73 この子たちの「ありがとう」(前編)
アベルは三つのオブジェを満足そうに見回すと、感謝の家を出ていった。
扉が閉まる。
鍵の回る音がした。
俺は豚の貯金箱のまま、耳を澄ませた。
一人。
二人。
三人。
廊下に残っていた近衛兵の足音まで遠ざかる。
完全に聞こえなくなってから、さらに十数えた。
誰も戻ってこない。
俺は三枚の葉へ意識を集中させた。
「解除」
英雄像が誠司さんへ戻る。
祈りを捧げる聖女像から、聖華さんが現れた。
俺も豚の貯金箱をやめ、いつもの姿へ戻った。
聖華さんが、胸へ手を当てて息を吐いた。
アベルは、俺たちへ命令を入れたつもりでいる。
明日の正午には、中央競技場で本物の英雄を決めるらしい。
それまでに、こちらも準備を整えないといけない。
天井から、かすかな音がした。
誠司さんが身構える。
俺は上を見た。
通気口の蓋が持ち上がり、小さな影が音もなく下りてくる。
リーズだった。
続いて、黒いサングラスをかけた伶亜さんが降りてくる。
保管庫には、扉の隙間から廊下の灯りが細く差し込んでいるだけだった。
「リーズさん、伶亜さん!」
聖華さんが、ほっとしたように二人の名を呼んだ。
「よ」
伶亜さんが軽く片手を上げる。
リーズは小さくうなずくと、すぐに切り出した。
「街が騒がしくなっています。王宮の衛兵も、各地区へ応援に出されていました」
「警備は?」
「人数は増えていますが、命令系統は乱れています。侵入は難しくありませんでした」
伶亜さんが鼻で笑った。
「素人には厳しくなっただろうけどな。あたいらには、こういうときの方が楽だ」
プロの泥棒みたいなことを言う。
伶亜さんが、石壁へ背を預けた。
「あいつ、いろいろ言ってたけどよ。結局、何がしたいんだ?」
「え、えーと……」
聖華さんが、困ったように瞬きをする。
「本物のアルディーンを決めて、国を救いたい……のでしょうか」
「それだけではないと思います」
誠司さんが答えた。
「国を救うことと、自分の正しさを証明することが、混ざっています」
「自分を否定した者への、深い憎悪も感じます」
リーズまで、難しい顔で続けた。
思惑まで考え始めると、話がややこしくなる。
俺は話をまとめることにした。
「いったん、あいつがやろうとしていることを整理してみよう」
みんなの視線が俺に集まる。
「あいつは、本気で国を救いたいんだと思う。それと同じくらい、自分が正しいとも認めさせたい。明日の試合で、両方まとめて証明するつもりなんだ。ルカを悪役にして、白い誠司さんが倒す――」
しまった。
「白い誠司さん?」
聖華さんが驚いて、誠司さんを見た。
「そういえばアベルさん、誠司さんに向かって『本物のアルディーン』と言っていませんでしたか? それに、アルディーン様も、どこか誠司さんに似ているような……」
瓜二つだろ。
誠司さんの顔には、まずいと書いてある。
リーズは額を押さえた。
伶亜さんは、あんたらまだこれやってたのか、という顔をしている。
「白いアルディーンは、誠司さんに代役をしてもらうんだ。な、誠司さん?」
「……はい。頑張ります」
もうやめようぜ、この茶番。
「頑張ってください、誠司さん!」
聖華さんだけは、ガッツポーズまでして本気で応援していた。
俺は咳払いして、話を戻した。
「それから、聖華さんに白が正しいと言わせ、その結果を新聞で国中へ伝える」
「出来レース、ということでしょうか」
「もっとたちが悪い。自分で問題を作り、自分で答えて、自分で百点をつける。そのうえ、国民全員に拍手させようとしている」
「気持ち悪いな」
伶亜さんが即答した。
「けど、国を救いたいって気持ちまで嘘なのか?」
「いや。そこは本気だと思う」
