第5章
「記録、受理」
リラが言った。
爪が黒い板の上を滑り、細い銀色の文字を残す。板は一瞬だけ光り、言葉を呑み込んだように暗くなった。
「証人は?」
彼が訊いた。
「もういるわ」
リラが答える。
「アズガル・ラハト、影軍総司令官。私、リラ・タル、影内務官房長、君主付き秘書兼助言役。マルヴェイン・ソル、国内諸家・政務総監。条約、相続争い、諜報、非公式交渉、その他の面倒事も担当します」
扉のそばの狡猾そうな魔族が胸へ手を当てた。
「『その他面倒事』が職務の中で一番正確ですね」
「それ、正式名称か?」
「いいえ。ただ、前から採用を提案しています」
リラは無視して続けた。
「そしてシアナ・ヴェイル。国庫、魔法研究、《刻印》適合、血統文書庫、〈影〉の実験計画を管轄する主任監督官」
書類を抱えた気弱そうな女魔族が、自分の名を不意打ちで呼ばれたようにびくりとした。
「全部を私一人で担当しているわけではありません」
早口で言う。
「つまり形式上は私の責任ですが、部門も、若手研究員も、監査官も、保管官も、会計官も、研究室もありますし、魔力回路専任班も、臨時委員会が三つもあって、そのうち二つはとっくに廃止すべきで、同じ仕事を――」
途中で止まった。
マルヴェインの口元がわずかに動いた。
「君主様、覚えておいてください。シアナが『私一人の責任ではありません』と言ったら、彼女なしでは夕食までに全部崩れます」
「違います」
シアナが言った。
リラが落ち着いて付け加えた。
「昼までね」
シアナは赤くなり、書類を胸へ抱えた。
彼は疲れた笑みを浮かべて彼女を見た。
「財政と研究?」
「はい」
「危険な組み合わせだ」
「非常に」
マルヴェインが言った。
「金は数えられる人間を好みます。研究は、研究室が爆発したあとに『予算を減らすのではなく増やすべきです』と説明できる人間を好む」
「研究室、よく爆発するのか?」
シアナが不満そうに顔を上げた。
「今は、ずっと減りました」
「完璧な答えだ。全然安心しない」
アズガルが一歩前へ出た。
「君主様。魔法陣の準備が進んでいます」
「君主様はやめろと言った」
「融合前なら、その相談もできましたが」
マルヴェインが穏やかに言った。
「融合後は難しくなるでしょう。玉座は形式を好む。民も形式を好む。敵は特に好みます。形式の破れを弱さだと解釈できますから」
「呼び方まで、もう政治か」
「すでに全部が政治です」
マルヴェインが答えた。
「呼吸まで。ただし、そこはまだ規則化しないでおきましょう」
彼は問いかけるようにリラを見た。
「こいつ、いつもこうなのか?」
「調子がいい日はもっとひどい」
「慰めになった」
候補者はまだ魔法陣の中に立っていた。落ち着いて、腕を下ろしたまま。影は三重の封印で床へ縫い付けられている。
だが選択が終わった今、その封印はもう牢獄ではなく、準備の一部に見えた。
足元の暗線が内側から深紅にゆっくり光り始める。石の奥深くで血管が目覚めたようだった。
彼はもう一度、名前を読んだ。
「ケイル・ノル。次は?」
ケイルは魔法陣を見てから、シアナを見た。
「彼女に説明してもらうほうがいい。若い頃、儀式を外から見たことはありますが、それだけです」
シアナがすぐ緊張した。
「は、はい。もちろんです。融合処置は受容の魔法陣で行います。あなたが中へ入り、ケイル・ノルの前に立ち、両手を肩へ置く。人間の身体にある《刻印》が彼の魔力回路へ応答します。魔法陣が二つの形態の外的境界を解除し、あなたの意志を中心として固定します」
「ゆっくり」
彼は言った。
「『外的境界を解除』って、具体的に何だ?」
シアナが唾を飲み込む。
「彼の身体が、あなたの身体を包み始めます」
「包む」
「はい」
「生きてる魔族の身体が、俺を包む」
「はい」
「素晴らしい。逃げたい気持ちがほとんど消えた」
「逃げるには遅いです」
マルヴェインが言った。
