61 ありがとうで暮らしてみる
翌朝、ヴィスブリッジ・セレノア支店は、開店前から深刻な経営会議を迎えていた。
家具らしい家具は、昨日リアが占領していたソファ一つだけ。
机がない。
椅子もない。
客が来ても、リアがどかなければ床へ座らせるしかない。
「床に座らせても、この国の人なら床に感謝してくれるんじゃね?」
「却下です。しげるさん、家具を買いに行きましょう」
支店口座には、昨日みんなで入れた60グラティアがある。必要なものを書き出し、中央広場の配給商店へ向かうことになった。
昨日は持ち込んだ保存食で済ませ、その残りも今朝で底をついた。家具だけでなく、食料も必要だ。
俺は一歩遅れて歩いた。
自分で稼いだ分は、0だ。
みんなで使う金だと分かっていても、いざ買い物となると、少しだけ足が重い。
「しげるさん」
聖華さんが立ち止まった。
「机は、しげるさんも使いますよね?」
「まあ」
「では、一緒に選んでください。しげるさんが直してくれた水を、この国の人が知らなくても、私たちは知っています」
普通に言われると困る。
俺は頭を掻いて、先へ歩いた。
「なるべく安いやつにしようぜ」
「はい」
中央配給商店は、買い物をする場所というより、祭りの会場に近かった。
青い天幕の下に、焼き菓子、衣類、家具、陶器、玩具が並ぶ。値札にはグラティアの数字だけが書かれ、店員たちは客へ品物の由来まで熱心に説明していた。
「こちらのカップは、東工房の職人さんが一つずつ絵を描いています」
「素敵ですね。詳しく教えてくださって、ありがとうございます」
「気に入っていただけて何よりです」
聖華さんが礼を言った瞬間、店員の腕輪へ感謝の光が流れ込み、数字が一つ増えた。
商品を売った代金ではない。
よい品を紹介したことへの感謝だ。
「ちょっと待って。カップ代は誰が受け取るんだ?」
「国庫へ戻ります」
店員の女性は、変なことを聞かれたという顔もせずに答えた。
「商品は国の認可工房から納められています。購入に使われたグラティアは国庫へ戻り、次の恩恵として配給されます」
「じゃあ、あんたの給料は?」
「私の案内を喜んでくださった方から、感謝をいただきます」
店員が、にこりと笑う。
俺も笑い返した。
時間だけが流れた。
「しげるさん」
聖華さんが、小声で言う。
「ありがとうって言わないんですか?」
「今、要求されると逆に言いづらくなった」
「要求していませんよ!」
「ありがとうございます」
俺と店員の腕輪の間に光が生まれ、店員の数字が一つ増えた。
俺の腕輪は0のままだ。こっちのグラティアを渡したわけではないらしい。
店員の笑顔が、ほんの少しだけ深くなった。
嫌な感じはしない。
丁寧に接客をして、客に喜ばれれば暮らしていける。売上目標も、販売額に応じた歩合もない。この店員が品物を押しつけてこないのも、客の満足がそのまま収入になるからだろう。
良い仕組みだ。
少なくとも、目の前だけを見れば。
支店用の机は、一台3グラティアだった。
傷のない大きな机が三。折り畳み椅子が八。白い食器が一式。毛布と、来客用の茶葉。それだけ買っても、まだ余裕がある。
「安いな」
「生活に必要な品は、王国が値段を抑えているんです」
家具売り場の老人が、誇らしげに胸を張った。
「誰でも、食べて、眠れて、病気になれば診てもらえる。アベル様が、そういう国にしてくださったんですよ」
「それは、すごいですね」
誠司さんは心からそう言った。
その一言で、老人の腕輪が光る。
老人は金を受け取った顔ではなく、長く信じてきたものを認めてもらった顔をした。
ここでは金と感情が近い。
けれど、同じではない。
少し離れた棚では、リアが勇者アルディーン人形を二体抱えていた。
