』が、初めてパンになったのです」
「その仕組みが、国中へ広がったんですか?」
「はい。歩みの家から救護院へ。救護院から学校へ。学校から市場へ。人から見えなかった仕事にも、感謝が集まるようになりました」
子供の世話をする人。
病人の体を拭く人。
夜中に水路を見回る人。
「それまでお金にならないと捨てられていた仕事で、人が暮らせるようになったのです」
「ルカ君にも、何か変化はあったんですか?」
「はい。アベル様と、歩く練習を始めました」
ヘレナさんは、食堂へ続く廊下の手すりを見た。
「ルカは、歩くことを怖がっていました。目が見えないうえ、当時のここには、あの子へ歩き方を教えられる者もいませんでした」
アベルは、ルカが大切にしていた木の騎士を手に取り、こう尋ねたという。
『この騎士になって、歩いてみる?』
ルカがうなずくと、子供と同じくらいの背丈をした、小さな木の騎士へ姿を変えた。
「目の前でルカが騎士へ変わったときは、本当に驚きました。アベル様は、ご自分だけが使える魔法なのだとおっしゃっていました」
『前へ三歩』
アベルが命じると、小さな騎士は一歩ずつ足を出した。
『止まる。音のする方を向く。左腕を前へ。右手で手すりをつかむ』
「騎士になったルカの身体には、アベル様の命令が届きました。人間へ戻ったあとも、足の運び方や、歩いたときの感覚は残っていたそうです」
最初は、たった三歩。
次は、廊下の角まで。
何度も繰り返すうちに、ルカは少しずつ、歩くことを怖がらなくなった。
「やがて、自分の足でも、この廊下を歩けるようになりました」
「騎士になったルカを、アベルさんはどうやって戻したんです?」
「練習が終わるたび、ルカへ謝っていました」
ヘレナさんは、当時の言葉を思い出すように、ゆっくり続けた。
『怖い思いをさせて悪かったね。ルカ、許す』
「ルカは、不思議がっていました。アベル兄ちゃんが悪かったと謝るのに、そのあと僕を許すって言う。逆じゃないの、と」
俺は、保管庫で話した二つの言葉を思い出した。
反省。
許す。
反省していたのは、ルカじゃない。
危険な練習をさせたと思った、アベルの方だ。
それでも、アベルが『許す』と言えばルカは戻った。
仮説は当たっていた。
「このことは、ほかの人も知っているんですか?」
「いいえ。ルカが騎士の姿になっていたことは、決して他言しないよう、ミレーユ様からきつく言われました。理由までは聞かされていません」
「だったら、どうして俺たちに?」
ヘレナさんは、すぐには答えなかった。
「そのミレーユ様が、ある日を境に戻らなくなりました。ルカもです」
ヘレナさんの目が、俺の膝にある木の騎士へ落ちる。
「ルカが戻らなくなったあとも、街ではアルディーンが活動を続けていました。同じ言葉を繰り返し、同じ歩数で進み、同じ腕の動かし方で人を守る。あれは、ここで何度も練習していたルカの動きです」
毎回、同じ台詞。同じ歩数。同じ構え。
あれは、偽物だから決められた動きしかできなかったんじゃない。
目の見えないルカが、怖がらずに歩けるようになるまで、何度も身体へ覚え込ませた動きだったのか。
「最初から、アルディーンの姿だったんですか?」
「いいえ。最初は、この人形に似た小さな騎士でした」
それからしばらくして、新聞に国外の勇者アルディーンの記事が載った。
アベルは、その記事をルカへ何度も読み聞かせたという。
『困っている人を助けて、その姿を見た人にも、誰かを助けることを教える英雄なんだ』
ルカは、何度も続きを聞きたがった。
『僕にも、できる?』
『できるよ。今度は、君が人を助ける側になるんだ。それも、英雄として』
『やってみたい』
「それから、ルカはアルディーンの姿へ変えられるようになりました」
名乗り方も、人を助けるときの動きも、二人はこの廊下で何度も練習した。
三歩進む。音のする方を向く。左腕で人を守り、右手で危険を止める。
最初は歩くためだった力が、やがて人を助けるために使われるようになった。
そして今は、同じ動きを繰り返す偽物のアルディーンとして、閉じ込められている。
「秘密を守るよう言った方も、守られていた子も戻ってこない。もう黙っていることが、お二人を守ることになるとは思えません」
「あの感謝鳥は、いつからアベルさんと一緒に?」
