59 ようこそ、感謝の国セレノアへ
山を一つ越えると、景色が白と青に変わった。
丘の向こうに白亜の城壁が広がり、その中に青い屋根が幾重にも重なっている。中央には白い王城。高く突き出した塔から、金の鳥の旗が風に泳いでいた。
城門の上には、青い文字が掲げられている。
〈ようこそ、感謝の国セレノアへ〉
「新聞に書かれていた通りですね」
聖華さんが布包みの中から新聞を開いた。
文字は三日前から何度も書き換わっている。今朝の一面はセレノア建国祭。二面は市場の売り出し。三面に、アルディーンを名乗る人物の新しい目撃情報がある。
『本日正午、南広場にて、さすらいの勇者アルディーンが孤児院へ嬉しい訪問』
「まだ起きていないことです」
「アルディーン本人へ取材したんじゃね?」
「僕は取材を受けていません」
あんたじゃねぇよ。
この三日間、新聞は雨雲の到達を正確に知らせ、迷子の居場所まで突き止めた。
実際に起きたことを、ほぼ同時に記事にする。そして、予定された出来事なら、こうやって始まる前に出すことがあった。
予知ではない。
予定された事実を、誰よりも早く知っている。
そこが、この新聞の不思議なところだった。
城門で入国理由を聞かれ、誠司さんが正直に答えた。
「セレノアでアルディーンを名乗っている人物について、確認しに来ました」
門兵は警戒するどころか、顔を輝かせた。
「勇者アルディーン様を訪ねて、国外からですか。ようこそお越しくださいました」
誠司さんの口元がぴくりと動いた。
誠司さんが何か言う前に、門兵が入国係を呼んだ。
「アルディーン様のファンの方、四名様だ!」
銀色の腕輪が、すぐに四つ並べられた。
「滞在中はこちらをご利用ください。外国人用グラティア腕輪です。国内で受け取った感謝は、グラティアとして腕輪へ記録されます。市場や食堂、宿泊施設でのお支払いにもご利用いただけます」
「グラティア……感謝が、お金になるのですか?」
聖華さんが小首をかしげた。
「おそらく、この国で使われている通貨のことだと思います」
誠司さんは、表面に〈300リラ〉と刻まれた金貨を一枚取り出した。
「リラからグラティアへの換金制度はありますか?」
「申し訳ございません。お金で感謝そのものを購入することはできません。ただし、王国へリラをご寄付いただいた場合、その貢献への感謝として、代理グラティアをお渡ししております」
「では、これを寄付した場合、どの程度になりますか?」
係員が計算板をこちらへ向けた。
〈寄付額 300リラ〉
〈王国への寄付 240リラ〉
〈貢献評価額 60リラ〉
〈付与される代理グラティア 6〉
300リラは、日本円にすれば、およそ3万円だ。
その8割を寄付として持っていかれ、残るのは2割。元の5分の1である。
3万円が、手続きを通すだけで、6千円相当の代理グラティアになっちまう。
「この240リラは?」
「皆様からの善意ある寄付です」
「俺たち、まだ善意を示した覚えはないんだけど」
誠司さんは計算板を見つめ、少し考えた。
「こちらの通貨を持たずに入国するわけにもいきません。では、まずは300リラだけお願いします」
係員は金貨を受け取り、誠司さんの腕輪へ6グラティアを入れた。
城門をくぐる。
最初に聞こえたのは、鐘の音でも商人の掛け声でもなかった。
「ありがとう」
一人の老人が、荷物を持ってくれた若者に頭を下げた。
老人の腕輪と若者の腕輪が近づき、柔らかな光が生まれる。
若者の数字が一つ増えた。
市場の店員は、客へパンを渡しながら料理法まで教えていた。
道に迷った旅人には、三人が同時に声をかけた。
転んだ子供には、近くの大人が必ず手を差し伸べる。
人の善意に、光と数字がついて回っていた。
「記事にあった通りですね」
聖華さんが嬉しそうに言った。
新聞はその時も書き換わっていた。
『南三番通りにて荷馬車横転。怪我人なし』
地図と、発生した時刻まで載っている。
「行ってみましょう」
誠司さんが言う。
記事の人物が現れるまでは時間がある。新聞の精度確認も必要だ。
現場へ着くと、運搬用の荷馬車が車輪を上にして倒れていた。積み荷は果物。近所の人々が、道に転がったリンゴを拾っている。
拾ったリンゴを懐へ入れる者はいない。
車の下から引っ張り出された御者が、助けた者一人一人へ感謝していた。
「誰かに指示されたわけでもないのに……」
聖華さんが小さくつぶやく。
人が集まりすぎて、同じリンゴへ三人の手が伸びていた。それでも、笑いながら譲り合っている。
