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ブサメンガチファイター  作者: 弘松 涼
第四章 感謝の国と慈愛の王
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71 鏡の中の聖女

 アベルが去ってから、百を数えた。


 もう足音はない。


 俺は三人の術を解いた。


 聖華さんは、ダリオが消えた場所へ膝をついた。


「あの人は、本当に反省していました」

「はい」


 誠司さんの声は低かった。


「だから、戻れた。解除には〈悔い改めること〉が関係している。ですが、アベル王は戻したあとで殺した」

「助けたんじゃねぇ」


 俺は床に残った焦げ跡を見た。


「あいつの聞き方が気に入らねぇ。最初から、戻したあとで消すつもりだったんだ」


 そのとき、棚の奥で、黒い布の隙間が一瞬だけ光った。


「今、光りませんでしたか?」


 聖華さんが黒い布をめくる。

 下から現れたのは、銀色の手鏡だった。


 聖華さんがのぞき込む。

 けれど、その顔は映らない。


 俺も誠司さんも横からのぞいてみたが、鏡面は曇った銀板のような灰色のままだった。


「どうして、何も映らないのでしょう」


 聖華さんは、鏡面をよく見ようと持ち上げた。

 そのとき、高い通気口から差し込む夕暮れの光が、鏡へ当たった。


「あっ」


 反射した光が、反対側の壁を走る。

 聖華さんが光を追うように鏡を傾けると、壁に一人の女性が浮かび上がった。


 白い法衣に、淡い銀色の長い髪。

 穏やかに微笑んでいる。けれど、どこか寂しそうにも見えた。

 その背後には、満月の浮かぶ夜空が広がっている。


「きれい……」


 聖華さんが、思わずつぶやいた。


 女性が何かを伝えようと、ゆっくり口を動かす。

 けれど、声は聞こえない。


 誠司さんが、その口元をじっと見た。


「ま……って。待って、でしょうか」


 女性が小さくうなずいた。

 俺たち三人を順番に指し、次に背後の満月を指す。


「夜まで、ここで待ってほしい……ということでしょうか」


 そのとき、女性の表情が変わった。

 口元へ人差し指を当て、廊下の方を見る。


「しぃ。足音だ」


 俺の耳にも、鉄扉の向こうから近づいてくる足音が聞こえた。


「夜になったら、もう一度話したい。今は動かないでほしい――たぶん、そういう意味だ」


 その直後、鉄扉の向こうで鍵が鳴った。


 俺たちは持ち場へ急ぐ。


 その前に、俺は床の木の騎士へ目をやった。

 偽アルディーンの足元に転がっていた、片腕だけ直された古いおもちゃだ。


 あいつの足元にあった以上、何か関係があるのかもしれねぇ。


 俺は木の騎士を拾い、服の内側へ隠した。

 それから三人へ術をかける。


 今度の誠司さんは、なぜか台座ごと少し右を向いた。

 聖華さんの指は、一本だけ祈りの形から外れている。


 変身と解除を繰り返すたびに、少しずつ形が崩れてきている。


 仲間には、「葉っぱの力が弱ってきた」でごまかせる。

 けど、アベルや衛兵にはどこまでだまし通せるか。前と違うと気づかれたら、その時点で潜入は終わりだ。


 しかも、三人分の術を同時に維持するのも、そろそろきつい。

 このまま何度も切り替えていたら、葉っぱが枯れる前に俺の方がへばっちまう。


     *


 夜になり、巡回が遠ざかってから、俺たちはもう一度人間へ戻った。


 高い通気口の向こうへ、丸い月が差しかかっている。

 夕暮れの光が入ってきた同じ場所から、今度は白い月明かりが細く伸びていた。


「来ました」


 聖華さんが月明かりを見上げる。

 誠司さんが、その光の下まで鏡を運んだ。


 聖華さんが手鏡を持ち上げ、月明かりへ向ける。


 俺たちは、鏡面をじっと見つめた。

 けれど、いくら待っても灰色のままだ。


「何も映りません……」

「聖華さん。あちらです」


 誠司さんが、鏡から伸びる光の先を指した。


 俺たちは、誠司さんの指先を追った。


 反対側の白い石壁が、淡く光っている。

 やがて壁いっぱいに、まるで映画館のスクリーンのような別の景色が広がっていった。


 その中央に、夕暮れの光で現れた銀髪の女性が立っている。

 さっきよりも、その姿がはっきりと見えた。


 女性の唇が動いた。


「あなたたちは、アベルの命令を受けていないのですね」


 今度は、はっきりと声が聞こえた。

 鏡からではない。壁に映った女性の声が、保管庫の中へ静かに響いている。


「あなたは?」


 聖華さんが尋ねた。


