72 僕は嘘つきじゃない
夜の感謝の家。
僕は、保管庫に一人でいた。
衛兵には、今夜は誰も中へ入れるなと命じてある。
いつからだろう。
僕が、一人でいる方が楽だと思うようになったのは。
ここは静かだ。
誰も僕の言葉を遮らない。
疑わない。
否定しない。
「僕は、嘘つきじゃない」
まただ。
気づくと、同じ言葉を口にしている。
当然だ。
僕は嘘などついていない。
それなのに、あいつらは何も分かってくれない。
僕の前には、三つの新しいオブジェが並んでいる。
せいじ。
せいか。
豚。
僕は、英雄像の頭を撫でた。
人に隠れて英雄を名乗る。
子供じみた遊びだ。
けれど、人々がせいじを本物だと信じているなら、その名前には価値がある。
英雄像の台座には、大きな〈感謝〉の文字。
右下にも、少し崩れた同じ文字が刻まれていた。
やはり、せいじも最後には理解したんだ。
「よかったね、せいじ。お前はこれから、本物のアルディーンになる」
返事はない。
いつものことだ。
ここにいる者たちは、誰も返事をしない。
それでいい。
審問は通った。
今のお前なら、もう僕の命令を拒まない。
僕が、お前の力を正しく使ってやる。
せいかは、ミレーユに代わる第二の聖女だ。
僕へ意見したことは残念だが、あの清らかな力は役に立つ。
国民の前で、僕と英雄を祝福させよう。
豚の貯金箱が目に入った。
5。
何度測っても、感謝精度は5。
僕の努力を理解する知性がないのだろう。
それでも、感謝を蓄える器くらいにはなる。
「アベル様」
扉を叩く音がした。
「今夜は誰も入れるなと告げたはずだ」
「申し訳ありません。急ぎ、お耳に入れるべきかと」
僕は扉を開けた。
「分かった。要件を言え」
近衛兵が、その場で膝をついた。
「北の製粉所が停止しました。市場ではリラで直接取引する者が増え、グラティアを受け取らない店まで出ています」
「感謝を得られる仕事を増やせ」
「募集は出しております。しかし、水車を修理できる職人が……」
「困っている人がいるんだ。直せば感謝される。なぜ、誰もしない?」
近衛兵は答えなかった。
「修理のできる者なら、感謝の家におります」
「だったら、反省した者から戻せばいい」
「誰が本当に反省したのかを判断できるのは、アベル様だけです」
僕は答えなかった。
近衛兵が差し出した報告書には、水路、製粉所、畑、倉庫と、問題の起きた場所が並んでいる。
なぜ、一度に壊れる。
分かっている。
感謝の国は、まだ完成の途中だ。
完成すれば、誰もが困っている人を助け、その働きが正しく報われる。
今は少し、うまく回っていないだけだ。
なのに、なぜ皆は完成まで待てない。
なぜ、途中で僕を責める。
「もういい。下がれ」
「はっ」
扉を閉め、鍵をかけた。
いら立っている。
少し、落ち着かなくてはならない。
高い通気口から、月明かりが差し込んでいた。
あの夜も、こんな月だった。
*
子供のころから、僕は兄と比べられていた。
試験の点数。
運動。
進学した学校。
就職してからは、会社の名前と給料。
兄は、何でも数字にして比べたがった。
僕は競争が嫌いだった。
負けるのが怖かったわけじゃない。
誰かが上へ行くために、別の誰かを下へ置く。その考え方が、どうしても好きになれなかった。
介護施設で働き始めたとき、ようやく自分の居場所を見つけたと思った。
朝、カーテンを開ける。
食事を運ぶ。
歩く練習に付き添う。
眠れない人の話を聞く。
一人が笑っても、誰かが負けるわけじゃない。
僕が手を貸せば、その人の一日が少しだけ楽になる。
僕は、この仕事が好きだった。
「阿部君、悪いねぇ」
「悪くありませんよ。これが僕の仕事です」
「ありがとう。また明日もお願いね」
ハルさんは、いつもそう言って笑った。