荷馬車の片づけを見届け、俺たちは南広場へ向かった。
その途中、治療院の前で、熱のある子供を抱いた母親が何度も頭を下げていた。
「すみません。いまは、お支払いできるだけのグラティアがなくて……」
「構いません。お子さんが元気になってから、待合室のお掃除を手伝ってください」
母親はもう一度深く頭を下げ、子供を抱いて治療院へ入っていった。
金がないからといって、病人を追い返さない。
ここでは、元気になったあと、自分にできることで返せばいいらしい。
正午まで、あと三十分ほどだった。
南広場へ向かう通りから、煮込んだ野菜の匂いが漂ってくる。
「せっかくですから、代理グラティアがどのように使われるのか、実際に試してみましょう」
誠司さんが、通りの先にある共同食堂を見た。
「賛成。さっきから、いい匂いがしてるんだよ」
青い屋根の共同食堂は、記事の人物が現れるという南広場にも近い。
俺たちは、そこで早めの昼食を取ることにした。
大鍋から注がれた野菜のスープと、丸いパン。
四人分で、4グラティアだった。
誠司さんが腕輪を差し出す。
6だった数字が、2に減った。
3万円を寄付して、昼飯を一度食ったら残り2グラティア。
外国人のまま、この国へ何度も来るのはきつそうだ。
共同食堂の奥では、元家具職人の老人が、子供たちへ昔話を聞かせていた。
もう家具を作ることはできなくても、知っていることで人を喜ばせられる。子供たちが笑って「ありがとう」と言うたび、老人の腕輪へ光が集まった。
老人は、そのグラティアで温かいスープを受け取った。
「この国には、ありがとうがいっぱいですね」
聖華さんは、嬉しそうにその光を見つめていた。
「ええ。先ほどの寄付制度には驚きましたが、この国で暮らす人たちが支え合えるのは、すばらしいと思います」
誠司さんも、素直にうなずいた。
正午を待つ間に見たセレノアは、悪くなかった。
むしろ、今まで見てきたどの国よりも、人が人を見ているように思えた。
正午。
新聞に載っていた南広場へ着いたとき、孤児院の前は子供と大人でいっぱいになっていた。
孤児院の裏山から小型の魔獣が降りてきたらしい。建物の屋根へ登り、その端には子供が一人取り残されている。
魔獣が爪を振り上げた。
誠司さんの足が一歩前へ出る。
それより先に、金色の光が屋根へ降った。
「人は僕のことをこう呼ぶ。さすらいの勇者アルディーン!」
真っ赤な拳が、魔獣の爪を受け止める。
逆立った黄金の髪。
筋肉隆々の胸には、聖なる紋章が浮かんでいる。
額には第三の眼。背中から大きな翼が伸び、鋼の鎧と腰の剣まで、青白い光に包まれていた。
誠司さんは変身していない。
それなのに、屋根の上にいるのは、俺たちが知っているアルディーンそのものだった。
俺は屋根の上を見た。
次に、隣にいる誠司さんを見る。
もう一度、屋根を見る。
アルディーン。
誠司さん。
アルディーン。
え?
つまり、あれは――偽物?
子供たちが歓声を上げる。
偽アルディーンは子供を左腕に抱き、右の拳で魔獣を抑え込んだ。
「悪に名乗る名などない。だが敢えて名乗るのなら、不屈の紅蓮の魂――アルディーン!」
今、名乗った直後に、名乗る名はないと言わなかったか?
「レッドカッター!」
燃える手刀が閃いた。
魔獣だけが屋根から吹き飛び、地上の厚い網の中へ落ちる。
子供は傷一つなく救い出された。
完璧だった。
登場から救出、必殺技、幕引きまで、完璧なヒーローショーだ。
誠司さんは拳を握っていた。
「あの、誠司さん」
「いえ。すばらしい救助でした」
「まだ何も聞いてません」
偽アルディーンは子供を先生へ渡し、左手を胸へ当てた。
顔をわずかに傾け、微笑む。
「感謝は僕ではなく、君を愛する人へ。さらばだ。また、助けを求める声のもとで会おう」
右足から振り返り、白い翼を開く。
まき起こった風が金の髪とマントを揺らし、そのまま青空へ飛び立った。
引き際までむちゃくちゃ格好いい。
誠司さんの握った拳に、さらに力がこもった。
これ、わりと聞いちゃいけないやつかもしれない。
だが、むちゃくちゃ気になる。
俺はこっそり誠司さんへ耳打ちした。
「あれ、何?」
「はい。勇者アルディーンです」
「公認?」
「知りません」
「もしかして、怒ってます?」
「怒ってはいません。ただ、救助の際には、子供を先に安全な場所へ退避させるべきです」
すげぇ悔しそう。
「検証しているだけです」
誠司さんは真面目な顔で念を押してきた。
……え? 俺、いまの口に出してねぇよな?
