66 感謝裁判
感謝議場は、王宮の前にあった。
白い石を円形に積み上げた、屋根のない建物だ。
青い天幕が傍聴席へ影を落とし、中央だけに朝の光が差している。地下の牢獄でも、罪人を見世物にする闘技場でもない。
町の話し合いを、国民みんなで見るための場所。
少なくとも、そう見えた。
支店から傍聴に来たのは、誠司さん、聖華さん、リーズ、俺の四人だった。
加藤君とリアは仕事を続け、制度が実際にどう回っているのかを記録している。伶亜さんは「裁判? 聞いても寝るだけだ」と同行を断り、本当に支店で寝ている。
「今朝の言葉、また出るでしょうか」
聖華さんは、布で包んだ新聞を膝へ置いた。
「分からん。だから、書き換わる瞬間は見逃さないようにしよう」
鐘が三度鳴った。
中央へ、一人の男が入ってきた。
四十を少し過ぎたくらい。腹は出ているが、腕は太い。古い仕事着の袖口に、油と泥の染みが残っている。
鎖はつけられていなかった。
左右を白い服の役人に挟まれ、俯いて歩く。
「被告、ダリオ・バスク」
監査官が名を読み上げた。
「虚偽の困窮依頼を37件作成。協力者との相互感謝により、120グラティアを不正取得。食料、燃料、薬品を購入し、一部を外国通貨のリラで転売した疑いです」
傍聴席から、怒りの声が上がった。
「パンを返せ!」
「薬が足りなかったのは、お前のせいか!」
ダリオは顔を上げない。
議場の高い席にいたアベルが、片手を上げた。
「静かにしてください」
大声ではない。
それでも、議場はすぐに鎮まった。
「罪を憎むことと、一人の人間を皆で痛めつけることは違います。ここは石を投げる場所ではありません。事実を確かめる場所です」
アベルは席を降り、被告と同じ地面へ立った。
それだけで、傍聴席の空気が変わる。
上から裁く王ではない。罪人のそばで話を聞く王。
演出だとすれば、うまい。
演出ではなく本心なら、もっとすごい。
記録係が水晶板へ触れた。
光の中に、感謝の履歴が浮かぶ。
同じ五人が互いへ何度も感謝を送り、存在しない屋根修理や、運んでいない食料を依頼した記録。購入された小麦、乾燥肉、薬草油。城外の商人へ引き渡した日時まで残っていた。
「記録の改変を認めますか」
監査官が聞いた。
「……認めます」
ダリオの声は掠れていた。
「転売も?」
「やった」
「120グラティアのうち、自分の労働に対する正当な感謝だったと主張する記録が、21件あります。説明してください」
ダリオは、そこで初めて顔を上げた。
「俺は、二十年、水路の荷運びをしてきた」
太い指が震えている。
「夜中に水門が詰まれば潜った。雨で倉庫が浸かれば、朝まで袋を運んだ。感謝制度が始まって、役所は言ったよ。仕事をしたら、助けた相手に登録してもらえって」
「実際に働いた21件について、依頼人は存在しないことになっています」
「水路が壊れる前に直したんだ。倉庫が濡れる前に土嚢を積んだ。誰が俺に感謝する? 水を飲んだ人間は、俺の顔も知らねぇ」
俺は、腕輪の0を思い出した。
「だから最初は、自分で記録した。やってない仕事を書いたんじゃない。俺がやったことを、誰かが見た形にしただけだ」
「では、なぜ虚偽の仕事を増やしたのですか」
ダリオは口を閉じた。
「答えてください」
「……一度、通ったからだよ」
傍聴席がざわついた。
「俺は働いた。なのに暮らせなかった。紙へ名前を書いただけで、買えなかった娘の靴が買えた。娘が喜んだ。次は、まだ壊れてない場所を直したことにした。その次は、仲間の仕事を回したことにした。気づけば、働くより紙を書く方が早くなってた」
弁護役の役人が立った。
「被告の妻は病床にあり、娘が二人います。不正取得分の一部は、治療と生活に使われました。旧水路局の同僚三名が、制度移行後に被告の収入が大幅に減ったことを証言しています」
続いて、被害を受けた薬店の女性が証言した。
「薬草油が買い占められ、二日間、店へ出せませんでした。外国へ売った分が戻っていれば、熱を出した子供へ使えたはずです」
ダリオが歯を食いしばる。
「あの油が必要だったのは、うちの女房も同じだ」
「だからって、不正をしていいことにはなりません」
女性の声も震えていた。
どちらか一方だけを悪人にできる話ではない。
けれど、ダリオが実際に嘘をつき、限りある品物を買い占めたことも消えない。
監査官は記録を一つずつ確かめた。
ダリオに有利な証言も、不利な証言も止めなかった。傍聴席が騒げば、アベルが静める。
誠司さんは、ずっと真剣に見ていた。
「公正です」
小さな声で言った。
「少なくとも、手続きは。被告の事情を隠していません」
すべての証言が終わった。
アベルは、ダリオの前へ立った。
「あなたが最初に記録した21件。それが、本当に行った仕事であることは確認しました」