人に迷惑をかけたくないと、何でも自分でやろうとする人だった。
だから僕は、少し離れたところから見守った。
ほかの入居者からも、名前を呼ばれた。
「阿部君、ちょっと来てくれる?」
「阿部君なら安心だ」
「君だけが頼りだよ」
その言葉があれば、夜勤が続いても頑張れた。
兄には、安い給料で老人の世話をして何になると笑われた。
「ありがとうで家賃が払えるのか?」
払えない。
それでも、あのころの僕には、それでよかった。
ある夜、施設の洗濯室から火が出た。
古い乾燥機の配線が焼け、廊下に黒い煙が流れ込んだ。
僕は火災報知器を鳴らし、動ける人を非常口へ誘導した。
車椅子を押し、ベッドから起きられない人を背負った。
煙で何も見えない廊下へ、何度も戻った。
最後に連れ出したのは、ハルさんだった。
「阿部君……ありがとう」
その言葉を聞いた瞬間、足から力が抜けた。
入居者は、全員助かった。
翌日、施設の前に記者が集まった。
『夜勤職員、炎の中から入居者を救出』
新聞に、僕の名前と写真が載った。
兄から、何年ぶりかに電話が来た。
「すごいじゃないか。お前は昔から、やるときはやると思ってたんだ」
昨日まで、安い給料の仕事だと笑っていた兄が、僕を誇りだと言った。
親戚にも、会社の同僚にも、新聞の記事を見せて回ったらしい。
父も、よくやったと褒めてくれた。
施設では、入居者の家族まで僕へ頭を下げた。
「ありがとうございました」
「阿部さんがいてくださって、本当によかった」
不思議だった。
僕は昨日までと同じように働いただけだ。
それなのに、新聞へ載った途端、誰もが僕に注目した。
僕は、みんなから感謝された。
もっと頑張ろうと思った。
もっと助ければ、もっと喜んでもらえる。
もっと、ありがとうと言ってもらえる。
そのためなら、どれだけ勉強しても苦しくなかった。
介護福祉士の資格を取り、次の資格の勉強も始めた。
人が嫌がる夜勤も引き受けた。
けれど、そんな注目は長く続かなかった。
家族からの連絡も減った。
施設で僕を囲んでいた人たちも、いつもの生活へ戻っていった。
また、誰にも見られない毎日が始まった。
最初は、本当に小さなことだった。
中庭のベンチがぐらついているのに気づいた。
すぐに直せた。
でも僕は、入居者が集まる時間まで待った。
皆の前で直すと、何人もの人が僕に感謝した。
次は、誰も見ていない廊下で、転びそうになった入居者を支えたと報告書へ書いた。
本当は、そんなことは起きていない。
でも、僕は毎日、本当に大勢を助けている。
誰も傷ついていない。
見えない働きを、少しだけ見える形にしただけだ。
一つが、二つになった。
やがて、防犯カメラの記録と僕の報告が合わないことを指摘された。
始末書を書かされた。
解雇はされなかった。
人手が足りなかったからだ。
けれど、それからは何を報告しても、まず疑われるようになった。
以前、僕を英雄として取り上げた新聞は、今度は別の見出しを出した。
『火災から入居者を救った介護職員、業務報告を偽造』
僕が偽造したのは、火災とは関係のない報告書だ。
だが、噂にそんな区別はなかった。
最初は、ほかの報告も怪しいという話だった。
それが、火災の救助も作り話ではないかとなり、最後には――。
『あの火事も、自分で起こしたんじゃないか』
そんな話にまで膨らんでいた。
兄は、最初の記事を会社の同僚や親戚へ見せて回っていた。
今度は、その同じ人たちから、僕の偽造や火災について聞かれたらしい。
兄から届いた言葉は、短かった。
『あの火事も、お前が仕組んだのか』
『違う。あれは本当に――』
『もういい。二度と俺に連絡してくるな』
ついこの前まで、僕を誇りだと言っていたのに。
職場でも、僕を見る目は変わった。