シアナが苛立った目を向けた。
彼は手を上げた。
「続けて」
シアナは緊張しながら頷いた。
「最初に外側の組織が融合します。皮膚、筋肉、魔力回路。次に骨。そのあと内部構造。あなたの人間の身体が文字どおり破壊されるわけではありません。移行の核になります。ケイル・ノルは独立した意志として消えますが、肉体、力、それから肉体記憶の一部があなたへ移ります」
「痛みは?」
シアナが口を開いた。
閉じた。
それから正直に言った。
「あります」
「どのくらい?」
「非常に」
「長い?」
「主観的には実際より長く感じる可能性があります。魔法陣が時間感覚を変えて、意志が形態を保持する猶予を作るので」
「つまり、とても痛い。しかも長く感じる」
「はい」
「ありがとう。そのほうがいい」
シアナが驚いて彼を見た。
「いいんですか?」
「ああ。俺は不意打ちが嫌いだ」
リラが近づいた。
「融合中は候補者の肩を離さないで。何が起きても。死ぬと思っても」
「死ぬと思うのか?」
「たぶん」
「離したら?」
「魔法陣が中心意志を見失う可能性がある。そうなれば二人とも死ぬか、アズガルがその場で殺さなければならない何かができる」
アズガルが短く頷いた。
「お前に仕事を増やさないよう努力する」
「感謝します」
アズガルが答えた。
ケイル・ノルがわずかに笑った。
「痛みを敵ではなく、入るための代価だと思えば少し楽になります」
「今、自分を吸収しようとしてる人間に、どうやればうまく吸収できるか助言してるのか?」
「はい」
「どれだけ嫌な状況か、分かってる?」
「はい」
「それでも助言する?」
「はい」
彼はしばらく黙った。
「だから、お前が身体でしか仕えられないのが惜しい」
ケイルが頭を下げた。
「仕える癖くらいは残るかもしれません」
「良いところだけ残ってくれ。卑屈さ抜きで」
「私に卑屈さはあまりありません」
「見れば分かる」
シアナがリラへ数枚の板を渡した。リラは素早く確認して頷いた。
「時間よ」
「もう?」
答える代わりに、ケイルの足元の魔法陣が広がった。
暗線が封印の外へ流れ出し、床いっぱいに巨大な紋を描いていく。石が震えた。広間の両側にいた候補者たちは、それぞれの魔法陣が許す範囲で後退した。警備たちは同時に壁際へ下がる。
空気が濃くなった。
世界が突然、彼の存在を思い出し、肩甲骨のあいだへ掌を置いたようだった。
アズガルが魔法陣の左へ立つ。
リラは右。記録板を持って。
マルヴェインは少し後ろへ下がった。笑みは消え、儀式が要求する代価を知る者の顔だけが残っている。
シアナは魔法陣の正面境界へ立った。手には細い金属針。そのあいだを青く光る糸が結んでいる。羞恥はほとんど消えていた。
残っているのは集中。
非常に冷たく、非常に正確な集中。
「中へ入ると」
彼女が言った。
「魔法陣が《刻印》を読み始めます。最初の接触には抵抗しないでください。抵抗が必要なのは、形態が混ざり始めてから。目的はケイル・ノルの身体を拒絶することではなく、あなたを中心として認識させることです」
「身体と戦うんじゃなく、過程を従わせる」
「はい」
「本人の意志は?」
ケイルが自分で答えた。
「私は抵抗しません」
「本能が抵抗したら?」
「命じてください」
「誰に?」
「私の身体に」
彼は息を吐いた。
「今日は人生で一番奇妙な会話ランキングを更新し続けてるな。競争はもう激しいのに」
リラがそっと手を伸ばし、切り裂かれ血のついた彼の上着の襟を直した。
事務的で、ほとんど気づかないほど小さな動作だった。
だが一瞬だけ、人間的なものが滲んだ。
「魔法陣の中では冗談を言わないで」
「なぜ?」
「言えたら、マルヴェインが政治伝説へ書き加えるから」
「遅いですね」
マルヴェインが言った。
「もう加えました」
彼はじっとマルヴェインを見た。
「あとでお前をクビにする」
「私なしでは、後任に誰を据えるべきか分かりませんよ」