ダリオが、驚いたように王を見た。
「その働きが誰にも見つけられなかったことについて、国にも責任があります。あなたは、感謝されるべき仕事をしていた」
聖華さんの表情が緩んだ。
傍聴席からも、安堵に似た息が漏れる。
「しかし」
アベルの声は、厳しくなった。
「あなたはその後、架空の仕事を作り、感謝を売り、限りのある品を買い占めた」
ダリオは何も言えない。
「あなたが偽造したのは、感謝の記録だけではありません」
アベルは、証言台の薬店主と、傍聴席にいるダリオの家族を見た。
「誰かが明日、受け取るはずだったパンと薬です」
言葉が、真っ直ぐに議場へ落ちた。
ここまでの話なら、俺にも反論できない。
「不正に得たグラティアを没収。転売された物資の回収。共犯者の口座は、調査が終わるまで凍結します」
ダリオの妻が泣き始めた。
アベルは、そちらへ顔を向けた。
「家族への最低配給は継続します。罪を犯したのは彼であって、子供たちではありません」
泣き声が大きくなった。
「ダリオ・バスク。あなたには〈感謝の家〉で、制度と自分の行いを学び直してもらいます。期間は定めません。心から悔い改め、もう一度、人のために働けると認められたとき、家族のもとへ帰れます」
ダリオの膝が崩れた。
「家族を……飢えさせないでくれるのか」
「約束します」
「……従います」
その言葉を聞いた瞬間。
アベルの顔に浮かんだ安堵を、俺は見た。
罪人を罰して喜んでいる顔じゃない。
自分の正しさを、相手の口から認めてもらって、ようやく安心したような顔だった。
そういや、少し前にも見た。
聖華さんが制度の問題を話したとき、アベルは彼女の言葉を一つずつ確かめるように頷いていた。
あのときと、同じ顔だ。
俺は、こういう顔をするやつを知っている。
正しいと認められているうちは、どこまでも優しくいられる。
だが、自分を否定されたとき、どうなるか分からねぇ。
俺はポケットの上から、中に入れてある四つ折りの紙へ触れた。
アベルには特記事項がある。
だが。
特記事項だけで、こいつを悪人と決めつける気はなかった。
今も、そのつもりはない。
けど、嫌な予感もしている。
議場に拍手が広がる。
腕輪から生まれた感謝の光が、朝日の中をアベルへ集まっていく。
白い服の役人がダリオを立たせた。
鎖はない。両脇へ寄り添うようにして、議場の外へ連れていく。
正門には、窓を閉ざした白い馬車が待っていた。
扉には青い文字で、行き先が記されている。
〈感謝の家〉
「お父さん!」
娘が呼んだ。
ダリオは振り返り、無理に笑った。
それから馬車へ乗り、扉が閉じた。
白い馬車は王宮の奥へ続く道に入り、見えなくなった。
裁判は終わった。
「立派な判決だったと思います」
議場を出ながら、誠司さんが言った。
「不正を許さず、家族の生活は守った。制度側の責任も認めています」
「私も、そう思います」
聖華さんは頷いた。
「ダリオさんが戻れるように、感謝の家で力になれることがあるなら――」
「……あの」
リーズが、珍しく聖華さんの言葉を止めた。
「何か、気になるんですか?」
「王は、被告が罪を認めたときより、命令に従ったときに安堵しました」
俺と同じところを見ていたらしい。
「だから敵だとは限らない」
誠司さんは慎重に言った。
「人を導く責任を負っているなら、従うという言葉に安心することもあります」
「うん。今日の裁判は、筋が通ってた」
俺も、そこは否定できない。
「ただ、できすぎてるんだよな」
「何がですか?」
「あ、いや、気にしないでください。俺の思い過ごしかもしれねぇ」
罪人がいる。王が裁く。家族を救う。みんなが王に感謝する。
これだけなら、よくある流れなのかもしれねぇ。
だが。
困っている人がいる。
誰かが救う。
公報が伝える。
感謝が集まる。
偽アルディーンと、同じ形だった。
聖華さんの腕の中で、新聞が熱を持った。
「始まります」
紙面の文字が一斉に消える。
俺たちは足を止めた。
今度は全員が見ている。
白紙の中央へ、文字が浮かんだ。
タスケテ
今朝と同じ四文字。
その下へ、さらに文字が滲み出した。
アベル 敵
「アベル……敵?」
聖華さんの声が震えた。
次の瞬間、二つの言葉は砕けた。
黒い線が紙面を走り、何事もなかったように、立派な見出しへ組み替わる。
『慈愛王アベル、罪人にも救済の手』
記事には、今日の裁判が正確に書かれていた。
証言も、判決も、家族への配給も、俺たちが見た通りだった。
だからこそ、書き換わる前の二語を無視できない。
見聞きし、裏を取った真実を、誰よりも早く記事にする。
あの二語は、あとから現れた記事より先に出た。
なら、最初に出た方は、なんだった?