報告をすれば疑われる。
誰かを助けても、何か裏があるのではないかと囁かれる。
そんな中でも、ハルさんだけは変わらなかった。
「阿部君。今日も歩く練習に付き合ってくれる?」
「もちろんです」
廊下を一往復すると、ハルさんはいつものように笑った。
「ありがとう、阿部君。あなたがいてくれると安心するよ」
新聞のことを知らなかっただけかもしれない。
それでも、あのころの僕にとって、変わらず名前を呼んでくれる人はハルさんだけだった。
そんなころだった。
歩行訓練の途中、ハルさんが廊下の手すりへ体重を預けた。
その瞬間、手すりがわずかに沈んだ。
壁との間に、細い隙間が開く。
ハルさんが手を離すと、元の位置へ戻った。
見ただけでは、壊れかけていると分からない。
危険だ。
僕はすぐに報告書を書いた。
夜中に一人で立とうとする人がいる。
修理が終わるまで人を増やしてほしい。
何度も書いた。
何度も話した。
「一度でいいから、実際に見に来てください」
「また阿部君の大げさな報告か」
「分かったから、話を作るのはやめろ」
違う。
今度は本当だ。
僕は、ハルさんのそばに残るようにした。
僕が支えていたから、事故は起きなかった。
たった一度。
別の部屋から呼ばれ、目を離した、その一度だけだった。
ハルさんは一人で立ち上がった。
つかんだ手すりが壁から外れた。
鈍い音が、廊下へ響いた。
僕は前から言っていた。
けれど、事故のあと、僕が提出した報告書は記録ごと消えていた。
「事故が起きてから、前にも言ったことにしたんだろう」
「自分の責任を逃れたいからって、嘘をつくな」
違う。
火事も、手すりも、嘘じゃない。
どうして、誰も分かってくれないんだ。
ハルさんが施設へ戻ったあと、僕は面会室へ会いに行った。
彼女は、僕の顔をしばらく見つめた。
「……どちらさまですか?」
病気のせいだ。
僕を嫌いになったわけじゃない。
分かっている。
分かっているのに、全身から力が抜けた。
立っていられず、その場へへたり込む。
泣くつもりなんてなかった。それなのに、気づけば涙が次々にこぼれていた。
ハルさんからもらった〈ありがとう〉だけが、最後まで僕を支えていた。
それさえ消えてしまったら、もう立ち上がれなかった。
翌日から、僕は職場へ行けなくなった。
家に閉じこもり、何日過ぎたのかも分からなくなった。
ある夜、インターネットの掲示板で、奇妙な書き込みを見つけた。
『新しい人生に挑戦したいなら、深夜2時にパソコンを北へ向け、窓を開けたまま両手を上げて待て』
冗談にしか見えなかった。
それでも、気づけば僕は、書かれていた指示に従っていた。
〈新しい人生〉という言葉に、すがるように。
パソコンを北へ向け、窓を開けたまま両手を上げる。
深夜2時。
パソコンが青い画面で立ち上がった。
『新たな人生に挑戦したい方は、次へ進んでください。戻るには寿命の半分が必要となります』
その先には、新しい人生の能力を決める画面があった。
一番下に、〈特記事項〉と書かれた大きな空欄がある。
僕は、思いつくままに文字を打ち込んだ。
『みんな僕を信じてくれ。僕は嘘つきじゃない。
僕は本物なんだ。僕ほどみんなのために頑張っている人間はいない。
僕がしてきたことを正しく理解すれば、みんな僕に感謝するはずだ』
そこで、やめればよかった。
けれど、指は止まらなかった。
僕を笑った兄。
僕の報告書を、記録ごと消した上司。
事故のあとで、僕を嘘つきと呼んだ人たち。
全員の顔が浮かんだ。
兄には、金も、肩書きもあった。
施設を管理する人間には、人を動かす権限があった。
僕より賢いんだろ。
僕より立派なんだろ。
僕より強い力を持っているんだろ。
だったら、お前らは何をした。