「ミレーユ。以前、この国で最初の聖女と呼ばれていました」


 ミレーユ。

 その名前を聞いた瞬間、俺ははっとした。


 そういや、アベルは聖華さんを「ミレーユに代わる第二の聖女」と呼んでいた。

 ってことは、この人が最初の聖女ってことか。


「最初の聖女……。ミレーユさんは、アベルさんとずっと前から一緒だったのですか?」


 聖華さんが尋ねた。


「はい。アベルが王になる前から、治療院で一緒に働いていました。配給の名簿を作り、役人を集め、アベルの『救いたい』という思いを、国の仕組みに変えていったのです」


 ミレーユの話に合わせて、壁の映像が古い治療院へ切り替わった。


 そこにいたのは、パンと薬を抱えて治療院の中を走り回るアベルだった。


 いつもの白い外套はなく、肩に感謝鳥もいない。

 くたびれた仕事着の袖をまくり、呼ばれるたびに次の患者のもとへ駆けていく。


 助けられた子供が礼を言う。

 アベルは額の汗を拭い、顔をくしゃっとさせて笑った。


 あいつ、こんな笑顔ができる奴だったのか。


「このころのアベルさん、なんだか生き生きしていますね」


 聖華さんが、小さくつぶやいた。

 ミレーユは、映像の中のアベルを懐かしそうに見つめていた。


「先ほど、僕たちがアベル王の命令を受けていないと言いましたね」


 誠司さんが、壁のミレーユへ顔を向ける。


「あなたは、アベル王の能力を知っているのですか?」

「はい。誰に力が届くのか、何ができるのか。アベルが王になる前に、一緒に確かめました」


「教えてください」


 ミレーユは、すぐには答えなかった。

 壁の中から、俺たち三人の顔を順番に見つめる。


「その前に、一つだけ確かめさせてください。あなたたちは、アベルをどうするつもりですか?」


 誠司さんが答えた。


「加藤君とリアさん、それから、ここへ閉じ込められている方々を元へ戻します。そして、アベル王がこれ以上誰かを傷つけるのを止めます」

「できることなら、アベルさんのことも助けたいです」


 聖華さんが続けた。

 ミレーユは驚いたように、彼女を見つめた。


「アベルを、助けたいのですか?」

「はい」

「あなたのお仲間をオブジェにしたのは、アベルです。ダリオさんを消したのも……それでも、恨んではいないのですか?」


 聖華さんは、少しだけ目を伏せた。


「怒っています。加藤さんとリアさんを戻してほしいです。ダリオさんにしたことも、なかったことにはできません」


 それから、まっすぐミレーユを見た。


「でも、同じように苦しめ返したいとは思いません。間違っているなら止めます。それでも、まだ戻れるのなら、アベルさんにも戻ってきてほしいです」


 ミレーユは、しばらく何も言わなかった。

 やがて、静かに目を閉じる。


「……分かりました。皆さんを信じます。わたしが知っていることをお話しします」


 壁に、アベルとミレーユ、それから紙とペンを持った女性が映った。

 三人で机を囲み、何枚もの記録を見比べている。


「アベルの特記事項は、本人にも条件が分からないほど複雑でした。しかも、一度誤って発動すれば、人を物へ変え、元へ戻せなくなるかもしれない。とても危険な力だったのです」


「アベルさん自身にも、分からなかったのですか?」


 聖華さんが尋ねた。


「はい。当時のアベルは、その力を誰よりも恐れていました。自分一人で判断すれば、いつか取り返しのつかないことになる。そう言って、わたしたちへ助けを求めたのです」


「もう一人の方は?」

「加奈子さんです。この国で起きた出来事を、誰よりも早く記事にしていた記者でした」


 壁の映像が、紙とペンを持った女性へ近づいた。


 黒髪を後ろで束ね、耳には一本のペンを挟んでいる。

 指先は、インクで黒く汚れていた。


「そして、今の彼女の姿が――あれです」


 壁の中のミレーユが、部屋の一角を指した。

 俺たちは、その指先を追う。


 そこにあったのは、壁へ見開きのまま固定された新聞だった。


 やはり、あの新聞の正体は、特記事項を持った女性の転生者だったのか。


「わたしはアベルが相手をどう見ているのかを映し、加奈子さんは実際に起きたことを記録しました。そうして三人で、いつ、誰に、どのような条件で力が発動するのかを、一つずつ確かめたのです」


「アベル王は、その力を何に使おうとしていたのですか?」


 誠司さんが尋ねた。


「自分の力を悪用した人を、いったんオブジェにして心を落ち着かせる。そして、自分の間違いに気づいたら元へ戻し、もう一度やり直す機会を与えるためです。少なくとも、あのころのアベルは、本気でそう考えていました」