「新聞は、これまで一度でも間違えましたか」
リーズが聞いた。
「確認した範囲では、一度もありません」
誠司さんが答えた。
誠司さんは、王宮を見上げた。
「しかし決めつけるべきではありません。アベルさん自身に、確かめましょう」
誠司さんが言った。
「感謝の家のこともです」
聖華さんが続けた。
「ダリオさんが、どこでどう過ごすのか。裁判が本当に、あの扉の先まで正しいのか」
そのとき、王宮から白い服の使者が歩いてきた。
俺たちの前で止まり、青い封書を差し出す。
「慈愛王アベル陛下より、ヴィスブリッジの皆様へ。支店の今後について、正式な会合を開きたいとのことです」
封書には、明日の日時が記されていた。
まるで、俺たちが疑問を持つのを待っていたような招待だった。
新聞の見出しは、慈愛王を称え続けている。
その紙面を、聖華さんはもう、無邪気に抱きしめることができなかった。
誠司さんと聖華さんは、青い封書を確認しながら歩き出した。
俺は一歩遅れた。
リーズも、その場に残っていた。
「リーズ」
小さく呼ぶと、彼女がこちらを向いた。
「新聞の言葉。あんたが教えてくれた、アベルの特記事項とつながると思うか」
「はい。無関係とは思えません」
「だよな」
俺は懐から、四つに折った紙を取り出した。
最初にアベルと会ったあと、リーズが誰にも見られないように渡してきたメモだ。
危険な特記事項を見つけたときは、俺にだけ知らせる。
それが、俺たちの間で決めたやり方だった。
紙を開くと、アベルの特記事項が、リーズの整った字で書き写されていた。
最初の三行に、オレンジ色の線はない。
能力として発現していない、ただの言葉だ。
『みんな僕を信じてくれ。僕は嘘つきじゃない。
僕は本物なんだ。僕ほどみんなのために頑張っている人間はいない。
僕がしてきたことを正しく理解すれば、みんな僕に感謝するはずだ』
何があったのかまでは分からねぇ。
けれど、想像することくらいはできる。
あんたは、あっちの世界でも頑張っていたんだと思う。
それでも、周りは認めてくれなかったんだろう。だからこっちの世界で、今度こそ認めてもらおうとしている。
特記事項でこけても、どうにか生きようとしているやつを、俺はこの世界で何人も見てきた。
リアも、伶亜さんもそうだ。
俺には、アベルもその一人に見えた。
だから、「あんたも頑張っている」なんて言葉が口から出た。
あとになって、王様にずいぶん上からものを言ったもんだとは思ったが、馬鹿にしたつもりはなかった。
危ない力を持っていることと、そいつが悪人であることは、同じじゃない。
だが。
四行目から、紙を焦がすようなオレンジ色の線が引かれていた。
俺は、その先へ目を落とした。
最初は、これも愚痴だと思った。
その場で湧いた怒りを、殴り書きにしただけだと。
その気持ちだけなら、分からなくもない。
俺だって、そうしていたかもしれない。
『そうだ。
僕こそが、お前らの王にふさわしい。
僕に逆らったやつは、冷たく狭い檻の中で反省しろ。
自分が何を間違えたのか、本当に理解するまで、そこから出てくるな。
その力を、今度こそ正しく人々のために使え』
歪んではいる。
それでも、ここまではまだ、怒りに任せて吐いた言葉だと思えた。
だが、その次の言葉が、俺の背筋を凍らせた。
『悔い改めることすらできない人間に、存在する価値なんてない。
どれだけ謝っても、許すかどうかを決めるのは僕だ。
僕が許すまで、その檻から出られると思うな。
たとえ僕が死んでも、この世界が終わるまで、ずっとだ』