「じゃあ先に使って、あとでクビにする」
「ようやく国家的思考になりました」
シアナが咳払いした。
「お願いします。魔法陣へ」
彼は自分の手を見た。
普通の人間の手。
片方は少し前まで折れる寸前だった。今はリラの魔法で形を保っているが、痛みが全部消えたわけではない。手首の皮膚の下で細い暗線が動いている。《刻印》が魔法陣を聞きつけ、そちらへ引かれているようだった。
一歩踏み出した。
魔法陣の境界が、氷の波となって身体を通過した。
一瞬、広間が消えた。
網が見えた。
巨大で暗く、石を貫いて上にも下にも伸びる網。
生きている。
地下河川のような力が、その中を流れていた。遠くでは、弱いもの、強いもの、異質なもの――別の結節点が震えている。
視界が戻った。
ケイル・ノルの前に立っている。
近い。
ケイルのほうが背が高い。広い。強い。
生きた身体の穏やかな熱と、隠された魔力の圧力が伝わってくる。古く、熟成し、幾重にも重なった何か。
要塞の中に築かれた図書館のようだった。
「最終発言権」
リラが言った。
広間が静まり返る。
ケイル・ノルが顔を上げた。
「私、ケイル・ノル。前・影の君主に仕えた元大臣。諸家の権力によって裁かれ、君主法によって命を保たれた者として、真なる君主の選択を受け入れます。これを慈悲とは呼びません。処刑とも呼ばない。これが最後に残った奉仕です。私の身体が力となりますように。私の過ちが警告となりますように。空の玉座を手に入れられると思っていた者どもが、自分の期待で喉を詰まらせますように」
マルヴェインが小さく言った。
「美しい」
リラが視線を投げる。
「黙ります」
ケイルは彼の目を見た。
シアナが針を掲げる。
「肩へ手を」
彼はゆっくり、ケイルの両肩へ掌を置いた。
硬い皮膚。生きた熱。指の下の筋肉。
象徴的な距離は、もうどこにもなかった。
シアナが最初の言葉を唱え、続けて二つ目。手の針が光る。黒と青の糸が魔法陣の線へ食い込んだ。足元の石が熱くなる。
ケイルが目を閉じた。
どれくらいかかるのか訊こうとした。
間に合わなかった。
ケイルの身体が波打った。
溶けたわけではない。
身体のままだ。
ただ、境界が柔らかくなった。掌の下で肩が沈み、また持ち上がる。肉が、まだ知らない形を思い出したようだった。
皮膚が彼の指へ伸びてきた。
最初の接触は温かかった。
ほとんど慎重だった。
次の瞬間、それは痛みになった。
ケイルの皮膚が彼の掌を、手首を、前腕を包んでいく。
布のように外側からではない。
もっと深い。
自分の皮膚の下、筋肉、骨の中へ道を探しているようだった。
彼は身を震わせたが、手は離さなかった。
「そのまま」
リラの声が聞こえる。
分かってる、と言いたかった。
喉から出たのは掠れた音だけだった。
ケイルの肉が腕を上り、肩、胸、背中を包む。自分の皮膚が焼ける。
人間の身体は、自分がどこまでで、どこから別の身体なのか理解しようとしていた。
もう答えはなかった。
ケイルは抵抗しない。
争いもない。逃れようともしていない。
ただ静かに受け入れている。
そのことが、どんな戦いより重かった。
彼は指へさらに力を込めた。
広間の音が消えた。
残ったのは内側の低く重い響きだけ。その中に、他人の肉体記憶の断片が瞬く。
評議会の卓。
国境地図。
前君主の鋭く苛立った声。
失敗した交渉のあと、白い石に残る血。
〈森〉の使節との条約。
若い女の笑い声――顔がすぐ灰へ崩れる。
牢獄の年月。
「中心を」
シアナの声が届いた。
「中心を保持してください」
どうやって、と訊きたかった。
そのあと理解した。
自分の内側で、異質な質量が持ち上がっていた。
ケイルの意志ではない。
もっと古い、身体そのものの何か。
大きくある習慣。
強くある習慣。
魔族である習慣。
魔法で満たされている習慣。
この形態は、彼が形態を知るよりずっとよく、自分自身を知っている。
