60 支店まで作って社畜になる
ヴィスブリッジ・セレノア支店。
白い壁。青い屋根。大通り沿いの三階建て。
立地も広さも申し分ない。
何より、玄関にはすでに真新しい看板がかかっていた。
〈ヴィスブリッジ・セレノア支店〉
「まだ正式に承諾すると言ってないですよね?」
加藤君のメガネが、朝日を受けて冷たく光った。
誠司さんから連絡を受け、彼は甲斐さんと手続きを確認した上でセレノアへ来た。
ついでにリアも連れてきた。
「ついでとは何よ!」
「ぼくは支店設立のために来ました。あなたは自分でセレノアを見たいと馬車へ乗ったのでしょう」
「それなら、あたくしも支店設立のために来たことにするわ」
「過去を書き換えないでください」
加藤君とリア、またごちゃごちゃ言い合ってる。
なんだかんだ言いながら、結局いつも一緒にいるよな。
伶亜さんは支店の扉にもたれていた。
細い黒縁に、目元をすっぽり覆う横長のレンズ。くたびれたレザーアーマーと長い髪に、黒いサングラスが妙に似合っている。
「伶亜さん、黒い眼鏡をかけるようになったんですね。素敵です。とても似合っています」
聖華さんが、嬉しそうに言った。
サングラスな。
「そ、そうか?」
伶亜さんは照れたのか、聖華さんから顔をそらした。
そのまま支店の扉を指先で二度叩き、返ってくる音へ耳を澄ませる。
「三階建てか。ずいぶん立派な支店だな」
目が見えていないなんて、知らない奴には分からないだろう。
あのサングラスは、もしかしたら傷を隠すためなのかもしれない。けど、俺には、それだけじゃないように見えた。
今の自分で、もう一度人の中を歩くために選んだのかもしれない。
こいつなりに、ちゃんと前へ進んでんだな。
そういや伶亜さん、教団の一件から、かれこれずっとここにいるな。
「あんた、ヴィスブリッジの社員になったの?」
「なってない」
「なればいいのに」
「こんなグレたの、社員にいらんだろ?」
聖華さんにも何度か誘われたらしいが、そのたびに軽く笑って断っているそうだ。
なのに、なぜ今日もここにいる?
まあ、細けぇことはいいか。聖華さんも喜んでるし。
登録書類にも、建物の所在地とヴィスブリッジの名前がすでに印刷されていた。
「必要事項は、王宮でご用意いたしました」
白い制服の役人が、何でもないことのように説明する。
支店の名義で仕事を引き受けること。国の施設を利用すること。グラティアを共同口座へ入れること。事故があった際の保障。
どれもこの国で働くなら必要に思える。
加藤君は、開設だけでなく、休止と閉鎖の決裁権もヴィスブリッジ側にあることまで確かめ、すべての書類を読み終えた。誠司さんと甲斐さんの承認も、書面で残している。
「法的な問題は見当たりません」
「だったら、これで決まりですね」
アベルは心底嬉しそうに笑った。
登録の最後には、王からの激励と、適性確認を兼ねた簡単な面談があった。
アベルが、一人ずつに問いかける。
「命令と記録が食い違ったら、あなたはどちらを信じますか?」
「どちらも信じません。記録の作成過程と命令の根拠を確認します」
加藤君が答える。
アベルの肩に止まっていた色鮮やかなオウムが、喉の奥で何度か音を転がした。アベルはその喉を、褒めるように指で撫でる。
「あなたの力を、最も美しく使える場所はどこだと思いますか?」
「それを決めるのは、あたくしよ」
リアは胸を張る。
「でも、大勢の人に喜ばれるのは好きでしょう?」
「当たり前でしょ。美しいものを見たら、喜ぶのが正常なの」
オウムが翼をぱたつかせた。
「アベル、ウレシイ。アベル、ウレシイ」
「何よ。見る目があるじゃない」
「この子は、僕の言葉をよく覚えているんです」
アベルは苦笑しながら、またオウムの喉を撫でた。
誠司さんには、「国と仲間のどちらを優先するか」と聞いた。
「どちらかを犠牲にしなければならない段階になる前に、できることをします」
聖華さんには、「嫌われても正しいことをできるか」と聞いた。
「その方のためになるなら、できるようになりたいです」
強い答えをしようとして、できるとは言い切らなかった。
リーズは、何を聞かれても、「沈黙をお許しください」で通した。
俺は、「この国をどう思うか」と聞かれた。
「まだ分からん。見た感じは悪くねぇけど」
「多くの人が、この制度に救われています」
「あんたも頑張ってると思うよ」
オウムが首を傾げた。
「アベル、カナシイ」
「なんでだよ。一応、褒めただろ」