人のために、その力を使ったのか。
ハルさんが危ないと訴えた僕を疑い、自分たちの責任を守っただけじゃないか。
僕は、安い仕事だと笑われても、人を助けてきた。
お前らより、ずっと人のために働いてきた。
腐っているのは、僕じゃない。
力を持ちながら、正しく使おうとしないお前らの方だ。
だったら、僕が決めればいい。
誰が正しくて、誰が間違っているのか。
その力を、何のために使うべきなのか。
僕が、お前らの上に立てばいい。
『そうだ。
僕こそが、お前らの王にふさわしい。
僕に逆らったやつは、冷たく狭い檻の中で反省しろ。
自分が何を間違えたのか、本当に理解するまで、そこから出てくるな。
その力を、今度こそ正しく人々のために使え。
悔い改めることすらできない人間に、存在する価値なんてない。
どれだけ謝っても、許すかどうかを決めるのは僕だ。
僕が許すまで、その檻から出られると思うな。
たとえ僕が死んでも、この世界が終わるまで、ずっとだ』
*
今度こそ、うまくやろうと思った。
人を助ける。
ありがとうと言ってもらう。
前の世界で好きだった、人を助ける日々を、この世界でもう一度始めた。
ミレーユは、最初に僕を信じてくれた。
僕が救った人を治療し、配給の名簿を作り、僕の考えを制度へ変えてくれた。
加奈子は、僕のしたことを記事にした。
誰にも見えていなかった働きを、国中へ知らせてくれた。
あの二人がいたから、僕の善意は消えなかった。
今度こそ、正しく報われる国を作れると思った。
どれほど正しい制度を説明しても、人はすぐには理解しない。
前の世界でもそうだった。
どんな手順書より、目の前でやって見せた方が早い。
だから僕は、誰にでも理解できる英雄を作った。
古い英雄像へ目を向けた。
ルカ。
初めて会ったとき、ルカは孤児院の前で、壊れた木の騎士を抱えていた。
配給名簿から名前が漏れ、その日のパンも受け取れずにいた。
僕は名簿を直し、パンを渡した。
木の騎士の取れた腕も、接着剤でつなぎ直してやった。
「ありがとう、アベル兄ちゃん」
この世界へ来て、初めてもらった〈ありがとう〉だった。
ルカは英雄に憧れていた。
僕の考えたアルディーンの話をすると、目を輝かせた。
「僕も、困っている人を助けたい」
だから、最初のアルディーンに選んだ。
危機が起きれば、ルカを英雄の姿にする。
人々を救ったあとには〈許し〉、人間へ戻す。
ルカは何度も人を助けた。
助けられた人は笑い、ルカも笑っていた。
そのとき、感謝の家の外から、遠い叫び声が届いた。
「アルディーンを呼べ!」
「アルディーンなら、何とかしてくれる!」
さっき報告にあった、市場の連中か。
僕ではなく、アルディーン。
なぜだ。
お前は、僕が作ったただのお手本じゃないか。
僕の考えを、あいつらの頭でも分かるようにしただけの教本だ。
誰を助けるのか決めたのも僕。
何をすれば人々が喜ぶのか考えたのも僕。
お前は、僕の指示どおりに動いただけだ。
呼ぶなら僕だろう。
感謝すべき相手は、僕だろうが。
けれど、あいつらには分からない。
アルディーンが人を助ける。
人々が喜ぶ。
新聞が伝える。
感謝が集まる。
最初は、本当に起きた危機だけだった。
けれど、それでは足りなかった。
危機が起きるのを待っていては、国民へ正しい行いを教えられない。
だから僕は、必ず助けられる範囲で危機も用意した。
誰も傷つけるつもりはなかった。
最後には全員助かる。
それなら、避難訓練と同じだ。
次は、もっと多くの人へ見せようと思った。
配給所を一日だけ止める。
人々が困り始めたところへ黒い鎧を送り込み、食料を奪わせる。
そこでアルディーンが現れ、食料を取り戻す。
代わりの食料は、すでに用意してある。
衛兵も治療師も配置する。