「それで、止まっている製粉所はどうするのですか?」
聖華さんが尋ねた。
「何も変わらない。試合をしても、粉もパンも増えない。あいつは国の問題を解決するより、自分が正しいと国民へ見せようとしてるんだ」
「この戦いの完全勝利って、何だと思う?」
最初に答えたのは伶亜さんだった。
「アベルをぶちのめすこと」
迷いがない。
「あたいだって、褒められた生き方はしてねぇ。生きるために悪いこともした。けど、それを善意だなんて言ったことはねぇよ」
「アベルさんは、最初から誰かを苦しめたかったわけではないと思います」
「だから危ねぇんだ。自分が善いことをしてると思ってる奴は、どこまでやるか分からない」
「私は、仲間へ危険が及ぶ行動は避けるべきだと考えます」
リーズが言った。
「アベル王が、苦しむ人を助けようとしていたことは理解できます。だからといって、犯したことが正しくなるわけではありません」
「僕は、まず能力を止め、オブジェにされた方々を元へ戻すべきだと思います」
誠司さんは、そこで一度言葉を切った。
「そのあと、彼には自分のしたことと向き合ってもらいます」
「私は、アベルさんにやり直してほしいです」
聖華さんが、胸の前で両手を握った。
「人を傷つけ、命まで奪ったことは消えません。それでも、間違いを認めることから逃げないでほしいです」
「何言ってんだ。あいつは一度ぶん殴られなきゃ分からねぇよ」
「暴力では解決しません!」
「そういうところがあめぇんだよ。だから偽アルディーンにいいところを持っていかれるんだ」
「偽アルディーンは、いま関係ありません」
「関係あるだろ。だいたい、あんたは――」
「伶亜さん。その先はいったん飲み込んで」
「リーズさんは、どう思いますか?」
「……沈黙をお許しください」
「だから、その沈黙はどっちなんだよ」
「まずは話し合うべきです」
「話して分かる相手なら、こうなってねぇだろ!」
まずい。
完全に収拾がつかなくなってきた。
「ちょっと待って」
俺は二人の間へ割って入った。
「ごめん。俺から振っておいて悪いが、堂々巡りになっちまったな」
俺はいったん、話を仕切り直した。
「みんなの意見で共通してるのは、まずオブジェにされた全員を戻す。これ以上、誰も消させない。アベルの力を止める。そこまでは全員同じですよね?」
すぐには返事がなかった。
「……そこまではな」
伶亜さんが、しぶしぶ答えた。
「異論はありません」
リーズも同意した。
「だったら、最初に全員を戻す方法を考えよう」
俺が言うと、誠司さんが声を落として続けた。
「こちらが試合に勝っても、加藤君たちは戻りません。鍵になるのは、『許す』です。ダリオさんは、自分の間違いを認めました。そのあと、アベル王が『許す』と言ったことで元へ戻った。同じ力なら、ほかの方々も『許す』の言葉でオブジェから戻る可能性があります」
「だったら、『許す』って言わせたらいいんじゃねぇか?」
「どうしたら、言ってもらえるのでしょうか?」
「脅して言わせりゃいいだろ。『許す』って言えって!」
「それでは、余計にこじれるだけではありませんか?」
誠司さんが静かに問い返し、そのまま続けた。
「ダリオさんの場合は、本人が自分の過ちを認めたあと、アベル王が『許す』と言いました。おそらく、あれが正しい手順です」
ダリオが反省し、アベルが許した。
俺は、特記事項の一文を思い出した。
『僕に逆らったやつは、冷たく狭い檻の中で反省しろ。
自分が何を間違えたのか、本当に理解するまで、そこから出てくるな』
自分が何を間違えたのか。
文章どおりに読めば、この〈自分〉は檻へ入れられた奴のことだ。
だが、本当にそれだけか?