俺が抗議すると、オウムはもう一度、「カナシイ」と念を押した。
アベルの笑顔が、俺のときだけ少し固くなった。
登録が終わり、支店を開けた。
受付の札を〈営業中〉へ裏返した。
それから半日。
客、ゼロ。
現地スタッフへの応募、ゼロ。
「支店まで作って、また社畜になるの?」
リアがソファで横になっている。
「社畜は働いています。あなたはただ横になっているだけです」
「これは大局を見ているの」
「天井しか見ていません」
加藤君は、今日四回目の深いため息をついた。
「見ているだけでは、この国の仕事は分かりません」
誠司さんが、入国時にもらった案内冊子を広げた。
「ヴィスブリッジで現地の方へ仕事を紹介するにも、まずは僕たちが仕組みを知る必要があります」
案内冊子には、〈国民恩恵局〉の地図があった。
国民恩恵局は、市役所と冒険者組合と職業紹介所を、一つの建物へ無理やり詰め込んだような場所だった。
広いホールの壁一面に、依頼票が貼られている。
文字を読めない者のために、案内係が依頼内容を順番に読み上げてもいた。
〈南地区救護院 患者案内と治療補助〉
〈中央広場 建国祭用照明魔法〉
〈共同倉庫 在庫と帳簿の差異調査〉
〈西地区第三水場 水の出が悪い〉
報酬の欄を探した。
どの依頼にもない。
「これ、いくらもらえるんです?」
「報酬は、仕事が終了した後、皆様から寄せられた感謝に応じて王国が配給いたします」
「やってみるまで、分からない?」
「感謝に値段を付けることはできませんので」
案内係はまっすぐに答えた。
グラティアを多く得られる仕事には、見えないところで人が集まっている。水場の依頼は三日前から壁の端に残っていた。
「これにするか。水の詰まりくらいならすぐ終わるだろ」
俺は水場の依頼票を剥がした。
誠司さんは市場の仲裁。
聖華さんは救護院。
加藤君は共同倉庫。
リアは建国祭の魔法演出。
リーズは紛失資料の捜索。
「続いて、東二番通り。屋根から降りられなくなった猫の救助です」
案内係が依頼を読み上げた。
伶亜さんが黒いサングラスの縁へ指を触れた――かと思った次の瞬間、その姿はホールから消えていた。
案内係が持っていた依頼票もなくなっている。
「……猫と聞いた瞬間に行っちまったぞ」
「伶亜さんにとっては、何より優先すべき依頼なのでしょう」
それぞれが依頼票を持ち、恩恵局を出た。
新聞はその日、紛失物の所在、施設の混雑時間、雨の降る時刻を何度も書き換えた。
リーズは新聞の記事を使って紛失資料を見つけ、聖華さんは救護院が混む前に必要な薬を運んだ。
市場では、同じ露店の場所を二人の店主が自分のものだと主張していた。
誠司さんは片方を追い出すのではなく、過去の使用日と人通りを確かめ、午前と午後で場所を分ける案を出した。二人が渋々握手したあと、両方から感謝の光が入った。
救護院へ着いた聖華さんは、治療魔法を使う前に、待合室の患者を症状ごとに分けた。泣く子供へ話しかけ、重い患者を先へ通し、自分は休む間もなく傷を塞いだ。患者や家族が礼を言うたび、腕輪の数字が増えていった。
共同倉庫では、加藤君が帳簿の重複と在庫の置き間違いを見つけた。半日かけて棚札まで作り直したが、その便利さを知ったのは倉庫番二人だけだった。
一方、中央広場では、リアが空一面へ光の花を咲かせていた。
「もっと驚いていいのよ!」
百人が歓声を上げ、腕輪へ次々に感謝が入る。
リーズは新聞が示した書庫の隙間から紛失資料を抜き出し、依頼人へ渡した。
「どこにあったんです?」
「あなたが昨日、置きました」
「……あ、ありがとう」
感謝は一件だった。
伶亜さんは鳴き声だけで猫の位置を捉え、抱き上げると屋根から飛び降りた。
飼い主に泣いて喜ばれた直後、踏み抜いた瓦の修理費を請求された。
同じ半日でも、働き方も、見られ方も、返ってくる感謝も違う。
俺は一人で西地区へ向かった。
仕事の分担だけが、一人になった理由ではない。
俺の特記事項には、入金率一万分の一という、どうしようもない項目がある。リラを収入として受け取れば、俺へ残るのは一万分の一。手にした金が消えたことさえあった。
だが、グラティアは金貨ではない。感謝が光になり、腕輪の記録へ加算される。
こいつまで「入金」に数えられるのか、一度試しておきたかった。
第三水場は、集合住宅に囲まれた小さな洗い場だった。石造りの水盤が三つ。蛇口をひねっても、細い水しか出ない。
蛇口を外した。
詰まっていない。