 壁に、三つの言葉が浮かび上がった。


『逆らう』

『檻』

『許す』


「わたしたちが、特に危険だと考えたのは、この三つです」


 最初に、『逆らう』の文字だけが大きくなった。


「これが、オブジェへ変える力の入口です。ただし、赤の他人はアベルへ逆らうことができません。最初に、その人がアベルの命令を聞かなければならない立場へ入っている必要があります」


「国民、臣下、それから、セレノアへ登録した組織の人間か」


 俺は、伶亜さんにだけ光が効かなかった場面を思い出した。


「はい。アベルの命令を受ける立場にいない者は、『逆らう』の対象にはなりません」


 だから伶亜さんには効かなかった。

 シミターで斬りかかっても、あいつにとっては反逆じゃない。ただの部外者から攻撃されただけってことか。


 予想どおりだ。


「なら、何をすれば『逆らった』ことになる?」


 俺は、そのままミレーユへ尋ねた。


「決まった行動はありません。命令を断る。考えを否定する。アベルが正しいと信じていることへ異議を唱える。そのとき、アベル自身が『僕に逆らった』と感じれば発動します」


 あの会合で、加藤君は制度の問題を指摘した。

 リアは魔法を使おうとした。


 行動は違う。

 だが、アベルにはどちらも、自分の正しさを否定したように見えた。


「つまり、先にあいつの配下へ入っていること。そのうえで、あいつが『逆らった』と判断すること。この二つがそろうと、オブジェにされる」

「そのとおりです」


 ここまでは、俺たちの予想とほぼ同じだった。


 俺の耳に、遠くで扉が閉まる音が届いた。

 まだ距離はあるが、巡回が動き始めたらしい。


「昼間は巡回が多く、長く映像を出していられません。夜なら見つからずにお話しできると思ったのですが……」


 ミレーユが、廊下の方へ目を向けた。


「今夜は、いつもより足音が多いようです。ここ数日、衛兵の出入りも増えています」


 今夜は、いつにも増して騒がしいってことか。

 嫌な予感がするぜ。


「時間がありません。残りは要点だけお伝えします」


 次に、『檻』の文字が大きくなった。


「アベルが『逆らった』と判断すると、その人は『檻』へ入れられ、オブジェになります。何へ変わるのかは、アベル自身にも正確には分かりません」


 黒い事務机と、赤いオルゴールが壁へ映った。


 ここも、俺たちの読みどおりだ。


「ただし、その『檻』は一つではありません」


「一つじゃない?」


 思わず聞き返した。


「どういうことですか?」


「わたしたちは、その二つを〈閉じた檻〉と〈開いた檻〉と呼んでいました」


 初めて聞く言葉だった。


「何が違う?」


「〈閉じた檻〉は、姿をオブジェへ変えられるだけです。ですが、〈開いた檻〉には、アベルの特記事項にある、もう一つの力が重なります」


 もう一つの力?

 閉じるだの開くだの、まださっぱり意味が分からねぇ。


 壁に、あの一文が浮かんだ。


『その力を、今度こそ正しく人々のために使え』


 もっとも気になっていた一文だ。

 抽象的すぎて、何が起きるのかまったく想像できなかった。


 そういや、誠司さんも、この一文から二つの言葉を拾っていた。


『力』

『正しく使う』


 この二つの言葉は、どうつながる?