「見て。こっちは通常版で、こっちは建国祭限定の赤い外套よ」
「いりません」
「支店の魔除けになるわ」
「一体12グラティアですよ」
「安いわね」
「机四つ分です」
加藤君が冷静に奪い取って棚へ戻した。
よく見ると、英雄人形は棚一面にある。アベルの肖像皿、感謝鳥の置物、青い花をかたどった砂糖菓子も山積みだ。
その隣の食料棚は、妙に隙間が多かった。
「小麦粉は?」
「本日分は終了しました」
「パンは?」
「午後の入荷をお待ちください」
「井戸の弁に使う金具はあるか?」
「取り寄せに十二日ほどかかります」
代わりに、青い花の形をしたクッキーなら、今すぐ百枚買えるらしい。
「食えりゃ一緒だろ」
俺が一袋つかむと、誠司さんが静かに戻した。
「支店の運営費です」
「社員の生命維持費です」
結局、聖華さんが「支店の食費です」と誠司さんを説得し、クッキーを一袋だけ買い物籠へ入れた。
会計台で誠司さんが腕輪をかざし、支店口座を選ぶ。買い物の代金がまとめて引かれた。
光は店員の腕輪へは入らず、台座に刻まれた王国の紋章へ吸い込まれていく。
これで、商品代は国庫へ戻ったわけか。
店員が受け取れるのは、客からもらった感謝だけらしい。
昼すぎ、荷車へ家具を積み終えたところで、広場の鐘が鳴った。
続いて、悲鳴が上がった。
人垣の向こうで、果物を積んだ荷車が暴走している。御者が投げ出され、通りの先には母親と幼い子供が立ちすくんでいた。
誠司さんが駆け出す。
その頭上を、赤い影が越えた。
「人は僕のことをこう呼ぶ。さすらいの勇者アルディーン!」
屋根から飛び降りた偽アルディーンが、子供を左腕に抱き上げる。
右手で荷車の横腹を押し、石畳へ長い溝を刻みながら三歩で止めた。
人垣から、今度は歓声が上がった。
果物が空へ舞う。
偽アルディーンは子供を母親へ返し、落ちてきた赤い林檎を一つ、何気ない動作で受け止めた。
「悪に名乗る名などない。だが敢えて名乗るのなら、不屈の紅蓮の魂――アルディーン!」
誰も悪の名前なんて聞いていない。
けれど、格好よかった。
正直、めちゃくちゃ格好よかった。
市民の感謝が光となって偽アルディーンへ集まる。
彼は林檎を泣いていた子供へ渡し、左手を胸へ当てた。
顔をわずかに傾け、微笑む。
「感謝は僕ではなく、君を愛する人へ。さらばだ。また、助けを求める声のもとで会おう」
右足から振り返り、外套を翻して路地へ消える。
誠司さんは、助けに出した手を中途半端に上げたまま立っていた。
「惜しかったですね」
「競争ではありません。人命が救われたのなら、それでいいんです」
言葉は完璧だった。
その横顔だけが、ちょっと悔しそうだった。
人垣へ、青い腕章の感謝記録官が入ってきた。
母親と御者へ同じ質問をし、偽アルディーンの名を大きく記録する。明朝には、町の感謝掲示板へ救助の公報が出るという。
孤児院のときにも見た、手際のよい役人だった。
聖華さんが抱えていた新聞の紙面に、黒い文字が走る。
『さすらいの勇者アルディーン、暴走荷車から母子を救う』
事件が起きてから一分も経っていない。
見出しの下には、赤い林檎を差し出す英雄の挿絵まであった。
「相変わらず最強だな、お前」
新聞は答えない。
自分が褒められたことなど知らないように、新しい記事だけを作っていく。
その夜。
午後になってもパンは入荷しなかった。荷解きが終わるころには、共同食堂も閉まっていた。
真新しい机を囲み、俺たちは少し遅い夕食を取った。
椅子はがたつかず、カップには青い花が描かれ、窓にはヴィスブリッジの看板がある。
みんなで働いた感謝が、暮らしの形へ変わった。
いい国だと思う。
夕食が青い花のクッキーだけだったことを除けば。