このままなら彼の上から閉じ、彼を主ではなく、新しい肉体の中の偶然の記憶にしてしまえる。
腹が立った。
美しくもない。
荘厳でもない。
ただの悔しさと怒りだった。
中庭に。
槍に。
予言に。
身体の一覧に。
良い助言役が今、自分の手の下で消えていくことに。
そしてまた別の力が、自分が何になるべきか勝手に決めようとしていることに。
嫌だ。
音もなく、その一語が内側に現れた。
彼は肩をさらに強く掴み、命じた。
言葉ではない。
自分のすべてで。
俺のものだ。
魔法陣が応えた。
痛みが巨大になった。
背骨が反った。背中で何かが突き破り、肉、骨、神経を押し広げる。砕ける音が聞こえ、それが自分の身体が翼を受け入れるため作り変わる音だと理解した。
倒れたかった。
だがケイルの身体はもう四方から彼を支えている。
向かいにはいない。
周囲にあり、内側にあり、彼と一つになりつつある。
尾が石を打った。
自分の尾。
笑えるなら笑っていた。それくらい馬鹿げた考えだった。
指が伸びる。爪が黒く硬く鋭い鉤爪になる。歯が形を変えながら痛み、角は頭蓋骨をゆっくり、拷問のように突き破って出てきた。灼けた金属を骨へねじ込まれているようだった。
もうケイルの前には立っていない。
ケイルの中に立っている。
ケイルも彼の中に立っている。
境界が消えていく。
最後に一片だけ残った他人の呼吸が、意識へ触れた。
声ではない。
願いでもない。
肩に置かれた掌の感覚に近かった。
そして、それも消えた。
叫びは、もう新しい声で出た。
低く。
深い。
あまりに力を含んでいて、魔法陣の線が一斉に光り、震えた。外側にいた警備が数人後ずさる。候補者たちは自分の円の中で頭を下げた。鉢の青い炎が、風を受けた草のように上へ伸びた。
シアナが何か言った。声は震えている。それでも指示は正確だった。
リラが応じる。
アズガルが命令を怒鳴る。
マルヴェインは黙っていた。
融合が最後の段階へ入った。
人間の身体として残っていたものが熱い核へ縮まり、また展開する。
今度は新しい形態の内側で。
心臓が一度打つ。
二度。
三度。
強すぎる。
肺が開き、空気を深く吸い込んだ。
まるでこれまでの人生ずっと、濡れた布越しに呼吸していたかのようだった。
匂いが一斉に押し寄せる。
石。血。恐怖。シアナのインク。候補者たちの汗。灰。城塞の血管を流れる古い〈影〉。
彼は目を開けた。
そして、オーラが見えた。
安っぽいオカルトの色つき輪のようなものではない。
もっと複雑だ。
リラ――細い暗銀色の構造。何十もの層が組み合わさっている。鋭い糸が一本ずつ、その奥へ隠されている。
アズガル――赤黒い垂直の柱。鉄、血、命令、戦場。オーラには曲がりがほとんどない。敵と守るべきもののあいだに立つことへ慣れた、真っ直ぐな力。
マルヴェイン――網。細く、色を変え、危険。結び目。輪。
シアナ――暗い殻の下の深い青い光。
グロム――満足した力の、密な深紅の塊。
候補者たち――汚れ、眩しく、壊れ、頑固で、空っぽな、さまざまな炎。
そしてそのすべてより深く。
床の下。壁の中。空気そのものに。
〈影〉があった。
暗闇ではない。
力。
周囲に横たわり、待ち、聞いている。
そして今、彼を知った。
彼は息を吸った。
翼が開く。
大きい。
重い。
鳥の翼ではない。
革膜を持つ暗い翼。その脈には魔力が流れている。使い方などまだ知らないのに、最初から自分の一部として感じられた。折り目の一つ一つが応え、新しい神経の一本一本が痛みと力を歌う。
尾がゆっくり石の上を滑った。
彼は首を回した。
角のせいで重心が変わっている。首が強く、肩が広い。身体全体の中心が違う。
ケイルの肉体は成熟し、経験を積み、力に満ちている。
だが、もうケイルの身体ではない。
彼の身体だった。
恐ろしい。
奇妙だ。
間違っている。
そして、素晴らしい。
彼は顔へ手をやった。
黒い光の中で爪が光る。