騒ぎが収まると、新聞の紙面が再び書き換わった。
『さすらいの勇者アルディーン、孤児院の少年を救出』
たった今の救出劇を伝える号外だった。
写真を載せられないのが残念なくらい、よく書けていた。
広場の端では、青い腕章をつけた役人が、先生や子供たちから救助の内容を聞き取っていた。
誰が、誰を、何から救ったのか。どれほど危険だったのか。受けた恩恵を、あとから国民へ知らせるための〈感謝記録官〉だという。
書き上げられた記録は、町の〈感謝掲示板〉へ掲示されるらしい。
事件の直後に役人が駆けつける。よく整った国なのだと、そのときは思った。
追いかけたが、偽アルディーンは消えていた。
代わりに、白い外套の青年が孤児院の子供たちへ声をかけている。
護衛は二人だけ。
青年は膝をつき、助けられた少年の両手を握った。
「怖かったね。もう大丈夫だよ」
「アベルさま!」
周囲の子供たちが駆け寄った。
白い外套の青年。慈愛の王アベル。
王は子供一人一人の名を覚えていた。孤児院の屋根が割れているのを見つけると、その場で修理の手配をした。
泣いている子供へ、自分のハンカチを渡した。子供が返そうとすると、アベルは首を横に振った。
「返さなくていいよ。君が笑ってくれた。それが、僕へのお礼だから」
芝居には見えなかった。
「遠いところから、よく来てくれたね」
アベルが俺たちを見た。
初対面の顔には思えないほど、まっすぐな笑顔だった。
「ヴィスブリッジの皆さんですね。お会いできて光栄です」
誠司さんが一礼する。
「僕たちをご存じなのですか?」
「もちろん。特記事項に苦しむ人々を救っている会社。代表は甲斐氏、役員は加藤氏。そして、こちらが誠司氏ですね」
「僕たちをご存じとは、こちらこそ光栄です」
誠司さんは、ほんの少し嬉しそうに一礼した。
「では、一つお尋ねしてもよろしいでしょうか。先ほどの、アルディーンと名乗る方についてです」
「彼のことですね」
アベルの穏やかな笑顔は崩れなかった。
「僕も、彼の行動をすべて把握しているわけではありません。ただ、多くの国民が彼に救われているのは事実です」
「直接、お話をさせてください」
「もちろん。次に会ったとき、皆さんが訪ねてきたことを伝えましょう」
ここまで追いかけて、新聞が記事にするまでの数分で、偽アルディーンは痕跡もなく消えた。
この国へ何度も足を運ぶことになる。外国人のままでは、代理グラティアへの寄付だけで財布が軽くなる。
「しばらく、こちらで調査する拠点が必要になりそうですね」
誠司さんが言った。
アベルはその言葉を待っていたように、両手を合わせた。
「でしたら、セレノアにヴィスブリッジの支店を作りませんか?」
「ありがたいお話です。ただ、役員の加藤君や、代表の甲斐さんとも相談しなくては」
「しかし、実際に支店開設を決められるのは、会長である誠司氏では?」
誠司さんの笑顔が、一瞬だけ消えた。
「……よくご存じですね」
「失礼しました。皆さんの活躍は、新聞で拝見しています」
アベルは穏やかに笑った。
「こういう話は、持ち帰って検討するとなかなか進まないものです。正しいと思ったことは、すぐに実行する。それが僕の成功哲学なのです」
孤児院の先生が、すぐにうなずいた。
「アベル様は、この孤児院が雨漏りした日に、その場で修理を決めてくださったのです」
「水害のときだって、夜が明ける前に食料が届いたんだ!」
「アベル様は、本当に凄いお方だよ!」
アベルの提案は、俺たちにとっても都合がよかった。
アルディーンを名乗る人物の調査。新聞の精度確認。セレノアの仕事制度。そして、ヴィスブリッジがこの国で何をできるのか。
誠司さんはすぐには答えず、聖華さんとリーズ、そして俺の顔を見た。
「正式な返事は、加藤君と甲斐さんに連絡してからです。ただ、開設を前提に、詳しい条件をお聞きします」
「それで十分です。ありがとう」
アベルは誠司さんの手を両手で握った。
初めて会った人間が見せる喜び方としては、ほんの少しだけ大きい。
だが、国民の嬉しそうな拍手の中では、それも王の熱意に見えた。