水盤の下を確認した。
ここも正常。
耳を澄ます。
壁の向こうから、一定ではない水音が聞こえる。
どこかで水が漏れ、流れが脈打っている。
「根っこは、こっちか」
裏路地に、古い地下水路へ続く鉄扉があった。
中へ入ると、湿った石と藻の臭いがした。天井から落ちる水滴が古い通路へ響いている。
少し進むと、主水路の支柱が折れ、石壁が内側へ傾いていた。
木の板と布を詰め込んだ応急処置が何層にも重なっている。今日昨日の崩れではない。ずっと前から、誰かが壊れるたびに埋めてきた。
このままなら、水場一つどころではない。
地区全体の水が止まる。
人の気配がないことを確認し、俺は倒れかけた石柱を持ち上げた。
この身体にとっては、羽根よりも軽い。
それでも、人前でやれば騒ぎになる。
新しい支えと交換し、壁の隙間を端材と砂で塞ぎ、水路の傾きを戻した。
一気に水量が増す。
地上の遠い場所で、子供たちの歓声がした。
「出たぞ!」
「水が戻った!」
しげるさんが直しました、と叫ぶ声はない。
当たり前だ。地下にいる俺の姿など、誰も見ていない。
地上へ戻ると、白い外套を着たアベルが水場を見ていた。
肩には、登録面談のときのオウム。
「水が戻ったようだね」
「そうみたいだな」
「君が直したの?」
「依頼は蛇口の調査だったけど、原因は地下にあった。だから、まぁ」
アベルの目が細くなった。
「どうして、人を集めてから直さなかったの?」
「壊れる前に直した方が楽だろ」
「君が救ったと知れば、大勢が感謝するのに」
「水が出りゃ、それでいいじゃん」
オウムが、くるりと首を傾げた。
アベルは、どこか落ち着かない顔をした。
「君は、この国をどう思う?」
「悪くはねぇよ。あんたも頑張ってると思う」
王様に向かって、上から目線の評価だったかもしれない。
だが、嘘は言っていない。
アベルは微笑んだ。
その笑顔は崩れなかった。けれど、その目が笑っていないように見えた。
夕方、恩恵局で仕事の終了を報告した。
「西地区第三水場、復旧を確認しております」
「だろ。で、いくら?」
係員が俺の腕輪を確認した。
「感謝記録は、零件です」
「うん」
「したがって、今回の配給は零グラティアとなります」
「うん?」
水は出た。
仕事も終了扱い。
だが、零。
これでは実験にもならない。
グラティアなら入金率をすり抜けるのか。それとも、リラと同じように一万分の一まで削られるのか。
入ってこなかったものでは、確かめようがなかった。
「窓口のあんたが、王国を代表してありがとうって言ってくれたら?」
「私は恩恵を受けた当事者ではありません。役人が国民を代理して感謝を発行することは、不正防止のため禁止されております」
「がっちりしてんな」
感謝されなかった。
それだけのことだ。
支店へ戻ると、机の上にグラティアの結果が並んでいた。
腕輪に表示された「G」は、グラティアの略だ。
聖華さん、26G。
リア、22G。
誠司さん、8G。
加藤君、2G。
リーズ、1G。
伶亜さん、3G。屋根の修理で2G減って、実質1G。
俺、0G。
「俺、この国で一番大きな仕事したと思うんだけど」
「リアさんの魔法も、大勢の方を笑顔にした立派なお仕事です」
聖華さんがすぐにリアを庇った。
「それは分かってます。別にリアの仕事が無価値だと言ってるんじゃないよ」
「あたくしの美しさに感謝が集まるのは当然でしょう」
「うん。もう、それでいいよ」
結果だけ見れば、俺は何もしていない。
誰も、俺へ感謝していないのだから。
聖華さんは、自分のグラティアを支店口座へ移した。
誠司さん、加藤君、リーズも続く。リアは少し迷ってから、全額入れた。伶亜さんは、余っていた一グラティアを放り込んだ。
共同口座は、国が支店へ認めた事業用の配給枠である。誰か個人の腕輪へ払い戻すことはできない。俺が金として受け取るわけでも、触れる必要もなかった。
「みんなで使えばいいじゃないですか」
聖華さんの腕輪から、支店口座へ光が流れ込んだ。
しげるさんも働きましたよ、と言ってくれる者が、ここにはいる。
一人で暮らすのはきついかもしれない。
だが、仲間と支え合うのなら、この制度も悪くない。
「明日は、このグラティアで支店に必要なものを揃えましょう」
誠司さんが言った。
支店の中には、まだ何もない。
それでも、窓の外には感謝の光が行き交い、新しい看板は夕日の中で輝いていた。
この時点では、俺も、この国を嫌いにはなれなかった。