肌は濃い灰色へ変わり、硬く、表面の下には《刻印》の線がかすかに走っている。前腕には黒曜石の亀裂のような模様が浮いていた。
胸の中で力が唸っている。
ゲームのマナ残量のようなものではない。
水門、河川、地下湖が連なる巨大な水系そのものに近い。
今まで触れることすらできなかったその系統の、主制御杆の前へ突然立たされたような感覚だった。
シアナがゆっくり針を下ろした。
「融合、完了しました」
最後の一語で声が裏返った。
リラは動かなかった。
だが目には、緊張と驚愕と安堵が同時にある。
最初に片膝をついたのはアズガルだった。
芝居ではない。
事実を認める兵士の動作だった。
続いてグロム。
警備たち。
候補者たち。
そしてその波が、広間のさらに奥へ広がっていく。
マルヴェインは、服従さえ外交手段に見せられる者らしい軽やかさで膝をついた。
ただし今度は、その目に嘲笑がなかった。
最後に膝をついたのはシアナだった。針と書類と板を同時に抱えようとしていたからだ。
結局リラが無言で半分を受け取り、それでようやくシアナは慌てて頭を下げた。顔は真っ赤。それでも目は、不可能な現象を目撃した研究者の光で輝いている。
リラは急がなかった。
数秒、彼を見つめた。
それから自分も片膝をついた。
「影の君主」
彼女が言った。
広間が繰り返した。
斉唱ではない。
もっと深い。
低く、あちこちから。異なる声。異なる信仰。異なる恐怖。
「影の君主」
彼は魔法陣の中央に立っていた。
一人で。
いや。
もう完全には一人ではない。
身体の中には、まだケイルの残響があった。
思考ではない。
別人の意識でもない。
技能。姿勢の重さ。広間に耳を傾けさせるために肩をどう置くかという知識。軍を見る目。大臣たちの前でどう黙るか。痛みをどう隠すか。
彼はゆっくり一歩踏み出した。
足元の石が割れた。
止まった。
下を見る。
「おっと」
新しい低い声で言った。
真っ先に顔を上げたのはシアナだった。
「正常です! いえ、完全に正常というわけではありませんが、一次出力として想定範囲です。力が今は身体の伝導量を上回っているので、表面への圧力を調整する必要があります。特に感情反応や魔力集中時には――」
リラが静かに言った。
「シアナ」
「はい。すみません」
彼は尾を動かした。
尾は従った。
従いすぎるほどに。
「これは変な感じになりそうだな」
まだ膝をついたままのマルヴェインが顔を上げた。
「見栄えはしますよ」
彼はマルヴェインをより注意深く見た。
今は顔だけではない。
男が左側をわずかに庇っていること。指へ緊張を隠していること。オーラが新しい権力へ慎重に触れ、距離を測り、見られたと分かった瞬間に引くことまで見える。
マルヴェインも、自分が見抜かれたと理解した。
そして初めて、ほんの少し顔色を失った。
「面白い」
「何が?」
リラが訊いた。
彼は彼女へ視線を移した。
リラのオーラが揺れた。
恐怖ではない。
準備だ。
もう頭の中で儀礼、日程、警備、アクセス権、脅威、衣服、文書、最初の噂、最初の演説を組み替えているらしい。
秘書兼助言役。
なるほど。実に正確な組み合わせだ。
「いろいろだ」
彼は答えた。
もう一歩進む。
今度は石が耐えた。
翼がわずかに開き、均衡を取る。尾が自然にずれ、動きを補正する。
身体は歩き方を知っていた。
追いつかなければならないのは彼のほうだ。
舌で新しい牙をなぞった。
それから自分の爪を、翼を、皮膚の下の暗線を、頭を垂れた魔族たちを、ケイル・ノルが消えた魔法陣を見た。
選択の重さは消えていない。
力が洗い流してくれたわけでもない。
たぶん、それでいい。
彼は背筋を伸ばした。
新しい身体では、その動きが恐ろしいほど自然だった。
広間がさらに静まる。鉢の炎まで少し低くなったように見えた。
「悪くない仕上がりだ」
何人かの魔族が顔を上げ、どう反応すべきか分からずにいる。