誰にも危険はない。
これが成功すれば、古いやり方では国民を救えないと、誰にでも分かる。
僕の制度が必要だと、皆が理解する。
計画を説明している途中で、ルカが僕の袖をつかんだ。
「アベル兄ちゃん。もういいよ」
「何が?」
「これ以上、行かないで」
責めるような声ではなかった。
だからこそ、腹が立った。
最初に僕へ感謝した君まで、僕を否定するのか。
君は、人を助けたいと言った。
僕が、その願いをかなえてやった。
それなのに途中で怖くなり、僕だけを悪者にする。
だから僕は、ルカが迷わず正しい行いを続けられる姿にした。
もう人間へ戻す必要はない。
アルディーンとして、困っている人を救い続ければいい。
加奈子も、最初は僕を信じていた。
僕が夜中まで配給名簿を直したこと。
薬を届けるため、自分の食事を後回しにしたこと。
誰にも見られていない場所で働いたこと。
加奈子は、そのすべてを記事にしてくれた。
「見ている人は、ちゃんといます。あなたがしてきたことは、私が伝えます」
その言葉が嬉しかった。
前の世界にも、加奈子のような人がいてくれたら。
僕が本当に人を救ったことを、正しく伝えてくれる人がいたら。
僕は嘘つきになんてされなかった。
だが、加奈子は取材を続けた。
同じ時刻に現れる黒い鎧。
襲撃が起きる前から用意されていた救援物資。
アルディーンが到着する時間まで書かれた衛兵の配置表。
彼女は一枚の紙を、僕の前へ置いた。
「この予定表は、何ですか」
「訓練だよ。危機が起きたとき、全員が正しく動けるようにしているだけだ」
「国民は、訓練だと知らされていません」
「知らせたら、本気で助けようとしないだろう」
「怖がっている人たちまで、あなたの計画に使うのですか」
「最後には全員助かる。実際に誰も傷ついていない」
加奈子は、しばらく黙っていた。
話せば分かると思った。
真実を大切にする彼女なら、僕が正しいと理解するはずだった。
けれど、彼女は僕が一番聞きたくないことを言った。
「このままでは、あなたが本当に救った人たちまで、嘘にしてしまいます」
頭の中で、前の世界の新聞記事が開いた。
『あの火事も、自分で起こしたんじゃないか』
違う。
僕は、本当に助けた。
あの火事も、嘘じゃない。
「僕のしてきたことを、君まで否定するのか」
「否定していません。だからこそ、もう偽物の危機を作らないでください」
同じだ。
最初は僕を褒める。
信じていると言う。
そのくせ、最後には僕を嘘つきにする。
真実を書きたいのなら、書き続ければいい。
僕が正しいと認める真実だけを。
加奈子を新聞へ変えたあと、ミレーユが僕の前に立った。
「加奈子さんを戻してください。ルカもです」
「二人は自分の力を正しく使っている」
「違います。あなたが、二人の心を閉じ込めているだけです」
「僕を止めに来たのか」
「あなたを一人にしないために来ました」
ミレーユは、泣きそうな顔で僕を見た。
「もう、王でなくてもいいんです。英雄でなくても、誰かに感謝されなくても、あなたの価値はなくなりません」
王でなくてもいい。
その言葉は、普通の人間へ戻れと言われているように聞こえた。
普通の阿部真一へ。
誰にも信じてもらえず、嘘つきと呼ばれ、最後にはハルさんからも忘れられた男へ。
「君まで、僕は王にふさわしくないと言うのか」
「違います。アベル、わたしは――」
最後まで聞く必要はなかった。
思い出に沈んでいる間にも、外の声は少しずつ大きくなっていた。
やがて、アルディーンを求める声が、怒号へ変わった。
扉が激しく叩かれた。
「アベル様! 失礼いたします!」
「今夜は来るなと言ったはずだ!」
「市場で暴動が起きています!」
オブジェに触れていた僕の手が止まった。
暴動?
この国で?