「もともとは、この家で保護した魔鳥です。見つけたのはルカでした。鳴き声を聞きつけて、羽を怪我したあの子を連れてきたのです」
「ルカが餌を与えると、鳥は初めて言葉を発しました」
『ウレシイ』
「そのあと、子供たちの前で支援を約束した役人がいました」
「そのときは何と?」
「カナシイ、と」
「アベル様が調べると、その役人は救護院へ送られる薬を横流ししていました。感謝鳥がいなければ、薬がなくなった理由は分からなかったと思います。役人は捕まり、薬も戻りました」
「その役人は、どうなったんです?」
「自分の過ちを認めました。アベル様は、もう一度やり直す機会を与えました」
薬を取り戻した。
犯人は過ちを認めた。
そのうえ、人生をやり直す機会まで与えた。
そりゃあ、感謝されるだろうな。
「それから、アベルさんは感謝鳥を信じるようになったんですか?」
「はい。以前よりも、ずっと」
ヘレナさんの話を聞くかぎり、最初は本当の「ありがとう」を見つけるためだった。
次は、嘘の感謝を見つけるために使った。
やがてアベルは、人が正しいかどうかまで、感謝の強さで確かめるようになったらしい。
「アベルさんが、ここへ来なくなったのはいつですか?」
「王になられてからも、しばらくは来てくださいました」
「では、何が変わったんです?」
「尋ねることが変わったのです」
「以前は、いつもこう尋ねてくださいました」
『今、一番困っていることは何ですか?』
「それが、いつからか――」
『今日は、誰に感謝しましたか?』
『誰から感謝されましたか?』
「そう尋ねるようになりました」
「感謝が少ないと、アベル様は悲しそうな顔をされました。自分の作った仕組みが、まだ国民に理解されていないのだと」
「反対する奴はいなかったのか?」
伶亜さんが聞いた。
「いました」
「そいつらは、どうなった?」
ヘレナさんは、すぐには答えなかった。
「アベル様の前から、いなくなりました」
感謝の家へ送られたのか。
それとも、別の場所へ消されたのか。
俺には分からない。
ただ、この人も何かがおかしくなっていることには気づいているようだった。
それでも、アベルのことを悪くは言わなかった。
外から、遠い怒号が聞こえた。
言葉までは聞き取れない。
だが、街が荒れているのは、ここにいても分かる。
「街で何が起きているかは、私も知っています」
ヘレナさんが言った。
「感謝裁判のことも、感謝の家へ送られた方が戻ってこないことも、知っています」
「それでも、アベルが正しいと思ってんのか?」
伶亜さんが聞いた。
「正しいです」
ヘレナさんは、一瞬も迷わなかった。
「アベル様は、私たちの『ありがとう』を、本当にパンへ変えてくださったのです」
「人を物に変えてもか?」
伶亜さんが問い返した。
ヘレナさんの目が、大きく見開かれた。
「……人を?」
その反応で分かった。
この人は、感謝の家で何が行われているのか知らない。
「あ、いや――」
どう伝えるべきか迷っていると、伶亜さんが続けた。
「感謝の家へ送られた奴らは、反省するまで物に変えられてる。戻れねぇままの奴もいる」
ヘレナさんは、しばらく言葉を失っていた。
「……知りませんでした」
「それでも、アベルが正しいと言えるのか?」
ヘレナさんは膝の上で、両手を強く握った。
「今のお話が本当なら、その行いを正しいとは言えません」
それでも、顔を上げる。
「ですが、アベル様が私たちを救ってくださったことまで、間違いにはなりません」
声は震えていない。
「あの方がいなければ、この子たちは今も、寒い部屋で空腹に耐えていました。歩みの家も、なくなっていたでしょう」
ヘレナさんは、壁に飾られた絵を見た。
どの絵にも、同じ男がいる。
白い服を着て、子供たちに囲まれて笑っている。
「私たちにとって、アベル様は神様のような方です」
恐怖で言わされているようには見えなかった。
俺には、この人が自分の救われた日を、今も忘れずにいるように見えた。
子供たちの「ありがとう」で手に入れた、あの日のパンの温かさまで。
「皆さんが、今のアベル様を止めようとしていることも分かっています」
ヘレナさんは、俺と伶亜さんをまっすぐ見た。
俺たちは黙って、彼女の次の言葉を待った。
「それでも、ありがとうで暮らせる国を作ることって、素晴らしいことだと思いませんか?」




