63 嫌いと言われた聖華さん
学校の門には、金色の文字でこう書かれていた。
〈感謝は、見つけるものです〉
「金は、稼ぐものです」
「しげるさん。今日はそういう授業ではありません」
俺と聖華さんは、午前中の公開授業へ参加することになった。
誠司さんと加藤君は国民恩恵局で制度の資料を調べる。リアと伶亜さんは、実際の仕事をもう一日続けて収益の差を見る。リーズは支店に残り、新聞の記事と依頼記録を照合する。
みんな立派な調査である。
俺だけ小学校からやり直しである。
教室には、八歳から十二歳くらいまでの子供が二十人ほど座っていた。前の壁には、色とりどりの札が並んでいる。
〈相手の顔を見る〉
〈何をしてくれたか伝える〉
〈当たり前だと思わない〉
教師が、一枚ずつ読み上げる。
「ありがとうは、言えばよいだけの言葉ではありません。誰かが自分のために使ってくれた時間を、見つける言葉です」
これは、普通にいい授業だった。
給食を作る人。道を掃除する人。朝早くパンを焼く人。井戸の水を調べる人。
子供たちは、自分が気づかなかった仕事を次々に挙げる。
「見えないところでも、誰かが働いています。気づいたら、言葉にしましょう」
俺は少し姿勢を正した。
昨日の俺に足りなかったのは、もしかすると、こういう素直な心なのかもしれない。
次の時間は実習だった。
子供たちは校庭で、年下の子供たちの世話をする。花壇に水をやる。転んだ子を保健室へ連れていく。
聖華さんは、すぐに子供たちの中心へ入った。
「先生、この花、なんていうの?」
「私は先生ではないですよ」
「でも大人でしょ」
「大人なら何でも知っていると思ったら大間違いです」
胸を張って言うことではない。
それでも子供たちは笑った。
聖華さんが笑えば、子供も笑う。泣いている子の膝に手を当てれば傷が消え、驚いた子が「ありがとう」と言う。彼女の腕輪へ、小さな光が一つずつ入った。
校庭の端で、一人の少年が年下の子をからかっていた。
十歳くらい。くせのある茶髪で、名前はトトというらしい。
年下の子が抱えていた木の船を取り上げ、噴水の縁へ立っている。
「返して」
「自分で取ればいいだろ」
トトは木の船を、噴水の中央へ投げた。
幼い子が追って、濡れた縁に足をかける。
「危ない!」
聖華さんが抱き止めた。
直後、その子の足があった場所に水が跳ね、石の縁がつるりと光った。
「どうして、こんなことをしたんですか」
聖華さんの声が変わった。
怒鳴ってはいない。
けれど、子供に合わせて笑ってもいない。
「遊んでただけだよ」
「相手は嫌がっていました」
「別に落ちてないだろ」
「落ちてからでは遅いです。船を返して、謝ってください」
教師が走ってきた。
「トト君。聖華さんも、もう大丈夫ですから」
「大丈夫ではありません」
聖華さんは教師を見た。
「今、止めなければ、この子は次もやります」
教師の顔に困惑が浮かんだ。
トトが聖華さんを睨む。
「うるさいな。聖華さんなんか嫌いだ!」
聖華さんの肩が、小さく揺れた。
傷ついていた。
たぶん、殴られるより効いている。
教師は、これで終わりにしようとした。
「聖華さんは、あなたを心配して――」
「いいんです」
聖華さんはしゃがみ、トトと同じ高さまで目線を下げた。
「嫌いでもいいです」
校庭の声が、少し遠くなった。
「でも、危ないことは止めます。あなたが嫌がっても止めます。誰かが怪我をしてから、優しくすればよかったと思いたくありません」
トトは返事をしなかった。
渋々噴水へ入り、木の船を拾って地面に置くと、校舎の裏へ走っていった。
もちろん、トトを叱ったことへの感謝は1件も入らなかった。
昼休み、教師が何度も頭を下げた。
「あの子も悪い子ではないんです。ただ、最近は少し荒れていて」
「それなら、なおさら話を聞いてあげてください」
「はい。ただ……子供との関係を悪くすると、授業への感謝が下がります。教師も暮らしていかなければなりませんから」
最後の言葉は、とても小さかった。
俺は壁の標語を見上げた。
〈感謝は、見つけるものです〉
教師は、感謝を見失わないために、叱るべき時を見失っている。
「帰りましょうか」
聖華さんは少し沈んだ声で言った。
門へ向かう途中、校舎の裏から言い争う声が聞こえた。
トトが、年上の二人を相手に立っている。
その背中には、さっき船を取られた幼い子が隠れていた。
「そいつ泣き虫なんだよ」
「だからって、物を取るなよ」
「お前もやってたじゃん」
トトは答えに詰まった。
それから、両手を広げた。
「……もうやめたんだよ」
聖華さんは声をかけなかった。
ただ、門柱の陰で見ていた。
幼い子も、こちらには気づかない。
ありがとうの言葉も、腕輪の光もない。
それでも、聖華さんは笑った。
「よかったです」
「1グラティアにもならないけどな」
「はい。ですが、よかったです」
その笑顔は、昨日、26グラティアを稼いだときより嬉しそうだった。
門の外に、アベルがいた。
学校の視察へ来たらしい。オウムが肩で羽を整え、教師たちが一斉に頭を下げる。
「授業に参加してくださったそうですね。子供たちが、とても喜んでいました」
「はい。でも、一つ気になることがありました」
聖華さんは、教師が子供を叱れなかったことを話した。
アベルは真剣に聞いた。
「感謝を失うことを恐れて、必要なことを言えなくなる。それは制度の目的ではありません。教師には、改めて指導しましょう」
「指導だけでは、難しいかもしれません。叱ったことで暮らせなくなるなら、誰だって怖いです」
「では、教師への基礎配給を増やす」
「教師だけでしょうか。嫌われても、今言わなければならない仕事は、ほかにもあると思います」
アベルは、すぐには答えなかった。
聖華さんの言葉を一つずつ確かめるように、ゆっくりと頷いている。
「あなたは、本当に清い人だ」
やがてアベルは微笑んだ。
「だからこそ、この国で力を貸してほしい。あなたがいれば、制度はもっと正しくなれる」
「私だけでは決められません。みんなで考えたいです」
聖華さんは、申し訳なさそうに頭を下げた。
アベルも笑顔のまま頷いた。
その肩で、オウムだけが、短く舌打ちしたような声を出した。