「この〈自分〉って、アベル自身でも通らないか?」
みんなが、何を言っているのか分からないという顔をした。
「〈僕〉はアベルで固定されてる。けど、〈自分〉が誰を指すかまでは、能力の側がどう判断しているか分からない」
俺は、頭の中で二つの言葉をつないだ。
反省。
許す。
「もしかして、反省するのは、閉じ込められた本人じゃなくてもいいのか?」
「アベル王自身が、自分のしたことを反省するということですか?」
「ああ。そのうえで、アベルが『許す』と言う。それでも力は動くんじゃないか?」
誠司さんはすぐには答えなかった。
顎へ手を添え、しばらく考え込む。
「……なるほど」
やがて顔を上げた。
「面白い仮説です。文章どおりなら、反省するのは檻へ入れられた本人です。しかし、能力がこの〈自分〉をどう判断しているのかまでは分かりません。その理屈なら、アベル王自身の反省でも条件を満たす可能性があります」
ただし、まだ仮説だ。
もう一つ、確かめる材料が欲しい。
ルカは何も教えてくれない。
何か手がかりはないか。
俺は、さっき拾った木の騎士を手に取った。
こいつのことを、もっと聞けないだろうか。
「俺たちが競技場へ運ばれるのは、いつか分かるか?」
「はい。先ほど、アベル王が衛兵へ指示しているのを聞きました。予定では、日の出から一時間後です」
月はもう出ているが、まだ商店が開いている時間だ。
夜明けまでは、まだ余裕がある。
「なら、動けるな。時間があるかぎり、この仮説を確かめたい」
俺は通気口を見上げた。
「リーズ。頼んでいたものはできてる?」
「はい」
リーズが、細長い包みを三つ降ろした。
中に入っていたのは、薄い板と布で作られた身代わりだった。
英雄像と聖女像は、遠目ならそれらしく見える程度だ。
「よくできていますね」
聖華さんが感心したように言った。
「近くで見れば、すぐにばれます。即席ですから」
リーズは、最後の一つを取り出した。
豚の貯金箱だ。
完成度だけなら、三つの中で一番高い。
「もっと単純な形なら、すぐに用意できたのですが。これは簡単でした」
俺って、そんな単純な形だったのか。
「これを置いておけば、少しの間は探索できるな」
身代わりを、俺たちが置かれていた場所へ並べた。
「僕も、確認しておきたい場所があります」
誠司さんが言った。
「私も、行っておきたい場所があります」
「分かりました。二人とも、見つからないようにしてください」
誠司さんと聖華さんは、それぞれ別の目的地へ向かった。
俺は例の高速移動で何度か王宮へ忍び込み、鏡の置かれた部屋をのぞいては戻っていた。
元いた場所へ寸分違わず戻るのも、もう慣れたものだ。
おまけに保管庫は暗い。誰にも気づかれていない。
狙いはミレーユさんだったが、鏡のそばにはアベルがいる。
のぞくたびに、同じ言葉を繰り返していた。
『僕が正しいと証明する』
『今度こそ、全員に認めさせる』
声も怒りも、だんだん大きくなっている。
あの状態では、ミレーユさんから話を聞くのは難しい。
アベルが眠るまで待つか。
……そもそも、あいつは今夜寝るのか?
俺は木の騎士へ目を落とした。
ミレーユさんが駄目なら、ルカ本人に聞きたい。
だが、オブジェにされたルカは何も話せない。
この人形から、何か分からないか。
「しげるさん。さっきから、その玩具ばかり見てるけど、気になるのか?」
伶亜さんが声をかけてきた。
「ああ。ルカって子のものらしい。本人は、向こうでオブジェにされちまってるけどな。アベルの力を一番よく知ってるのは、たぶんルカかミレーユさんだ」
「貸してみな」
「分かるんですか?」
「あたいを誰だと思ってる」
誰って、伶亜さんだろ。
……あ。
そういえば教団の地下でも、物に残った思念を読み取っていた。
すっかり忘れてた。
これは期待できるかもしれない。
伶亜さんは木の騎士を受け取り、指先でゆっくり形を確かめた。
やがて、その指が止まる。
「追えると思う」
まじか。すげぇ。
「ついてきな」
伶亜さんは木の騎士を持ち、通気口へ向かった。
俺も慌てて、そのあとに続いた。