最初に小さく笑ったのはマルヴェインだった。
リラは一瞬だけ目を閉じた。今の一言が、互いに両立しない三種類の噂話へどう変換されるか、もう想像してしまったらしい。
シアナが小声で呟いた。
「悪く……ないです」
研究者としては、その表現の情報量の少なさに耐え難い苦痛を覚えているのが、顔を見れば分かった。
アズガルはさらに深く頭を垂れた。
「君主様」
今度は、その呼び方の響きが違った。
それまでは期待だった。任命だった。政治的な賭けだった。周囲が彼に被せようとしていた型だった。
今、広間の全員が見ている。身体を。力を。翼を。角を。《刻印》を。そして彼の意思に従った魔法陣を。
フョードルは頭を下げた魔族たちを見回した。
「もう立ってくれ」
誰も動かなかった。
リラが小声で助言する。
「権威の名を添えて、もう一度命じた方がよろしいかと」
彼は顔をしかめた。
「始めるな」
「効きます」
息を吐く。
新しい身体から漏れた吐息は、温かな影となって広間を撫でていった。
「立て」
今度は少し声を張った。
「影の君主が命じる」
全員が立った。
アズガル、リラ、マルヴェイン、シアナ、グロム。衛兵。各魔法陣に残っていた候補者。助手。書記。怯えていた者。利益を待っていた者。すでに大貴族家の力関係がどう変わるか計算している者。
彼らが、あまりにも鮮明に見える。
そして自分は、あまりにも何も知らない。
「リラ。情報が要る」
「はい、君主様」
またその呼び方に文句を言いかけた。
やめた。
「直近の脅威を全部だ。〈光〉の人間、国内の家々、王位を狙う連中、ケイルを選んだことに不満のある者――全部。マルヴェイン」
食えない魔族が姿勢を正した。
「はい、君主様」
「政治の膿んだ場所を地図にしてくれ。誰が誰と寝てる。誰が誰に借りがある。誰が誰を憎んでる。誰が俺の失敗を待ってる」
マルヴェインは軽く笑った。
「ようやく、まともな仕事ですね」
「アズガル」
「はい」
「警護、軍、国境。それと別枠で、軍人の中に『新しい君主はまだ新しすぎる』と思いそうな奴が誰か」
「承知しました」
「シアナ」
彼女はまた書類を落としかけた。
「は、はい?」
「俺の身体だ。全部調べてくれ。何ができる。何ができない。何をやったら死ぬ。何なら正常の範囲だ。なんで皆が歩く魔力の自白書みたいに見えるのか。それと、くしゃみしただけで壁を吹き飛ばさない方法」
「はい。もちろんです。適応手順、回路測定、初期のオーラ図、出力調整訓練、尾の協調運動試験、翼は狭い場所ではまだ広げない方がよくて、それから融合後は消費エネルギーが――」
そこでまた止まった。
フョードルは彼女を見る。
「あとで。文書で。科学を一息に全部詰め込もうとするな」
「はい、君主様」
シアナが言うと、荘厳さより戸惑いの方が強く響いた。
彼は魔法陣へ振り返った。
もう誰もいない。
床に複雑な線と、力の黒い染みと、空白だけが残っていた。
しばらくそこを見つめる。
それから言った。
「もう一つ。ケイル・ノルの名を記録から消すな。『器』に置き換えるな。『身体』だけで済ませるな。融合の記録には必ず彼の名前と、最後に発言する権利を使って残した言葉を記す」
リラは異論なく受け入れた。
「承知しました」
マルヴェインは注意深く彼を見ていた。
アズガルは肯定するように。
シアナは、資料庫に新しい項目が一つ増えたことを妙にありがたく思っているような顔をしている。
フョードルは改めて背中の翼を感じた。
尾を。
爪を。
血の中の力を。
周囲の〈影〉を。
そして、自分の怒りを。
怒りは消えていない。
ただ今は、国一つを危険にさらしかねない力を持っている。
彼はゆっくり笑った。
新しい牙のせいで、その笑みは以前とはまるで別物に見えた。
「それじゃあ今度こそ――〈光〉の人間がどういう仕組みで動いてるのか、説明してくれ」
誰も笑わなかった。
よし。
質問は正しかったらしい。