「〈開いた檻〉としてオブジェにされた者は、アベルの命令を、その意図に忠実に実行し続けます」


 加藤君は、机にされてからも資源配分を計算していた。

 リアは、オルゴールとして王の心を慰める音楽を流し続けていた。


 つまり二人とも、アベルに命じられた作業を、淡々と繰り返させられているのか。


 えぐいな。


「何をしたら、その〈開いた檻〉になる?」


「アベルの審問を通ることです」


「審問?」


「アベルが示した役割を、相手が受け入れたかどうかを確かめるものです。わたしたちは、その判定を〈審問〉と呼んでいました」


 壁の映像が切り替わり、アベルの肩にいる感謝鳥が現れた。


「審問を通ると、感謝鳥が『アベル、ウレシイ』と告げます」


 俺は、二度目の会合を思い出した。


 誠司さんが、条件が満たされれば協力するとうなずいたとき。


『アベル、ウレシイ! アベル、ウレシイ!』


 アベルは、確かに叫んだ。


『通った!』


「もしかして、あの『通った』が、つまり……?」


 ミレーユは、小さくうなずいた。


 審問に通った。

 言い換えれば、アベルの術中にはまった。


 ようやく、全部がつながった。


 まず、アベルの命令が届く立場に入る。

 次に、アベルから示された役割を受け入れる。


 そこまでそろった者がオブジェにされると、〈開いた檻〉になる。


 姿を変えられるだけじゃない。

 持っている力まで、アベルの命令どおりに使わされる。


「加藤君とリアさんは、最初にアベル王の提案を受け入れていた。だから、〈開いた檻〉にされたのですね」


 誠司さんの顔が強張った。


「待ってください。では、アベル王は、僕と聖華さんも審問を通ったと思っているのですか?」


「お二人に対して感謝鳥が『ウレシイ』と告げたのなら、おそらく」


 聖華さんの顔から、さっと血の気が引いた。


 俺が術をかけるのが一瞬でも遅ければ、感謝の家へ潜り込むどころか、本当にアベルの道具にされていた。


「……危ないところでした」


 誠司さんの声が、わずかに硬くなった。


「ですが、アベル王から見れば、僕たちは〈開いた檻〉へ入ったことになっている。つまり、まだ偽装は見破られていないということですね」


 俺は強くうなずいた。


「ギリギリだった。けど結果として、俺たちにとって一番都合のいい形になったってわけだ」


 聖華さんが、その先を続ける。


「アベルさんは、私たちを思いどおりに動かせると思っている。でしたら、次は……」


 誠司さんも、ゆっくりとうなずいた。


「僕たちへ命令するはずです。アベル王が考える『正しい力』を使わせるために」


 ミレーユは、近づいてくる足音を確かめるように廊下へ目を向けた。

 そしてすぐに、棚の奥にある英雄像へ視線を移す。


「まだ、お伝えしなければならないことがあります。しげるさんが持っている木の騎士は、ルカのものです」


「ルカ?」

「あの英雄像にされている少年です。この世界で初めて、アベルに『ありがとう』と言った子供でした」


 俺は服の内側に隠した木の騎士へ触れた。


「あの偽アルディーンが、そのルカ君なのですか?」


 誠司さんが尋ねた。


「はい。アベルの望む英雄として、人々を助けていました。けれどある日、アベルの逆鱗に触れ、あの姿にされました」


「何をした?」


「アベルが、人を救うために危機まで作り始めたとき、ルカはこう言ったのです」


 ミレーユは、棚の奥に立つ英雄像を見つめた。


「『これ以上、行かないで』と。それだけです」


 聖華さんが息を呑んだ。

 それから、壁に映るミレーユを見る。


「もしかして、ミレーユさんも……」


 ミレーユは答えなかった。

 寂しそうに目を伏せる。


 その沈黙だけで、十分だった。


「どうして、そこまでされても、まだアベルさんを心配できるのですか」


 聖華さんが尋ねた。


「アベルが人を傷つけた責任は、アベル自身にあります。でも、誰にも弱音を吐けない王へ押し上げたのは、わたしたちでもあります」


 ミレーユが、顔を上げた。


「前の世界で、わたしは三浦美玲という名前でした。鏡になってから、わたしはアベルの心に残っている過去を見ました」


 壁に、白い介護施設が、ぼんやりと浮かび始める。


「そして、アベル――いえ、阿部真一は、今でもハルさんの影を追いかけています。それを見ているのは、とてもつらいのです」


 ハルさん?


「それは誰だ。アベルの何なんだ?」


 嫌な考えが頭をよぎった。


「そのハルさんが、あいつをこんなふうにしちまったのか?」

「違います」


 足音は、もう扉のすぐ外まで来ていた。


 ミレーユは、はっきりと首を横に振った。


「アベルは――」


 そのとき、鉄扉が勢いよく開いた。


 聖華さんが鏡へ黒い布をかぶせ、聖女像が置かれていた場所へ駆けた。

 誠司さんも、英雄像の持ち場へ飛び込んだ。


 俺は豚の置かれていた隅へ転がり込み、三人分の術を発動させた。


 視界が一気に低くなった。


 次の瞬間、俺は豚の貯金箱へ戻っていた。


 二人の衛兵が、灯りを手に保管庫へ入ってきた。


 あぶねぇ。

 間一髪だ。


「ミレーユの鏡を王宮へ運べ。アベル様の命令だ」


 鏡が箱へ収められる音がした。


 足音が遠ざかった。

 鉄扉が閉まり、保管庫に静寂が戻った。


 ミレーユの言葉が、頭から離れない。


『アベルは今でも、ハルさんの影を追いかけている』


 ハルさんってのは、なんだ?


 アベル。

 いや、阿部真一。


 心に二つの檻を持つ男。


 てめぇは、最初から恐怖で人を従わせるような奴だったのか?


 どうして、ここまで来ちまった?


 もう、戻れねぇところまで行っちまったのか?


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