「……誰に対してだ」
扉の向こうで、近衛兵が答えるのをためらった。
「グラティア制度と……アベル様に対してです」
「あり得ない」
僕は扉を開けた。
「何が起きた。最初から説明しろ」
「北の製粉所が停止し、本日、市場へ届く予定だった小麦粉が届きませんでした。何軒もの店でパンが売り切れ、残っている店も一人一個に制限しています」
「なら、残っている店から配給所へ回せ」
「とても足りません。それに、リラでなければ商品を渡さない商人が増えています。グラティアを持っているのにパンを買えない市民が、店の前へ集まり始めて……」
また、怒号が聞こえた。
「グラティアでは腹は膨れない!」
「王を出せ!」
昨日までは、順番を譲り合っていた。
自分より困っている人を先へ通し、配給が届くのを信じて待っていた。
今日、その我慢が切れた。
何をそんなに騒ぐ。
製粉所が一つ止まっただけだ。
感謝を得られる仕事を増やし、修理できる者を集めれば元へ戻る。
まだ完成していないだけなのに。
なぜ、完成するまで待てない。
なぜ、少しうまくいかないだけで、僕を否定する。
嘘つき。
偽物。
お前の言うことは信じられない。
感謝の家の外にいる者たちの声へ、前の世界の声が重なった。
「アベル様。いかがいたしましょう」
「……下がれ」
「ですが、市場は――」
「下がれ!」
近衛兵が肩を震わせ、扉を閉めた。
どうして、いつもこうなる。
僕は国民を救おうとしている。
僕ほど、この国のことを考えている人間はいない。
それなのに、誰も分かろうとしない。
だから、ヴィスブリッジを呼んだ。
加奈子の記事で、彼らが何をしてきたのか知った。
いくつもの国を巡り、特記事項に苦しむ人たちを助けてきた。
強い力を持ちながら、自分のためではなく、人のために使っている。
僕と同じだと思った。
ようやく、僕を理解できる人たちに出会えたと思った。
せいじは、本物のアルディーン。
せいかは、目の前で苦しむ人を見捨てない。
加藤は、制度の問題を見つけられる。
リアには、国を守れるほどの力がある。
彼らが僕へ協力すれば、この国は完成する。
本物の英雄が僕を王と認めれば、もう誰も僕を偽物とは呼べない。
だから加奈子を、ヴィスブリッジの近くへ運ばせた。
ルカにはアルディーンの名を使わせ、セレノアで活躍する記事を出させた。
必ず来ると思っていた。
来れば、分かり合えると思っていた。
だが、加藤は僕の制度へ意見した。
リアは僕へ魔法を向けた。
せいじも、せいかも、僕が間違っているような目をした。
同じではなかった。
加奈子たちと何も変わらない。
最初は理解したような顔をして、最後には僕を否定する。
もう、仲間になどしなくていい。
僕へ意見する頭も。
僕へ刃向かう力も。
正しく使えないのなら、僕が使ってやる。
それが、彼らのためでもある。
僕は扉を開け、廊下に控えていた近衛兵を呼び戻した。
「中央競技場を開け。感謝の家にある主要なオブジェを運び出せ。王宮にあるミレーユの鏡もだ」
「いつまでにでしょうか」
「明日の正午。この国で、本物の英雄を決める」
近衛兵が顔を上げた。
「市民には、どう伝えますか」
「救うんだよ。お前たちのアルディーンを、この国を、そしてお前たち自身をな」
近衛兵が去ったあと、せいじの像へ手を置いた。
「せいじ。お前は白の側だ」
本物のアルディーン。
僕へ従い、正しい行いを国民へ示す英雄。
次に、古い英雄像を見る。
「ルカ。お前は黒だ」
僕へ逆らい、人々へ危機をもたらす偽物。
白が勝てば、僕へ従う者が国を救う。
黒が勝てば、僕へ逆らった者が国民を苦しめる。
どちらが勝っても、皆は学ぶ。
「せいか。お前は勝者を祝福し、どちらが正しい英雄かを国民へ示せ」
豚の貯金箱が視界に入った。
「お前は、集まった感謝を受け取れ。5しかないお前でも、器くらいにはなれる」
加奈子には、戦いの結果を国中へ伝えさせる。
ミレーユにも、すべてを見せる。
英雄も、聖女も、悪役も、広報もそろった。
僕は三つのオブジェへ両手を広げた。
「感謝しろ。真の王がお前たちの力を、正しく使ってやる」
感謝の家の外では、まだ市民が僕を呼んでいる。
明日の正午。
この国の全員へ教えてやろう。
誰が正しくて。
誰が間違っていて。
誰こそが、この国の王にふさわしいのかを。




